滋賀県守山市 金森
Moriyama Kanegamori
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守山市金森町753 懸所宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 鎌倉後期 石造宝塔 19250424
金森−懸所宝塔(かけしょ)金森御坊
守山市金森町金森
もともと金森は東山道〜志那海道〜湖上~坂本〜山中越え〜京都を結ぶ幹線道路の要衝に位置していた。
この金森が中山道守山宿より志那街道筋において蓮如と寺内町、さらに一向一揆と信長に関わる歴史的集落となった。
中世(鎌倉—室町)においては、真宗(浄土真宗・一向宗)の拠点の一つとして栄えていた。
当時、近江に真宗が急に広まるのは、蓮如(1415~1499)が登場してからである。
蓮如は、宗祖親鸞(1173~1262)の念仏の教えを伝え、各地に門徒(真宗の信者)が結成された。
守山や堅田にはもともと真宗の教えが広まっていた。
その後、寛正6年(1465)京都本願寺が延暦寺の山門宗徒に焼き打ちされたため、蓮如は金森に3年間滞在した。
そのとき蓮如を迎えたのは金森の川那部弥七郎—入道した道西であった。
蓮如は、道西が構えていた金森道場を拠点として栗太郡、野州郡で浄土宗再興と布教を行なった。蓮如初期の拠点地であった。
元亀元年、(1570)から翌年にかけて、信長に抵抗する金森一向一揆の拠点となり、堅固な防衛都市として真宗道場「懸所」を核に、濠、土塁を巡らし、近辺の門徒衆と共に激しく闘った。
信長は石山本願寺と比叡山焼討ちの後、元亀3年(1572)9月金森を志那街道の中核とした。
また都や比叡山への重要な位置にあることから、楽市楽座令を出し保護した。
金森懸所
蓮如が寛正6年(1465)の破却により京都石山本願寺から金森に難を逃れ、浄土真宗再興の本拠としていた場所である。
熱心な信者であった川那部弥七郎道西が構えていた道場があった場所で、その後が現在の金森懸所、金森御坊と呼ばれて、蓮如に関する寺宝や歴史資料等が保管されている。
本堂
鐘楼
懸所宝塔
国重要文化財:建造物: 指定1925・04・24 鎌倉時代後期
宝塔高さ3.13m、鎌倉後期の逸品で、江戸時代に他所から移されたもの。
本堂に向かって境内の左側に安置されている。
基礎に、方形の4つの石をすえて側面に孔雀を四面に計八羽画いてあるのは格別である。
孔雀は、仏教の信仰そのものを象徴する鳥であるばかりでなく、インドの国鳥でもある。
塔身は四方に扇形を薄肉彫りして軒下を三段に作っている。
笠は屋根の四隅に降棟をつけ、よく塔身と釣合っている。
さらに欄干を思わせる円形の石をのせ、屋根石、相輪部も完存している。
数多く残されている近江の石造宝塔の中で、もっとも優れたものの一つとされる。
善立寺の奥様に無理を言って開閉して頂いた。その昔、激しい場所であったとは想像もできないくらい静かで、落ち着きがあった。
目指す宝塔はその大きさにビックリした。そして何か垢抜けした美しさが感じられた。彫りは薄くなりつつあるようだ。
善立寺
守山市金森
守山市街の西のはずれにある真宗大谷派のお寺。俗称“金森御坊”と向かい合っている。「道西坊址」の碑が立つ。
1000㎡足らずの境内に本堂・庫裏・山門が並んでいる。
境内は美しく維持されていたが手入れが大変とのこと。川那部姓であった。道西の血筋の方であるようだ。
堂宇は本堂・庫裏・書院・梵鐘堂・薬師堂などを備える。御坊は善立寺が管理している。
寺内町金森
金森が幹線道路の要衝に位置している点については既に触れた。同時に、本願寺と深いつながりを持った地でもあった。
中世期後期に、豊かな水と要害の地形を利用して、土豪・道場を中核に門徒宗の自発的な環濠城碧都市である寺内町としての体裁を持つようになった。
境川と守山川の間に金森がある。
川から導いた堀、土塁、藪を巡らし、取り外しのできる木橋で連絡し、内部には御坊を中心に格子道路と堀で区切り、南北に走る大路がある。
町は東・中・西として民家が集まっている。自然の要害を利用した寺内町であった。
“金ケ森の対岸の坂本は、延暦寺の門前町として自然発生的な町。
これに対して、人為的に計画的に形成されたものに「寺内町」があります。
寺内町は、近世の城下町の先駆をなすもので、真宗の中興の蓮如の構想に始まるものです。
これは、真宗の寺院を中心として構築されているもので、蓮如が文明3年(1471)に越前の吉崎に構築した吉崎本願寺に始まり、石山(大阪)、山科へと続く。
以来、16世紀の戦国動乱期に備えて真宗の勃興期の所産であると一般にいわれています。
この金森が、寺内町の先駆でないかと推定される。
富田林や大和今井などに比べてその規模は小さいが、その歴史的背景から寺内町の最も初期的なものと推定されます。 “
《守山市史より》
蓮如は金森を去って、吉崎にわが国で初めての寺内町を造ったといわれているが、その構想には金森のイメージがあったと思われる。
道西は、後に山科本願寺の寺内町構想を指導したといわれるが、道西や蓮如による金森の街は、わが国の寺内町の草分けであった。
これから百年後、元亀2年(1571)には、金森合戦が起こった。
この戦いは、仏法王法を守ろうとする本願寺門徒と農民と、全国統一を目指す信長との戦の石山合戦の前哨戦であった。
3ケ月にわたって頑強に応戦したが、遂に、人質を入れて、開城のやむなきに至った。
この門徒衆を排除して、さすがの信長もようやく比叡山を焼くことが出来た。
この守山には寺院が123寺あります。その大部分は真宗です。
大別して真宗が75%、天台宗が9%ですから、守山人の多くは真宗の門徒です。
真宗が圧倒的に多いのは、親鸞の末孫蓮如が寛政6年(1465)京を追い出され、守山に来たことに始まります。
この蓮如の教化に由来しているのです。教化が広まり、今日の守山人の行き方の基本を定めたものといえます。
真宗の寺院は、惣(村)の道場から始まり、江戸時代に寺号を公称し、伽藍化、寺院化しました。
守山では惣の支配者が独立し、拠り所として自主的に仏堂を持ったのです。
守山に多い一町一寺・一町数寺もそれぞれの町内の一族、同族の拠り所であります。
近江の国の守山市は、本願寺教団の発祥の地です。
教えは広まり培われて六百年、他派も余宗も本願寺の宋風に同化している状況にあるとみてもよいと思われます。
人々はあまりこのことに気付いてないようですが、この宗派が広まり、人々の生活のあり方を決めているかと思われます。
まずは大きな湖水を控えてどこにもない土地柄であり、それを中心とする大平野であります。
そこに大衆を相手として戒律などを説かない浄土真宗という大衆の教えが広まりました。
約六百年にわたってそれは培われてきたのです。
世の中は変わっても根幹は変わっていないと思います。
《参考資料:守山市史 守山の文化財 守山城物語 中山道 守山市誌より抜粋》
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