滋賀県草津市 芦浦観音寺
Ashiura Kannoniji,Kusatsu City,Shiga
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草津市芦浦445 観音寺阿弥陀堂 重文 近世以前/寺院 室町前期 室町前期 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺 19010327
草津市芦浦445 観音寺書院 重文 近世以前/住宅 江戸前期 江戸前期 桁行11.9m、梁間7.9m、一重、入母屋造、西面及び北面下屋附属、こけら葺 19070828
May 2019 酒井英樹
芦浦観音寺
滋賀県草津市
<阿弥陀堂>
正面3間、側面3間、入母屋造、檜皮葺
滋賀県内では珍しい禅宗様
室町時代前期建立
《内部》
<書院>
桁行11.9m、梁間7.9m、一重、入母屋造、檜皮葺
江戸時代前期建立
《内部》
Aug. 2009 撮影/文: 中山辰夫
芦浦観音寺跡
草津市芦浦町445
国史跡:指定 2004.08
芦浦観音寺はJR草津駅から直線で約3km、浜街道からは約250m離れた芦浦町にあって、西に比叡山を望む琵琶湖岸にも近い天台宗の寺である。
寺暦は古く、推古天皇の時代(592〜628)の創建と伝え、開基が聖徳太子との伝説も残る。
奈良時代は伽藍の規模も大きかったようで、比叡山の勢力拡大にあわせ、隆昌が続いたとのこと。
その後、虚廃の時期もあったが、応永の頃(1394~1427)より漸次復興の機運に向かった。
室町時代以降、湖上交通を管理する船奉行を命じられ、その地位は織豊の時代にも維持された。徳川になっても重用された。
九世詮舜(せんしゅん)の時が全盛で、幕府代官に任じられた。詮舜は比叡山の再興にも尽くした。
観音寺跡は今の観音寺の境内周り一帯を指す。
観音寺の外観は、南側を正面に、長屋門とこれに続く石垣が築かれ、一見城門のように見える。
また、四方に土塁を築き、さらに外周を堀で囲み、寺というより、城郭的な様相である。
鬱蒼とした森に囲まれ、どっしりと落ち着いた存在感は迫力に満ちている。
政治の中心であった過去を物語るに十分過ぎる佇まいを呈している。
この観音寺の周囲・近郊は琵琶湖の見張り口だけに、人馬の交通量は非常に多かったと思われる。
街道筋には、すぐ近くの印岐志呂神社をはじめ関わりのあった有力な神社・仏閣が多く建立されている。
この地域一帯における観音寺の影響力はとてつもなく大きかったと推定される。
滋賀県教育委員会はこの寺の持つ歴史的重要性から、昭和60年「1985」に芦浦観音寺の境内一帯を芦浦観音寺館跡として県史跡に指定した。
さらに、平成16年(2004)には国史の指定を受けた。
草津市芦浦町445
芦浦観音寺は普段はかたく門を閉めている。
元亀2年(1571)、織田信長が比叡山延暦寺を焼討ちしたとき、多くの宝物が焼失したが、湖を渡って芦浦観音寺に避難したものも結構な数あったといわれている。
この類焼を免れた彫刻や絵画をはじめ、多くの文書などが観音寺に残っている。
重要文化財の指定を受けた阿弥陀堂には鎌倉時代の作の仏像が残されてあり、少し離れた書院にも残されていると聞く。
ただし、薬師三尊像と聖徳太子像は奈良国立博物館に、3躯の彫刻と観経変相図・茶道具目録・観音寺文書、などは県立琵琶湖文化館に寄託されている。
普段は閉ざされた堅固な城門も、予約すれば拝観が許可される。
お盆開けの某日、30代目の住職の案内で拝観できた。
閉鎖された山門しか知らない者にとって、山門が開くことに胸が締まった。
一歩門を潜ると、そこは上品な感じの庭園と境内だった。
約5,000坪という敷地内には樹木も多く、静寂そのままだった。
建物は本堂を中心に左右にわかれて建っていた。
後で住職にお聞きしたが、管理上、大木は殆ど切り倒したとのこと。
本堂は質素な建物だった。
仏壇に納まったご本尊は秘仏です。55歳前後とお見受けした住職さえ一度拝んだだけで、次のご開帳予定日は決まっていないとのこと。
お堂には仏像の写真や寺の履歴、社宝、秀吉からの朱印状のコピーなどが無造作に柱に貼り付けてあった。
ご本尊が祀られている本堂にしては余りに簡略な佇まいと配置だった。
