滋賀県守山市 勝部神社
Katsubejinja ,Moriyama city,Shiga
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守山市勝部1-8-8 勝部神社本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 明応6(1497) 三間社流造、向拝一間、檜皮葺 銘札2枚、旧軒付留甲1個 19130414
勝部神社
守山市勝部町
勝部の火祭り 滋賀県選択無形民俗文化財
同じ日に、近くの住吉神社でも火まつりが行われる。
750年以上の伝統を持つ火祭りである。伝承によると、鎌倉時代、土御門天皇が病気になった際、雷雲が巻き起こり、7日間天地が震動する騒ぎとなった。
占いによると、近江国の河に大蛇がおり、天皇の命を狙っていることがわかったので、周辺の農民が退治に向かった。
大蛇が川から姿を現した所を殺したので、天皇の病気が治ったという。退治した大蛇を勝部では頭部を、浮気(ふけ)では頭を焼いて祝った。
同じ日に、近くの住吉神社でも火まつりが行われ、住吉神社とは関係がある。
まつりの始まりを待つ (開始3時間前の境内付近)
大松明は12基 長さ4〜6m 一基の重量450kg (境内に6基 路上に6基)
まつりの開始を待つ松明
火まつりがスタートする 開始 Pm20:00〜
修祓式
3基の太鼓が町内巡行した後に宮入
松明の宮入
奉火
参考
勝部村沿革 (滋賀県市町村沿革誌より抜粋)
往昔ノ事歴邈乎トシテ知ル能ハスト雖トモ 古老ノ口牌ニ由ルニ此地唯渺々タル深淵ニシテ 近傍ニ人民ノ住居スルモノナカリシカ
用明帝の時物部守屋・中臣勝海ノ二氏各地適歴の際此地ニ来り 川流ヲ通シ漸く荒原藪沢を開墾セシヨリ 人民居ヲ此地に移シ、專ラ農耕ニ従事シ 物部郷勝海村ト称セリ 蓋シ守屋・勝海ノ開創ニ係ルヲ以テナリ 其后二氏ノ姓字ヲ採リテ更に勝部村ト改ムト云
降テ佐々木氏ノ時ニ至リ 勝部左近ナルモノ保寨ヲ築テ此地ニ居レリ 爾来物換リ星移リ遂ニ当時ノ景況ニ至レリ。
1880(明治13)年頃の人戸は111軒、477人、うち農103軒、工6軒、商2軒であった。
用明天皇 第31代 皇子の一人が「厩戸皇子=聖徳太子」 蘇我氏と物部氏の対立が激化しつつある頃に在位。
推古天皇の御代に完成した法隆寺と薬師如来像は用明天皇の病気平癒を願って造立されたといわれる。(用明→崇峻→推古)
駅から神社までおおよそ徒歩で10分、途中には最明寺の五重石塔(重要文化財)もあります。
このあたり一帯はかつては物部郷と呼ばれ、神社も物部布津社、中世には物部大明神とよばれていたそうです。
1月に行われる松明祭(勝部の火祭、滋賀県選択無形民俗文化財)は有名です。
本殿(重要文化財)
明応6(1497)年の建築
三間社流造、向拝一間、檜皮葺昨年屋根の葺き替えが行われました。
勝部の火祭り(勝部神社)
Katsube Himatsuri
守山市勝部一丁目8−8
県指定無形民俗文化財毎年1月の第2土曜日に、勝部神社で行われます。勝部神社はJR守山駅から歩いて5分ほどの距離にある。
守山市だけでなく、県を代表する勇壮な火祭として有名で、県の無形民俗文化財に選択されている。
祭の起源についてはいろいろあるようだが、一般にはその昔、嵯峨天皇の病気が重いので占師に占わせたところ数千年も生きている大蛇がその元凶だというので切り殺して火に焼いて踊ったところ、天皇が全快したことに始まるとされている。当日、午後の間に祭の主役になる松明1本1本に、 神酒・鰯・豆腐を供えて祈祷を行う。
その後、3基の大太鼓が街中を練り歩いてから、夜8時ごろ、大蛇の胴体をかたどった大松明12〜3基が境内に勢揃いする。
そして、若者が裸のまま神前で御神火から火をもらって一斉に点火する。
ふんどし姿の若者たちが、鐘や鼓を打ちながら、無病息災を祈願して「ごうよ」「ひょうよ」(御脳平癒の転)と大きな掛け声をかけながら乱舞するという、勇壮な火の祭典が始まり、クライマックスを迎える。 勝部で使われる松明は、長さ約5〜6m、軸部直径約40cm、穂先約4mの長い円柱で、材料には菜種や柴、青竹が用いられる。
