滋賀県米原市 山津照神社
Yamatsuterujinja,Maibara city,Shiga
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米原一帯を含める。息長一族のロマン |
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Nov.2011 中山辰夫
米原市近江町能登瀬(のとせ)390 祭神:国常立尊
国史跡:山津照神社古墳JR東海道本線米原駅下車、国道8号線を北に、国道21号線の分岐点まで行き、分岐点より21号線を東に約2km進みさらに北に東海道本線を横断し500m進むと能登瀬の集落に入る。その背後の低い丘陵地に山津照神社がある。
山津照神社は、老樹に囲まれた神社で、奈良時代の豪族息長(おきなが)氏が国常立尊(くにのとこたちのみこと)
を祖神として祀り創建したと伝えられる古社。
鎌倉中期に後鳥羽天皇が宝剣を奉納したと伝えられる。
境内には参道の拡張工事で発見された前方後円墳の山津照神社古墳があり、息長氏一族で神功皇后(じんぐう)の父息長宿禰王(おきながすくねおう)の墳墓といわれる。山津照神社の現社殿は、明治15年(1882)に旧境内より移転新築に着手、同18年(1885)完成遷宮されたもので旧社殿が現社殿よりも南に約80mはなれた山裾にあった。青木神社のある場所であった。石段を登ると「一の鳥居」、そして前方に幅広の境内を見渡す。
境内図
直ぐ左手が境内社の青木神社
山津照神社の旧社殿があった場所である。
青木神社は、祭神は青木氏の祖、藤原鎌足より八代の孫、青木武蔵守時長、同利仁、同某、同吉信、同伊傳の五代を祀る。さらに進むと祭器庫があり、山津照神社古墳の案内がある。「詳細は別途記載」
傍らの祠境内社・若宮八幡宮で、中の男女の神像は伊邪那美命と伊邪那岐命あるいは息長宿伊禰王とその妃であるといわれている。
と宝蔵庫
二の鳥居を過ぎると正面に拝殿が建つ。
拝殿
入母屋造 間口四間 奥行三間
中門への渡廻廊
中門
本殿
三間社流造 間口四間 奥行三間三尺
紅葉が美しい所
社宝
神功皇后征韓の時用いられた鉞(まさかり)
器鉄製で、一部に金装飾あり。
象嵌様
木造狛犬
寛政2年(1461)修理と在銘 山津照明神と青木宮が神名異称同神なるを示す史料とされる
由緒
祭礼は5月5日に武家奴振りが9月11日に奉納角力が行われいる。
武家奴振り
江戸時代宝暦年間より、山津照神社の祈祷札(天下泰平・武運長久・宮中御安泰)を京都御所へ献納していた当時の道中奴で、江戸時代から明治4年(1871)頃まであったといわれ、戦後間も無く復活された。
奉納相撲
「青木角力」として有名。かつては敦賀や美濃からも力士が参集し、活況を呈していたが、最近は氏子青年会により行われている。
山津照神社古墳
国指定史跡
出土品:滋賀県指定文化財
山津照神社の境内にある。
全長43mの比較的大規模な前方後円墳で、古墳時代後期6世紀代のものであるが、地元では神功皇后の父、息長宿禰王の墓と伝えられている。
明治15年(1882)境内拡張のため後円部を削り取った際に横穴式石室が発見された。
その際出土した鏡・馬具・須恵器などの出土品の一部は境内の収蔵庫に納められている。
資料 滋賀県教育委員会発行
山津照神社古墳
山津照神社古墳は神社境内、横山丘陵南端尾根東よりの丘陵上に位置し東側に後円部(徑26.4m)、西側に前方部(39.6m)を持つ全長46.2mの前方後円墳である。
天野川中流域から平地にかけては多くの古墳が展開しているが、いわゆる「息長古墳群」の一つである。
明治15年(1882)神社境内拡張工事に際して発見されたが、石室は埋戻され内部の状況は「古墳に関する書類」として記録されている。
これによると約4.6mの羨道の奥には広さが約12m2高さ2mの玄室があり家形石棺が描かれている。
石室の内部からは、倣製の銅鏡2面(獣文鏡・五鈴鏡)、金銅製冠、鉄刀、水晶製三輪玉、鉄製刀子、馬具、(轡・杏葉・鞍金具・鎧・雲珠・辻金具・吊金具)、須恵器(蓋杯・台付広口壺・広口壺・大型器台)が、前方部から銅鏡一面(内行花文鏡)、鉄剣、鉄塊が墳丘から埴輪が出土したと伝えられている。その中でも五鈴鏡は出土例も少なく、鏡縁のまわりに五個の鈴をつけたわが国独自の様式を示している。
また渡来系氏族や朝鮮半島との関わりを示す金銅製冠、葬送儀礼に解明に必要な赤色顔料なども発見され古代天皇家と深い関わりのある息長氏にかかる墳墓であることを物語っている。息長(おきなが)氏族について古墳が、長浜市の諸頭山古墳群・越前塚古墳、山東町の息長墓(古墳)、近江町の息長古墳群(塚の越古墳・山津照古墳・後別当古墳 人塚山古墳・狐塚古墳)、米原町の石淵山古墳群・塚原古墳群など横山山地周辺を中心にほぼ全域にある。
古代氏族として息長氏・坂田氏が著名で、これら古墳は両氏族の墳墓またはかかわりをもつ豪族のものとされる。
とりわけ息長氏は大王家と深いつながりを持つ大豪族で、継体天皇の出身氏族と考える説もあり、敏達天皇皇后の広姫(息長真手王の娘で用明天皇の祖母「延喜式」諸陵寮が墓所)、息長足日広額と称された欽明天皇に至るまでその関係が続いた。
天野川河口の朝妻湊が平安時代から琵琶湖有数の湊として資料に登場する。この朝妻湊が要津として機能し始めたのは、はるか原始時代までさかのぼるとされ、息長氏が豪族として大きな力をもったのも、この湖上交通と陸上交通との両方を制圧したためとされる。
天平19年(747)の坂田郡司解(正倉院文書)には息長真人がみえ、奈良時代においても息長氏の当郡での居住が確かめられる。ただ郡司をだすだけの勢力はこの時代無かったようで、郡司は坂田酒人氏がほとんどである。息長氏の関わる皇統譜(略)
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