JAPAN GEOGRAPHIC

滋賀県米原市 観音寺

Kannonji,Maibara city,Shiga
Category
Rating
Comment
  General
  
 
  Nature
 
  Water
 
  Flower
 
  Culture
  
 
  Facility
 
  Food
 


米原市朝日1342 観音寺 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 正徳6(1716) 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、背面張出附属、桟瓦葺厨子1基、棟札断片1枚 19930420

米原市朝日1342 観音寺 鐘楼 重文 近世以前/寺院 江戸中期 享保10(1725) 桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、桟瓦葺 棟札1枚 19930420

米原市朝日1342 観音寺 惣門 重文 近世以前/寺院 江戸中期 18世紀前期 一間一戸薬医門、切妻造、桟瓦葺 19930420


February 19, 2022 大野木康夫 source movie

門前の雪景色

      

惣門(重要文化財)

                          

部分撮影

                

参道

                    

本堂(重要文化財)

                                      

部分撮影

                                                                                              

鐘楼(重要文化財)

                  

部分撮影

                                      

その他境内、帰路

    


Jan.5, 2013 大野木康夫 source movie

惣門前から伊吹山の眺め

        

説明板

     

惣門

                                         

参道、本坊

            

本堂

                                                                                                                              

鐘楼

                                                   

薬師堂

  


Aug.2011 大野木康夫 source movie

2011.7.27撮影 伊吹山旧四大寺の一つ。

平安時代前期の仁寿年間、律師三修によって建立されました。

観音寺は通称で、正式には伊富貴山観音護国寺(いぶきやまかんのんごこくじ)といいます。

もとは法相宗(ほっそうしゅう)に属していましたが、弘和(永徳)3年(1383)に天台宗に改めました。

正元年間(1259-1260)に、現在地に移築されています。

本尊の十一面観音像は行基(ぎょうき)作で、伊吹山(1377.1m)の霊木を刻んだものと伝えられています。

胎内に、貞応3年(1224)の銘を記す伝教大師坐像は、鎌倉初期の作品で高さ約65cmの一木造。国の重要文化財に指定されています。

堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂、鐘楼、山門などからなり、秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に、寺の小僧をしていた石田三成(いしだみつなり)を「三碗(さんわん)の才」で見出したことで名高い寺です。

(滋賀県観光情報HPより)伊吹山の麓、山間の静かなお寺です。

     

惣門(重要文化財)

江戸時代中期の建築

一間一戸薬医門、切妻造、桟瓦葺

               

総門から本堂への参道です。

槿が咲いていました。

                 

本堂(重要文化財)

正徳6(1716)年の建築

桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、背面張出附属、桟瓦葺

                             

鐘楼(重要文化財)

享保10(1725)年の建築

桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、桟瓦葺

     

伊吹山の遠望

  


Feb. 2010 撮影: 中山辰夫

通称:大原観音寺米原市朝日1342 天台宗本尊:千手観音観音寺は長浜から約7km、伊吹山の西麓の山東町と長浜を画する横山丘陵の西側にある。

観音寺トンネルを潜り抜けるとすぐ左側に観音寺の参門が見える。また、前方には雪を戴いた白銀に輝く伊吹山が見える。

山門から境内まで約200m参道が続く。その両側には坊跡と2〜3の坊舎が並ぶ。境域は5000㎡とされる。

              

伊富貴山観音護国寺が正式名称で、9世紀に三修が開基、古くより弥高・太平・長尾の三ケ寺と共に伊吹山四ケ寺の一つとして、当地方の中心的寺院であった。13〜14世紀に当地に移り延暦寺の末寺となった。

この地の豪族・大原氏の庇護を受け寺観も整ったとされる。今頃の時期は訪れる人も少ない。境内は静まりかえったままで、物音一つ立たない。

境内には雪が残っており、歩く際には注意し、恐る恐る堂宇に近づいた。

寺伝では、宝亀年中(770〜781)三朱が創建。伊吹山中の弥高山(いやたかやま)と称される屋根上に弥高寺とともにあったが貞和3年(1347)現在地に移建。永徳3年(1383)法相宗より天台宗に転じ延暦寺末になった。

応永26年(1419)と文明8年(1476)の本堂造作日記によると、伊吹山南麓、姉川下流南岸一帯、横山西麓一帯を含む広範囲の村々で勧進に応じており、当寺が姉川の水を司る水分神として信仰されていた伊吹山の寺であった。

貞和3年(1347)如法経聖堂籠規式条々が定められ、一定期間の山籠による如法経が当寺の宗教儀式の中で最も重視されていた。

応永12年(1405)の本堂造作次第によると、本堂のほか、不動堂・阿弥陀堂・薬師堂・行者堂・三重塔などがあり、寺坊も17坊あった。

室町時代には23坊あった。

各坊は近世では観音寺村の村役人を輪番で勤めていた。

鎌倉ー室町時代、寺領を多く有し、戦国時代は浅井家からも安堵され、保護を受けた。羽柴秀吉は寺領を安堵するとともに、長浜城主時代にはたびたび立ち寄り、天正4年(1576)には当寺に茶屋を申付けている。寺小僧であった石田三成との出会いが伝わる。

大原観音寺文書625点、正徳年間(1711〜16)に修造された現本堂は県指定文化財。貞応3年(1224)の刻銘のある木造伝教大師坐像は国指定重要文化財である。寺坊は現在2坊が残る。堂宇は正徳5年(1715)再建の本堂のほか、薬師堂・庫裏・鐘楼が並ぶ。

中世以降の文書や美術品を多く蔵していることや本堂の意匠の華やかさで県内を代表する仏堂である。

                                      

山門

        

鐘楼

            

本堂

重要文化財:建造物桁行5間、梁間5間に背面軒下に庇を張り出したほぼ正方形の平面に向拝が付く。一重、入母屋造、桟瓦葺本堂としては中規模の大きさである。施された華麗な彫刻は素晴らしく、未だに衰えをみせない。

堂内には、秘仏である本尊の千手観音や木造伝教大師坐像(国重要文化財)など多くの仏像が安置されている。

寺院全体の管理に手が廻らない状況にあるのが心配である。

                              

薬師堂

                  

木造伝教大師坐像

国重要文化財:鎌倉時代像高:65cm、一木彫、胎内に貞応3年(1224)の造立銘がある。石田三成水汲みの井戸羽柴秀吉が、お茶の出し方が非常に才気に富んでいると、寺の小姓であった佐吉(三成)を近習として召抱えた。(武将感状記)

    

参考資料《滋賀県の近代寺院建築、総覧日本の建築、滋賀県歴史散歩、滋賀県の土地、近江坂田郡志、ほか》

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中