この寺院が[幕府=官]と直結した繋がりで推移してきたため、一般寺院とは異なった形態で運営がなされてきた。
元々寺院でなかったとも極言できるかも・・・。
それが今にも影響している。
寺院としての一般的な動き・行事をしていなかった為に、檀家も存在しない、特定の信仰集団もないといった今日の姿となっている。
若干の寂しさ・物足りなさと、期待はずれの念が一瞬頭をよぎった。
目が行き届かないことで、止む無く宝物の管理を外部に委託する事情は理解できる。
しかし、住職にとっては、寺院としての方向付けを決めることの方が重要なテーマかも知れない。
阿弥陀堂
1392年建築
国重要文化財:建造物:指定 1901・03・27
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
阿弥陀堂は境内の左手、竹林を背にして建っていた。
純唐様仏殿で県内では珍しく、外部は極めて秀麗な建物でした。
内部は、細部にまで装飾が美しく施してあった。
堂内の来迎柱に造付となっている須弥壇は黒っぽく艶さえあった。
しかし、安置されている筈の本尊、阿弥陀如来像は無かった。
ここ観音寺に納められた殆どの仏像、絵画、古文書の保管を県立琵琶湖文化会館に委託されているためである。
建屋の軒反りは雄大に空へ向かって延び、窓は反りの少ない曲線の純唐風花頭窓、戸は桟唐戸、妻飾りは唐様三斗組である。堅魚の彫刻が類例の無いほど貴重なものと聞いていたが見落とした。
阿弥陀堂は京都御所内の仏殿普勧寺の本堂で、天文2年(1553)にここへ移された。
ここでも本尊が無く、空洞に近い内部に失望を覚えた。
こけら葺、檜皮葺を作業する技能者不足、材料不足、コストアップが三重苦で、葺き替えも25年から40年間隔にしても解決しないとのこと。
庭の手入れはボランティアと住職の仕事。
メンテナンスをこなすことで精一杯とのこと、文化財を維持し続けることは大変難しい問題である。
今回のように、勝手気ままに見学・拝観させて頂くだけでいいのか、文化財維持を一方的に押し付けるだけでいいのかとと自問せざるを得ない。
芦浦観音寺に漠然と抱いていたイメージと大きなズレを感じた。
11月23日に一般公開が行われる。再度訪問して、自分の疑問点を見つけたい。
1660年:建築
国重要文化財:建造物:指定 1907・08・28
桁行11.9m、梁間7.9m、一重、入母屋造、西面および北面下屋。附属、こけら葺書院は、主室は8畳で、正面中央に一間床、左半間に違棚と天袋を設け、右半間は通路となっている。
次の間が8畳、床裏控間が大目3畳、茶之間6畳、二之間が4畳半、三之間が3畳の計6室からなっている。
この書院はまず鏡天井拭板張の広縁を通り、3畳の三之間で用意の上、8畳の次の間から主室に入る。
主室と次の間境の鴨居には薄樋端が取り付けられてある。
書院の外観は軒の四隅に軽い反りがあり、軒出は極めて浅く、屋根の流れも直線で、反りらしいものは見えない。
観音寺の僧、詮舜の幕府に対する功労を賞して、貞享2年(1685)野洲郡永原にあった徳川将軍家の休泊所“永原御茶屋”をここへ移築したという。
江戸初期の建築で簡単な書院造りである。
飾り的なものは一切無く、まさに質実剛健というにふさわしいと感じた。
水周りも見当たらなかった。これは御茶屋の一部を移したもののためか。登り口も高い。
国重要文化財:絵画:鎌倉初期:指定 1900・04・07
参考不動尊
国重要文化財:絵画:鎌倉時代:指定 1900・04・07
参考三尊像
国重要文化財:絵画:鎌倉時代:指定 1900・04・07
参考十六羅漢
国重要文化財:絵画:鎌倉時代:指定 1900・04・07
参考五大尊像
重要文化財:絵画:鎌倉時代:指定 1900・04・07
参考聖徳太子像
絹本著色観経変相図
国重要文化財:絵画:南北朝:指定 1978・03・17
木造阿弥陀如来立像
国重要文化財:彫刻:指定 1900・04・07
参考阿弥陀如来像
国重要文化財:彫刻:指定 1900・04・07
参考地蔵菩薩像
国重要文化財:彫刻:指定:1909:04・05 聖観音立像
県指定文化財:彫刻:菊桐蒔絵堺重
工芸品:桃山時代
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