滋賀県米原市 清滝寺 徳源院
Seiryuji Tokugenin,Maibara city,Shiga
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April 1, 2023 野崎順次 source movie
滋賀県米原市清滝288
天台宗
霊通山 徳源院 清瀧寺
弘安6年(1283年)、京極氏の初代当主・京極氏信は近江守へと任ぜられ、弘安9年(1286年)に清瀧寺を創建した。
寛文12年(1672年)、讃岐丸亀藩主京極高豊は江戸幕府に請願し、播磨の所領2村と近江を交換し、同地にあり京極氏の菩提寺であった近江清瀧寺を復興、付近に散在していた墓碑を一カ所に集めて整理し、三重塔を寄進、また歴代当主の墓を集めて並べ、院号を父・京極高和の法名に基づき徳源院と改めた。
(ウィキペディア「徳源院(米原市)」)
パンフレットと現地説明板
桜並木の参道を行く。入口に1対の磐座があったから、隣接する清瀧神社の参道も兼ねているのだろう。
正門
市天然記念物 徳源院道誉桜
左が道誉桜2代目、右が3代目、共に満開の見頃
道誉桜2代目
道誉桜3代目
県文 三重塔
本堂と客殿
客殿内部
県指定名勝 徳源院庭園
枯山水のようだが、以前は池に水が満ち、池泉回遊式であった。地震で水源が涸れてしまったそうだ。
本堂
本堂横の小部屋の幽霊画(清水節堂 1976-1951)と不動明王像
渡り廊下の展示
位牌堂内部
京極家墓所は工事中で入れないので、いったん正門を出て、西側から塀越しに見るしかない。まずは塀越しの三重塔
国史跡 京極家墓所
スミレ
帰途、満開の桜並木
Nov.17,2018 瀧山幸伸
境内、三重塔
京極家墓所(史跡)
庭園
位牌殿ほか
所在地 滋賀県米原市清滝288
参道
境内入口付近
道誉桜(二代目、三代目)、ヤマザクラ、三重塔
庭園
清滝寺京極家墓所(国指定史跡)
塔中徳源院境内ニアリ山際ニ土塀ヲ廻シテ一廓ヲナス
初代氏信弘安年中此地ニ一寺ヲ建テ永仁三年卒スルニ及ビ墓ヲ設ケ寺號ヲ清瀧寺トセリ
ソノ後累世ノ墓地トシテ明治維新ニ及ビ墓石ノ數スベテ三十一基ニ逹ス
中指定セルモノハ高次ニ至ルマデ十九基トス
皆寶篋印塔ノ墓石ニシテ上下二段ニ配置セラレ高次ノ墓ノ外ハ皆上段ニアリ
ソノ中氏信ノモノヲ始メ十基ハ建立ノ年月ヲ刻セリ以テ鎌倉時代以後慶長年代ニ至ルマデノ寶篋印塔ノ変遷ヲ徴スルニ足ル
又高次ノ墓ハ構造精巧ヲ極メタル石龕ノ中ニアリコノ種ノモノハ越中高岡瑞龍寺ナル前田利長ノ墓及高野山奥院ナル結城秀康及其母ノ墓ノ石室ニ類例ヲ見ルノミトス
(国指定文化財等データベースより)
帰路
清滝寺徳源院
米原市山東町清滝
「たいまつ山」と呼ばれる標高439mの優しい山容に抱き抱えられるように清里の里がある。里の中央辺りから山へ向かって真っすぐに桜の並木が続く参道が奥へ延びている。
参道の奥まった山裾に、春は有名な道誉桜が咲き誇り、秋には一面に萩が咲き乱れる。その中に清滝寺徳源院がある。京極氏歴代の菩提寺である。
NHKの大河ドラマ「太平記」が25年前に放映された頃とは違い、今は訪れる人が多いのは、桜と萩のシーズンだけである。
境内には三重塔が建ち、本堂裏手には、白壁の土塀に囲まれた18基の宝篋印塔を中心に多くの墓石が建ち並んでいる。
鎌倉時代から江戸時代に至る一族の墓が残り、幾多の曲折を経て大名として幕末まで存続、繁栄してきた同家の歴史を物語っている。
江戸時代に、京極氏の末裔、丸亀藩主京極高徳が整備した。
京極家系譜
桜咲く頃の境内の様子である。
国指定史跡
築地塀周辺をぐる—と巡る
家紋瓦と四ツ目絞瓦 すべての瓦が紋入りである。
墓所より見る桜
三重塔周辺。 三重塔は滋賀県指定文化財 建立:1672(寛文12)年
