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滋賀県米原市 番場宿

Banba shuku,Maibara city,Shiga

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May.2,2018 柚原君子

中山道 第62 番場宿

概要

鎌倉時代から宿場の機能を果たしている番場宿は、滋賀県北東部の米原市南西部にある小さな宿です。現在の番場地区は東番場と西番場に分かれていますが、当初の宿場町は現在の西番場地区でした。1603(慶長8)年に本陣を勤める北村源十郎は彦根藩の命により琵琶湖に湊を築きます。8年後には湊と中山道を繋ぐ道が完成して琵琶湖水運で運ばれた荷が、米原から京へのあるいは京から江戸へ流れるようになりますので、その便宜上、番場宿は湊により近い方向の東番場地区に宿場機能を移した、という経緯があります。

番場といえば年配の方には長谷川伸原作の『瞼の母』の主人公『番場の忠太郎』でおなじみです。もちろん架空の人物ですが、設定が江州坂田郡番場出身との設定でそう呼ばれていて、宿内の蓮華寺の境内には忠太郎地蔵尊もあります。

番場の地名由来は摺針(すりはり)の関所の番衛が居た場所である所から『番場』、また伝説では聖徳太子が原野に馬を放ったので馬場と呼ばれていた地名が番場に変化したという説などがあります。

宿内にある摺針峠からみる琵琶湖の景色は中山道第一の景勝地と折り紙付きで、通過する諸大名も風景を楽しんだそうです。宿の短さも南北にわずか127mでこれもまた中山道一の短さとなっています。短い上に現在では跡碑ばかりの多い宿となっていますので、さっさかと歩いてしまえば、あっという間に終わってしまう宿並です。

1843(天保14)年の『中山道大概帳』によると、宿内家数は178軒、本陣1、脇本陣1、問屋6軒、旅籠10軒。小さな宿にしては問屋と旅籠数の多い事が、当時の物流をになっていたことを証明しています。

1、久禮の一里塚
丹生川橋を渡って番場宿に向かって国道を歩いて行きます。鱒の養殖場があることでも知られる地区です。鱒料理の専門店があります。暫くして、中山道は国道右側の道に入っていきます。元は茅葺き屋根だったのでしょうね。優しい曲線のトタン屋根の家やお地蔵様が祀られているお堂などを見ながら進みます。『樋口』の交差点を直進。どこにも案内はありませんが、この辺りは立場があったところ。地元の人が作ってくれた木の案内板があるので方向は解りやすいです。浄信寺、中北道標を過ぎると前方に北陸自動車道の高架が見えてきますのでくぐると『久禮の一里塚』です。

                                                     



2、本陣、脇本陣
中山道を歩いていると、単発で歩いている人には良く行き交いますが、通しで歩く意気込みの人にはあまりお目にかかりません。が、本日、前方から来てすれ違った人は、本格的な身支度の様子。昔の旅人を彷彿とさせる出立です。
宿の入り口である東の見附がどこだか解らないままに問屋場跡に。小さい宿にしては問屋場が6軒もあったとのこと。3分も歩かないうちにまた次の問屋場跡です。

米原湊から陸路に入ってくる荷物を捌いていたので問屋場が多いとのことですから、賑わっていた街道筋だったのでしょうね。その琵琶湖の米原湊に通じている道への道標があります。指の形が彫り込まれている珍しいものです。汽車、汽船とありますので明治期のものなのでしょう。

琵琶湖が相当埋め立てられて、現在は遠くなってしまったそうですが、江戸時代は米原は琵琶湖湖岸と言っても良い位置にあったそうで、陸揚げされた荷物が番場宿を通った事がよく分ります。

高岡家が勤めた脇本陣跡。兼業をしていたので問屋場跡も一緒に、新しい住宅から押し出されるように道路側にあります。続いて本陣跡。北村家が勤め、こちらも問屋も兼ねていたので跡碑が続いてあります。明治天皇が休まれた碑もあります。そしてまたまた問屋場跡、その他には特に見るべきものも立て札もなく物足りないくらいあっさりと通過します。向かい側道路に蓮華寺の案内が見えています。

                                           


