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滋賀県米原市 福田寺

Fukudenji,Maibara city,Shiga

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June 29, 2019 野崎順次 source movie

滋賀県米原市長沢1049

浄土真宗本願寺派

布施山 福田寺(長澤御坊)

この寺は、683年に創建されたと伝えられる息長氏の氏寺で息長寺と号した。元は現在の長浜市布施町にあり布施寺とも称された。また、当初は法相宗に属したが、その後天台宗に転じ、鎌倉時代後期善顕のとき浄土真宗に改められた。その後、現在地に移転し、一向宗の中心的寺院のひとつとして織田信長に対抗している。なお、幕末この寺に住した摂専は井伊直弼の従兄弟であり、二条斉敬と姻戚関係があった。

(ウィキペディア「福田寺」より)

国名勝の庭園を鑑賞するには前もってファクスで申し込まなければならない。その主な理由は、(行ってみてから分かったことだが)ご住職が二つのお寺を掛け持ちされているので、留守の場合がある。そして、必要なら事前に庭園の掃除をされる。誠に頭が下がる想いがする。

パンフレットと現地説明板、アプローチ

          

長屋門、立派な山門、格式の高い目隠し塀

        

鐘楼、経蔵、巨大な銀杏

      

県文 福田寺御殿(通称浅井御殿)

書院で、浅井長政の小谷城(現滋賀県湖北町)の遺構を移したものといわれる。

    

蓮如上人お手植えの松

蓮如が3年間滞在したこともあり、境内には蓮如上人お手植えとされる松が見事な枝振りを見せている。元の松ではなく、三代目という。

         

巨大な庫裏は、南禅寺の庫裏と同じ大きさという。

   

本堂と銀杏巨木

     

本堂内部

                     

国名勝 福田寺庭園 江戸初期 枯山水

さて、本庭は、本寺書院の前庭で、面積は約百五十坪ほどあり、前方に築山を設け、これに枯滝石組その他多数の石組を設けた枯山水であるが、この時代の枯山水は、枯山水でありながら、池庭的な地割を用い、やや枯山水としての抽象性を退化させている。しかし本庭は寛永期の作庭だけに、石組が豪健であり、この地方の枯山水としては特に傑出している。

本庭は、近くの米原青岸寺庭園と似たものがあるが、おそらく福田寺の庭園が先にできて、青岸寺の庭が後の延宝期になってできた関係からすれば、本庭が少なくとも三十年前後早く完成している関係もあって、それだけに石組の技法なども豪健である。前述した築山の中心部にある枯滝石組など、そのことをよく語っている。そして本寺書院の建築が寛永期であり、さらに杉戸絵の濃彩画も寛永期であり、いずれもほとんど同時代に完成したことが考えられる。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」福田寺庭園より)

                           

庭園と浅井御殿

     


May 8, 2016 瀧山幸伸 source movie

                                             


Nov.2011 中山辰夫

別名「長坂御坊」

米原市長沢1049宗派:浄土真宗

本尊:阿弥陀如来書院:滋賀県指定文化財

庭園:国指定名勝

奴振:滋賀県選択無形文化財所在

 

JR北陸線坂田駅から徒歩約4km 国道8号線を約100m西へ入る。 

 

概説

 

配置図

 

境内全景

          

表門

四脚門 入母屋造 本瓦葺 建築は、宝暦10年(1760)上棟で明和6年(1769)完成(瓦の葺き終わり)

本堂の正面に立つ豪快な門。柱はすべて円柱。

    

組物は拳鼻付きの出組とし、内側は一手目に実肘木をおいて天井桁を受け、軒裏に蛇腹支輪を備える。

    

飛貫と頭貫の間には蟇股を置 き、飛貫の梁間方向と頭貫の桁裄・梁間両方向に木鼻を出して、にぎやかなつくり。

  

目隠し塀

表門を入るとすぐ正面にある。

西本願寺と同格の格式をもつという。

    

太鼓楼

桁裄7.8m 梁間6m 重層 入母屋造 桟瓦葺

上層に大きな太鼓を吊り下げている。柱間装置は妻側に花頭窓をおく。上層の蟇股は手水舎の蟇股に似ている。

    

