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滋賀県米原市 米原曳山祭

Maibara Hikiyama Matsuri,Maibara city,Shiga
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Oct.10.2019中山辰夫

米原市米原

県無形民俗文化財

中山道と北国街道が分岐する旧宿場町、米原の伝統を伝える曳山とそこで演じられる子ども歌舞伎で知られる祭りで、湯谷神社の秋の例祭である。

米原曳山まつりは、長浜で曳山が次々と新造された1770(明和7)年頃、その影響を受けた米原町衆が、宿場町と彦根藩の港町として栄えた経済力と負けん気で曳山祭りを始めたとされる。その後も、交通の要衝としての繁栄に伴い、米原においても曳山狂言が始まり、曳山の造り替えなどが行われて今日に至っている。

   

曳山は3台有し、10月10日を中心に、宵宮・本楽・後宴と3日間行われる。

行事は3つの組に分かれて実施される。男子のみが参加でき、若い衆(14 歳〜45歳)が中心に組み立てられ,つきっきりで役者の世話をする。

子ども歌舞伎の見ごたえある演技を披露するのは、各町内の小学1年生から6年の男児5〜6人で、6月下旬に芸題を決め、7月上旬に役者を決定し、夏休みの開始と共に稽古を始める。今年は義経千本桜—吉野山の段

 

湯谷神社

社伝によると、上古出雲の国人が諸国巡視の途中この山谷に至り、土地の人に地を穿たせたところ、温泉が湧きだし、草木が生い茂ったので、その土地を拓いて五穀の種をまいたところ大豊作となり、コンコンと湧き出る湯につかる諸病が治ったことから祠をつくり大己貴命ほか2柱の神様を祀ったのが始まりとされる。

ところが、温泉は、ある人が葦毛の馬を湯壺に入れて洗ったので涸れてしまい、そのお湯は有馬温泉へ移ってしまったといわれる。

          

1183 (寿永2)年には米原が日吉神社の社領となり鎮護社となった。戦国時代は米原氏が氏神として崇敬し社殿修築をおこなう。江戸時代は、彦根藩主の保護があり、1733(享保17)年に社殿再興、手水八や狛犬の寄進を行う。

社殿は1833(天保4)年の造営。明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際休憩された旧本陣北村源一郎邸の一部が移築され保存されている。

神前奉納歌舞伎

子ども歌舞伎 「本楽」のようすである 子ども歌舞伎は神社の境内前の広場においた曳山の上で行われる

準備と役者の到着を待つ曳山−北組・旭山組

          

舞台屋根が向大唐破風、上に獅子頭が乗り、両側面の千鳥破風の棟上に鯱をおく。舞台の前柱には昇り竜、降り竜の飾金具、亭は四注造で四方に軒唐破風を付け、棟上には鳥の木彫りが乗っている。建造は1871(明治4)年とされる。

子ども役者の渡御 役者は早朝から風呂に入り入念な化粧をし、きらびやかな衣装を着けて出発する。今日は車で送られた。

    

始まり!はじまり!

          

約1時間の子ども達の演技−豪華絢爛たる衣装の可愛い豆役者の演技に見惚れて、見物客も大喜び

  

「山を見るなら長浜、芸を見るなら米原」といわれるように、引けを取らない芸でした。

奉納が終わった神社から曳きだす作業。これが大変、神社から出て町中を曳行しつつ、各所で熱演が披露される。

曳山の方向チェンジが大変な様だ

      

曳山が巡る米原の町並み

       

町並は現JR米原駅の東前方、太尾山麓側の北国街道沿いに展開している。

町家が並ぶ景観は旧宿場町当時の面影を色濃く残している。軒の低い中2階建ての連なる町並である。

  

宿の北端「旅館かめや」は1889(明治22)年の現東海道線の米原駅開設に合わせ、商人宿として開業した。

旅館の角には1845(弘化3)年建立の道標が建ち、それには「左北陸道 右中山道」と刻まれていた。

醒ヶ井宿方面(旧中山道)

  

木之本・長浜方面(旧北国道)

  

馬場宿方面(旧中山道))

 

道標

     

祭りの気配

     

米原は宿場町であると共に港町の顔も持ち、この港町の機能によって発展してきた。江戸時代初期ごろまでは、まだ名も知れない小さな寒村であった。

1603(慶長8)年、北村源十郎らの働きで米原に湊が整備された。彦根藩の政策により朝妻湊から米原湊・松原湊・長浜湊が彦根三湊として重要視された。

米原湊は現在の米原駅付近と案内にある。琵琶湖とは入江内湖を経由してつながっていた。

   

敦賀・越前方面と結ぶ北国街道との要衝も兼ね、街道沿いには町並が続き、船入り堀の周辺には蔵が建ち並んでいたといわれる。

その後、明治に入ると鉄道の開業で湊の役目が終わった。

湖東鉄道(現JR東海道本線)が1889(明治22)年に開通し、米原駅は北陸線との分岐駅として重要な位置を占め、その後は鉄道の町として発展してきた。

終戦後、入江内湖の干拓が行われ現在の姿になったが、東海道と北陸を結ぶ交通の要衝という町の性格は、今もなお違う形で継承している。

 

町中には旧中山道、旧北陸街道、国道8号線、国道21号線、名神高速道路と北陸自動車道の分岐点があり、古代から今も交通の要衝である。

今も時々見られる懐かしい黒煙−SL機関車が時々走る

 

消える滋賀の風景

旧米原尋常高等小学校

湯谷神社鳥居前に建つ。1892(明治25)年入江尋常小学校としてスタートした。当時としてはピンクが映えるモダンな木造校舎であった。

その後合併の度に校名が変わるも、最後は坂田郡少年センターとして使用され、その役目も終わり今年度中に取り壊されることになった。

          

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