明治末期に?葺から瓦葺となり、その後朽ちてゆく一方にあったが、住職と村人たちの郷土愛が、町や県を動かし県の文化財に指定された。
1977(昭和52)年、県事業で大改修が実施され、創建時のこけら葺屋根が復元された。秋、ハギに囲まれた三重塔は絶景と聞く。
墓所
18基の鎌倉時代から安土桃山時代までの見事な宝篋印塔がズラリ。祖始氏信の墓を最右端に、十八世高吉までの墓である。二十二世高豊が整備した。
京極家を見事に再興した京極高次の墓を納めた石廟は越前凝灰岩である。一つ一つの墓石に京極氏の盛衰の程が表わされているといわれる。
満開前の様子(Apr.9,2012)
道誉桜
Douyosakura
満開前の様子(Apr.9,2012)
清滝寺(徳源院)の参道に並ぶ桜は巨木で前方の山をも隠す勢いで枝を伸ばしている。このあたりからすでに圧倒される。
道誉桜は、京極系佐々木家の菩提寺、清滝寺徳源院の庭に咲く。永の歴史を見据えてきた重みが感じられる桜の木である。
大きな桜の古木は、道誉手植えと伝わるシダレ桜で、細長く垂れた枝に淡紅色の一重の花を一杯咲かせる。エドヒガンの一種で、イトザクラとも呼ばれる。
道誉は、足利尊氏に仕え、幕府の元老として勢力を保った京極五世の高氏(1296〜1373)である。
高氏は31歳で仏道に入り「道誉」と号したのに因んで「道誉桜」と呼ばれる。
道誉は、南北朝時代の動乱期に、足利尊氏(高氏)と連携して活躍し、室町幕府の重臣としての京極氏の基盤を築いた。また新奇を好み、バサラ大名として有名で、その「婆紗羅」振りは太平記に詳しく描かれている。彼は香道・花道・歌などの文芸にも優れ、当時の文化の担い手としても貴重な人物であった。
二代目道誉桜
実に堂々たる桜花である。この見事な枝垂れ桜を見ていると、自信に満ちたエネルギッシュな面構えの道誉、60歳時の肖像画が目の前に浮かぶ。
肖像画—国重要文化財指定
犬上郡甲良にある導誉が創立した禅刹・「勝楽寺」に保管されている。ここで晩年隠棲した。
この画像はその子第6世の高秀が画師に画かせ高氏自らも称賛している。
道誉桜は二代目と三代目である。
三代目道誉桜が三重塔の前に育つ。
道誉桜の二代目、三代目は治療を受けつつも元気な姿を見せている。その姿は堂々としており、この清滝の地で栄華を誇った京極氏歴代の菩提を守り続けてきた古老のように威厳を保っている。
さらに、美しい爛漫の花を咲かせている姿は、あたかも、稀代の文化人として自由奔放の生涯を送った道誉その人に、咲き方も似ている気がする。
佐々木道誉は、俗名佐々木高氏、先祖は源平合戦の際、宇治川の先陣で名を成した佐々木高綱の同族である。
代々、近江国(滋賀)の領地佐々木荘を基盤に一族を盛り上げ、都に近い地の利を生かして近江国の守護職を取り、守護大名中の実力者として頭角を現した。
先祖の佐々木家は六角と京極との二派に別れ、道誉は京極家と呼ばれた。
ここ菩提寺徳源院には、京極家代々の墓碑が、往年の道誉一家の威勢を示すようにズラリと立ち並んでいる。
米原市山東町清滝宗派:天台宗
本尊:聖観音歩く道中に見かけた伊吹山
柏原の町並みから右に折れ、山に近い道を西北に1kmばかり行くと清滝にでる。
ひなびた集落の先は・清瀧神社・徳源院の参道で、アラカシの木が続く。
やがて石垣積みの土塀がアラカシ林におおわれて現れる。
当寺は近江源氏佐々木京極家の菩提所として知られる。
清滝寺は京極家の祖氏信が、弘安年間(1278〜87)に創建した寺とされ、古くは12坊を擁したが、今は徳源院の堂塔
ばかりとなり、本堂前南寄りに三重塔が建ち、前の広場には萩が繁って、風雅な古寺の姿である。境内は3300㎡の広さがあり、客殿、本堂、位牌殿、三重塔、京極一族の墓所などがある。
普段はひっそりと佇む寺院であるが桜の季節は賑わいを見せる。「ばさら大名」として名をなした導誉桜が咲き誇る。
位牌殿
本堂