3,蓮花寺
蓮花寺と示された方に折れると名神高速道路の高架があり、くぐると蓮花寺です。三万六千坪もある広大なお寺で聖徳太子の開基。もともとは法隆寺という七堂伽藍のある大きなお寺であったそうですが、1276(建治2)年落雷により焼け落ちています。その後は鎌刃城主の土肥三郎元頼が帰依して復興したと説明にあります。蓮花寺は天皇・上皇の発願・勅許により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願できる勅願寺(ちょくがんじ)ですので、菊のご紋となっています。

山門の左横に小さな溝があり、「血の川」の立て札。
『元弘3年5月9日(約660年前)京都での合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇・後伏見・花園二上上皇を奉じて中仙道を関東に向かって番場の宿に着いた時、南朝軍の重囲に陥り止むなく玉輦を蓮華寺に移し大いに戦いたるも衆寡敵せず敗退し、遂に本堂前庭に於いて仲時公以下従士四百三十余名悉く自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に血の川と称す。』と書いてあります。

六波羅探題とは鎌倉幕府の職名。幕府の出張機関として公家方の行動を監視させるとともに,洛中警固と西国御家人の統制を任務とし、北条氏一族中の有力者が1、2名が交代であたり,北方,南方と呼ばれたものです。京都での足利尊氏との合戦に破れ北条仲時は鎌倉へ戻ろうと、番場まで逃れて来たものの、ここ蓮華寺で敵に囲まれてしまいます。果敢に戦いましたが及ばず、本堂の前庭で仲時以下430余名が集団自決したということ。

蓮花寺の住職が自決者全員の名前と年令と法名を過去帳に納め、供養の墓碑を建立(過去帳は重要文化財として蓮華寺に所蔵されています)。その430名の五輪塔(墓石)が並んでいます。430人の集団自決は壮絶で血の川であったろうと背中に寒気が来ます。梵鐘や菊のご紋が付いている立派な勅使門のある蓮花寺を後にします。

                                                            



4,小磨針峠
ベンガラ塗りの家や鎌刃城の案内を見ながら進みますが、この辺りまでが東番場で宿の中心部分。これより先が西番場になります。地蔵堂を過ぎて右側に北野神社。その向かい側の民家の脇に『古代東山道 江州馬場駅 中山道 西番場』の石碑があります。古代はこの辺りが番場と呼ばれる前の馬場の宿駅であったことが示されています。
道はやや細くなり上り坂に。やがて高速道路と並行しがら高速道路の上にでます。ここが「小磨針峠」。高速道路の方はトンネルに入っていきます。ここから彦根市。右手に泰平水と地蔵堂。長いだらだらした上り坂はけっこう疲れます。泰平水を呑むのはちょっと勇気がいります。

                                                        


5,摺針峠・望湖堂
緩やかな下りを突き当たり右に。また緩やかな登り。右側に『摺針の一里塚跡』の標石があるそうですが見つけられません。左側に称名寺。また暫く上り坂で『神明宮』。神明宮の鳥居のある階段を上っていくと『摺針峠』と『望湖跡』。埋め立てで後退している琵琶湖は見えないそうです。まして今日は雨。視界が悪く階段を上ること自体をあきらめます。

「摺針(すりはり)」は、「磨針」とも書き、逸話が残されています。
修行で挫折しそうになった若者(実は弘法大師)がこの峠に来たときに、斧を石で磨いている白髪の老人に出合います。老人は、「一本きりの大事な針を折ってしまったので、斧が針になるまで石で磨いている」と言います。弘法大師は自分の修行の浅さを思い修行に励み、再びこの地を訪れたときに明神宮に栃餅を供え、杉の若木を植え、「道はなほ 学ぶることの 難からむ 斧を針とせし 人もこそあれ」と詠んだそうです。

現在その杉はありませんが、その杉の木の下に『望湖堂』という大きな茶屋があり絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打ったそうです。茶屋とは言いながらも建物は本陣の構えで「御小休御本陣」を自称するほどであったそうで、そのあまりの繁栄にぶりに、近隣の本陣が奉行宛てに、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように訴えた事実があるそうです。参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管してあったそうですが、残念ながら焼失して当時の建物はありません。

登ってきたときは緩やかな山道でしたが、降りるときは意外と急坂で、杉木立の奥に旧道がちらほら見えるのですが、資料によると通れない場所もあるとのことですので大きな道路を降りて行くことにします。
降りきって国道8号線にぶつかりますので、左折して矢倉橋を渡ると鳥居本宿です。

                                           


May 9, 2016 瀧山幸伸 source movie

米原市番場

西から東へ

        

蓮華寺

       

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