滋賀県甲良町 法養寺 甲良神社
Korajinja,Kora town,Shiga
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March 3,2024 大野木康夫
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鳥居
拝殿
本殿(滋賀県指定有形文化財)
Nov.2010 撮影/文:中山辰夫
甲良町法養寺祭神:須佐之男命(すさのお)・伊弉諾命(いざなぎ)・伊弉冉命(いざなみ)甲良神社は佐々木京極氏によって、永正15年(1518)弓削村(現・竜王町弓削)から御神体を迎えたと伝わる。
この法養寺は甲良大工発祥の地ともいわれている。
佐々木氏の子孫で、日光東照宮造営の棟梁をつとめた甲良豊後守宗廣が、慶長9年(1604)この社を修理したとされる。
この神社は古くから上の郷の総社として奉仕され、明治5年(1872)には郷社になった。
中門・幣殿
本殿
県指定重要文化財
標準的な大きさの一間社流造である。前方を除く3面にはしぶき除けがつけられているため、組物の当初の色彩もよく残っており保存状態が良好である。
組物は向拝が連三斗であるに対し、身舎は出組に軒支輪を入れ、中備は蟇股を四方に飾り立体的な意匠となっている。
この本殿はよくまとまった細部意匠をもつ一間社の好例とされる。
建立年度は不明であるが、蟇股や木鼻斗?に江戸時代の寛永(1848〜54)頃の手法があるので、尼子の甲良神社と同じ頃の建立とされる。
ケヤキ
境内に聳える「町の木」であり、湖国百選にも選ばれた大木「ケヤキ」は、高さ26m、750年以上の年を経た名木である。
甲良豊後守宗廣
甲良宗広は天正2年(1574)法養寺集落で生まれた。祖父は工匠・丹羽長秀で、父も大工である。要は甲良大工の名門の出であった。
宗広は京都・建仁寺の大工に弟子入りして腕を磨き、青年期に家康に見出され、慶長大地震で荒廃していた伏見城の修築を手がけた。
伏見在住の頃、近衛家屋敷の門の造立について左甚五郎と競い、彫物の技により左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられたとされる。
この後、吉田神社の建築で大いに評価されて、豊後守の受領を得たとされる。
慶長5年(1604)江戸に下向した宗広は幕府の作事方大棟梁(さくじがた)に任じられた。作事方は大工頭中井家の配下にあって、幕府の建築関係万般を扱う役所であり、棟梁とは技術系の最高峰、つまり技監に相当する。
甲良家の家伝では、増上寺三門、慶長12年(1607)に建てられた江戸城天主、山王神社などを担当したとなっているが、異論もある。
台徳院霊廟、覚永寺五重塔(国重要文化財)は宗広の作品である。
寛永13年(1636)、家康の21回忌に際し、祖父の熱愛者だった家光は日光廟の大改築を指示し、造営奉行に秋元泰朝、設計施工は作事大棟梁の甲良宗広があたった。期間1年5ケ月、総工費57万両、工人延べ453万人という大事業であった・幸いこのときの建物は落雷で無くした本地堂を除き現存している。壁画、天井画は狩野探幽である。
続いて家光は寛永14年(1637)から翌年にかけて江戸城天主を造営した。場所は本丸の中央から西北の北拮橋門(きたはねばし)寄りに移し、慶長造営が中井家率いる法隆寺大工であったのに対し、日光と同じく甲良宗広率いる甲良大工を用いた。この天主閣は明歴の大火(1657)で焼失した。が甲良家伝来の彩色絵図が残っている。
宗広の代表作である日光の建築群については明治以来様々な意見が出た。今は「巧みな配置と構成美」「華麗な装飾性」などと好意的であるとのこと。
参考資料《総覧日本の建築、甲良の文化財、近江から日本史を読み直す、他》
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