清水節堂の幽霊掛軸 3Dの代表例 一枚の紙があれば立体表現は可能、という作品。
普通、掛軸はその目玉となる絵を引き立てる為に、表装という装飾が施されている。
これはその表装までを絵師が描いている。
あえて表装まで描き、そこから抜け出す幽霊を絶妙な透かし・ぼかしを駆使して描く
そのまんま『描き表装』という名の技法だそうだ。
この掛軸は京都の曼珠院の所蔵となっていたが、徳源院のご住職が曼珠院の住職を勤め、代替わりした息子さんが
再び徳源院に戻る際に一緒に持って来られたとの事だとか。
作者の清水節堂という絵師は明治8年長浜生まれ。幽霊画でも有名な円山応挙などとは違い、近代の日本画家。
客殿
三重塔
滋賀県指定文化財京極高豊が、荒廃していた寺を再興した際に寄進した。
三重塔はこけら葺・三間三重塔婆である。比較的小規模な塔であるが、内外部ともに本格的な構造をしている。
総高は、礎石上端から相輪頂上まで15.52mで、屋根は昭和51年(1976)の修理で当初のこけら葺に直された。
初重はすべて円柱で来迎柱とも礎石上に立ち、側柱下部は足固め貫を回し、柱頂は頭貫を用いず台輪をのせて
固める。
二重と三重の軸部は側柱円柱で隅柱は化粧地隅木の奥行上端に立ち、ほかの柱は地垂木上端の土居上に立っている。
斗きょうは尾垂木付きの三手先、支輪は一重が蛇腹支輪、二重三重は板支輪である。
各重とも高欄を設け、美麗な姿である。
導誉桜
京極高氏が植えたとされることからその法号をとって導誉桜と呼ばれる。
エゾヒガンザクラの一種のしだれ桜で、枝が柳のように細く垂れ、単弁で淡紅色の花が咲く。
樹齢約300年、樹高は約10m、幹周りは2.3mほどである。今は二代目、昭和52年(1977)三代目を植える。風雅を愛した武将・導誉は眠る墓の中で桜吹雪を何度微笑んだであろうか。
『花かとて木のもとことに立よれ、ただ雨雲のよそめ成りけり』(導誉)
訪れた4月9日は前日に雪が降り、桜の開花には程遠かった。
徳源院庭園
滋賀県指定名勝江戸中期に整備されたもので、背後の山をたくみに借景とした池泉鑑賞式庭園である。大名の力を偲ばせる規模である。
小堀遠州の作と伝えられ、今は枯れて水は無いが、舟入りを備えた池の周りには、豪壮な石組を多数配されており、自然の
岩盤を利用した滝口と共にこの庭の見所となっている。
春は、参道と境内の導誉桜が見事。秋は、庭の北にあるモミジはが深紅に深まり「血染めモミジ」と呼ばれる。
京極家墓所 (別掲)
国指定史跡
歴代の宝篋印塔34基が並び、墓地全域は国の重要文化財に指定されている。
「参考資料」
佐々木京極氏は、五世高氏(導誉)が足利尊氏の下で活躍したことで栄え、室町幕府では四職家に数えられるほど
重要な地位を占めるようになった。戦国期には家臣であった浅井氏に実権を奪われるが、浅井氏の滅亡後、十九世高次が姉・竜子の力もあって、時の権力者信長、秀吉、家康の間を巧みに渡り歩くことで再興し近世大名となった。
清瀧神社
米原市清滝312
祭神:たかおかみのかみ 孝元天皇 嵩神天皇 武内宿弥 徳源寺に向かう参道を、途中で右折する。徳源院に隣接して建つ。
創祀は保延4年と伝えられる。山城国醍醐寺にある清龍宮の分霊を祀り、清龍大権現として北近江の祈雨霊場である。
佐々木京極氏信が、江北六郡の守護職となり、当社を崇敬し隆昌した。
拝殿
入母屋造 間口二間三尺 奥行二間
本殿
三間社流造 間口一間二尺 奥行五尺 覆屋あり
≪参考資料≫ 滋賀県教育委員会発行 「京極氏の足跡を訪ねて」より県内に残る京極氏の足跡
解説
小谷城
勝楽寺・勝楽寺城
大溝城
八幡城
大津城
沙沙貴神社
江戸時代の京極氏を訪ねて
導誉桜
推定樹齢約300年 エドヒガンザクラ
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