鐘楼

桁裄一間 梁間一間 切妻造 桧皮葺 18世紀前期

四方転び円柱 出三斗 中備三斗組物及蟇股 二軒繁垂木 妻飾紅梁大瓶束

    

建物の大きさに比べて部材が木細い。三斗上の通肘木上に巻斗を並べて四周に廻していて、特に妻側ではこれが見せ場となっている。

   

経蔵

正面5.9m 側面5.9m 土蔵造 宝形 本瓦葺

鐘楼の西に位置する白漆喰塗りの建物。建立直は大正もしくは昭和のはじめ頃。

  

殉教万人塚

信長の近江侵攻による元亀・天正の争乱で、浅井氏側につき、湖北十ケ寺の中心となって戦った。その犠牲者の徳を偲ぶ。

 

本堂

桁裄約20m、梁行約19m、入母屋造 向拝三間 本瓦葺の大規模な真宗本堂で、東面する。

正側面には、広縁・落縁と、縁を二重に巡らし最も整った形をとる。

柱は、内陣と余間廻りの16本が円柱の他は角柱とする。

    

向拝は面取角柱を象鼻付きの紅梁形頭貫でつなぎ、組物は中は出三斗、両脇は連三斗、中備は彫物とする。

外陣は中柱と側柱、中柱同士、及び中柱と内外陣境をつないで紅梁をかける。

    

蓮如上人お手植えの松

蓮如が3年間滞在したことがある。お手植えの松が見事な枝ぶりを見せる。

    

御殿

滋賀県指定文化財

桁裄53.8m、梁間39.9m、入母屋造 茅葺 玄関:正面一間側面一間 入母屋造 妻入 桟瓦葺

本堂の北にひっそりと建つ瀟洒な茅葺の建物。東南には入母屋造妻入瓦葺の玄関が取り付く。

    

寺伝によると「浅井御殿」と称し、小谷城から移築したものと伝える。福田寺と浅井家とは関係深く連合して信長に当っている。

    

現御殿の建立年代は、本堂再建に先行する17世紀後半頃とされる。

   

庫裏

桁裄32.7m 梁間12.9m 切妻造 桟瓦葺 玄関:正面一間側面二間 入母屋造妻入 桟瓦葺

本堂の東北に南面する大規模な建物。棟にエントツが付く。本堂とは廊下でつなぐ。

玄関は昭和17年以降に付加されたもの

寺伝によると文政年間(1818〜30)の建築と伝えるが、戸口上に架かる紅梁の絵様は時代相応とされる。

    

手水舎

桁裄一間 梁間一間 入母屋造 桟瓦葺

長屋門の西に位置する。柱は上方に粽(ちまき)をもった角柱とし、柱を頭貫でつなぐ。

組物は大斗肘木とし中備に蟇股を置く。内部は格天井。

    

長屋門

    

長沢池あやめ

  

公家奴振り

  

毎年5月1日と11月中旬に全国でもここだけにしか見られない公家奴振りが行われる。平成22年度11月は中止となった。奴役15人が集まらないためのようだ。

奴役の約15人が、足の裏を見せずに優雅に歩くのが特徴で、公家文化の風習を色濃く反映する奴振りは、全国でも珍しいという。

市と地元保存会によると、昭和期に入り、戦争で一時中断したものの、戦後間もなくの1952年に住民が復活させた。

以降、一度も欠かすことなく、地域の伝統行事として行われてきたという。

庭園

国指定名勝 書院から眺めるとその見事な石組の構成に圧倒される。 但し改修計画があり、平成23年末頃までは拝観できない。

池庭式の枯山水、中央に枯池が広く取られており、右手奥に枯滝の石組がある。

福田寺境内の書院(浅井御殿)の南庭は、水を用いずに池や滝を表現した枯山水で、国の名勝に指定されている。

蓮如(1415−1499)の作といわれ、広さは約307平方メートルと狭いながらも、均整のとれた、落ち着いた構成の庭園。

西南隅に枯滝(かれたき)石組を構え、その前面に池を見立てて、水分石を置き、周囲に築山や植込み、景石を配している。

書院に向かって左手前に立つ石燈籠(いしとうろう)は、浅井長政が寄進したもので、室町時代前期の優品。

 

資料 滋賀県教育委員会発行

  

境内社

熊野神社

    

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