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滋賀県米原市 成菩提院

Jobodaiin,Maibara city,Shiga

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Apr.2012 中山辰夫

米原市米原市山東町柏原1692宗派:天台宗

本尊:十一面観音山東町柏原は古くから街道が通る交通の要衝で、江戸時代には中山道の宿場町として栄えた。

成菩提院は、その柏原集落のはずれ、旧中山道が見下ろせる山麓・向山を背にしてある。

寺域には方丈形式の本堂・庫裏・鐘楼などが建っている。

現在は、静かな佇まいの中にあって、長い歴史と豊かな文化財を今に伝える名刹である。最澄が東北に向かうときに小さなお堂を建てたのがはじまりで、天台宗の古刹である。天台宗の談義所として寺観を整える。

嘉暦元年(1326)平泉寺の衆徒が乱入して堂宇を焼かれるが、応永2年(1395)貞舜が足利義満の心願をうけて寺坊を再興。

柏原が交通の要地であったことから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、また関が原の合戦前に小早川秀秋も宿泊したとされる。

徳川家康の参謀といわれた天海大僧正が住職を務めた時期もある。又、数多くの文化財を有している。

門前の玉砂利を踏みながら山門に入る山門

くぐると石段が続く。傍らには「下馬」と刻まれた小さな石柱と池に囲まれた小さな祠もみえる

石段を上ると中央に客殿

右手には銅葺の本堂

左手には鐘楼

室町時代に建立

護摩堂

毎年2月3日には節分会が催され、護摩堂一杯に信者が集まり、各々の願いを込めた2000本もの護摩木が焚かれる

寺宝

鎌倉時代から室町時代の天台宗関連の仏書が多数保存されている

国重要文化財として、

絹本著色浄土曼荼羅図、同聖徳太子像・同不動明王二童子像と金銅雲形孔雀文磬がある

滋賀県指定文化財として

絹本著色普賢十羅刹女像、平安時代の大般若経600帖がある。

≪参考資料: 山東町史、中山道、ほか≫

由緒

寺伝によれば、弘仁6年(815)最澄が当地に談義所を建てたのに始まり、のち延暦寺の別院に一つとなる古刹

嘉暦元年(1326)越前平泉寺の衆徒が乱入、堂宇が焼かれたが、室町時代に入り、足利義満の心願を受けた

延暦寺西塔僧・貞舜が再興し、住持したとされる

その後は江北を本拠とした京極氏の庇護のもと栄えた。信長は妹お市を浅井長政と結婚させ、浅井氏と親戚関係にあった頃、近江に来た信長に、京極高吉は信長に接見し

指示に従い協力することを誓った。その後、信長に二心ないことを示すため嫡子の小法子(後の高次)を人質に出した。

この高次が滅亡に等しかった京極家を再興させた。中山道の交通の要路にあり、織田信長は永禄11年(1568)浅井長政と会見のため近江入りし当寺で一泊、同年9月

足利義昭を伴って入京した際、またその帰路も当寺を宿とした。豊臣秀吉は天正18年(1590)小田原出兵の際や、文禄2年(1593)上京の際に宿泊。関ケ原の直前には小早川秀秋も宿営した。合戦後、住持祐円は徳川家康の陣に戦勝を祝し、家康から兵糧の

残米と陣営の古材を寄進され、堂宇を修造した。

江戸時代盛時には末寺八十余カ寺を数えたという。寛文5年(1665)の調書には64坊、僧103人とある。

徳川幕府のもとで天台宗の講義所として栄え、多くの僧を世に送り出した

成菩提院に遺された三成の掟書

少年時代の三成が秀吉を気遣った三杯の茶のエピソードは、繰り返し聞く昔話のようなものだ。

佐和山城主、三成がどのように民政を進めていこうとしたのかをよく伝えるのが、所領である犬上・坂田

浅井・伊香四郡に出した「十三ヶ条掟書」「九ヶ条掟書」で、「治部少枡」と呼ばれた三成が提供した枡を

使用すべきことなどが記されている。年貢高の決定に関する細かい規定がされているのが特徴だ。

三成への直訴を許すという内容もある。年貢という税金システムの確立や、年貢を差し出す者の権利の保護を

めざそうとしていることがわかる。しかし三成が佐和山城主であった期間は10年に満たなかった。

この「十三ヶ条掟書」、「九ヶ条掟書」の2種の掟書は現在も各地域に残っているそうだ。

旧山東町柏原にある天台宗の古刹、成菩提院(じょうぼだいいん)には「十三ヶ条掟書」が保管されている。

ご住職の山口智順さんによると、このあたりは当時成菩提院村と呼ばれ、寺の領地であったことからここに

掟書が残っているのだという。ご住職が興味深いエピソードを教えてくださった。

関ヶ原の合戦で三成率いる西軍から家康側の東軍に寝返った小早川秀秋が、合戦直前に成菩提院に滞在していた

というのだ。これは禁制札と呼ばれる、武将が部下に出す滞在時の約束事を記した木札の日付からわかるそうだ。

このときの住職、祐円は徳川家康のブレーンといわれた天海の兄弟子であった。

「天海から祐円に、そして祐円が秀秋に…という形で秀秋の寝返りの決断を固める何かがあったとも考えられる

わけです」とご住職は推測される。

それを裏付けるかのように、合戦後祐円は家康に戦勝祝いとして牡丹餅を献上し、家康から合戦時の櫓に使った木材

などをもらい受けたという。

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