全体で大蛇の胴体を表し、木片は大蛇のうろこを表しているといわれる。
*今年は1月9日に開催され、60数名の若者が奉仕した。新入会者が12名あったようで、後継者が出来関係者は大喜びだった。
当日は、同じ市内の浮気町にある住吉神社でも嵯峨天皇病気平癒に因んだほぼ同じ、古式をとどめる火祭りが行われる。 材料を含めた前日までの準備
「柴うち」
松明の主要材料はハンノキ(榛木)である。カバノキ科の落葉高木で、湿地に良く育つ。現在は金勝山にて採取したものを使っている。
一基の松明に約10束(400Kg)入用とのこと。
12月の初めに金勝山まで引き取りに行き、勝部の住吉会館に運び入れる。
「竹」
一基の松明に3本使うので三本竹ともいわれる。真竹で太さ30cmくらいのものを使う。
古来、勝部は竹の名産で知られた。今は、栗東・綣の大宝神社に生えているものを使うようだ。
「種殻」
松明が良く燃えるためと、美しく飾り立てるために柴の前に菜種の殻をつける。
凡そ一基当たりツガイ束で30束が必要。大量に要るので、集める作業が大変である。幅広い人たちの協力を得て準備している。
市内にあるなぎさ公園には約12,000本の菜の花が植えつけてあり、今年はこれを4月中旬に回収し、一部使用した。他の場所では6月中旬に回収する。
菜種殻の種もみ作業は、OB会、営農クラブ、農業組合の協力で行っている。
「縄」
松明を綯うために使う縄。結び方が独特である。「割り木」と「うろこ」作り
松明の胴に「うろこ」と称して板状のものを取り付ける。うろこ(鱗)は、長さ40cm、幅15cm、厚さ6.7cmの赤松の割木を使う。
板は「祈祷松明 勝部神社」という焼印を押して出来上りである。松明一基の胴に9枚ずつ付ける。
「松明結い」「結い方」
松明結いとは、まつりの夜に勝部神社の境内で奉火する松明を作ることをいう。今年は一週間前の1月3日に行なわれた。
松明は長さ約530cm、太さは前(頭)約110cm、後(尾)約40cmのサイズである。
松明を結う場所は神社境内と住吉会館前の馬場で行う。悪天候の場合は大変厄介な作業と思われた。「結い方」は松明を結う場所の下に予め、柴をくくる縄通しをよくするために、小丸太を1mおきぐらいに横に並べて敷きその上に柴の株を揃えて30cm位の束にして、仮に縄でくくり、この柴の真中々々へと柴を差し込んでだんだん太くし前に伸ばして5m余りの長さにする。
外側には枝振りの細いカブセをあてて美しく揃える。
次に太い竹を背に一本、両側に二本あてがい、縄を通して締めつけてくくるが縄は約16.7cm間隔に飾り縄と捨縄とで交互に縛る。
いずれも結び目を上に男結びで美しく揃えて縛る。
次に尾は、縄を十筋ほどでイシダに組んで結び、その先をたらしておく。
こうして出来上がった松明は12〜3人の青年に担がれ、神社の方に頭を向けて一列に並べられる。
頭の下には飾り足というX型の木台を頭部の下に枕として置く。
「杓子つくり」
ご飯杓子の柄のところに「松明奉納 勝部神社」という焼印を押す。以上が準備作業に関する説明である。
火祭り行事に奉仕する若者「松明組」は、村で生まれた数え15歳から36歳までの男子が務めるしきたりであったが、現在はどうなっているか。
毎年1月2日で行われる総会の席上で新人の入会が行われる。新入会者はお祭りの場で名前の紹介がある。
その他、祭りの当日までに松村組の人たちが行う儀式は多々あるが省略する。火まつり当日の行事「種殻付け(頭飾り)」
まだ周囲が暗い早朝、松明組の若者が住吉会館前に集まり、馬場に並べられた松明の先端に種穀を付ける。
松明が燃え易くなることと美しく飾るためである。
朝早くするのは、早くつけるほど火災が起きないという信仰があったことによる。
松明の先に骨になる穂柴を円形に差し込んで二段に縄でくくる。この縄に種穀を二段に美しく揃えて編みつけて外周を作る。
ついで少しくぼんでいる円の中心部に種穀を差し込んで平にし、美しく飾りつける。
これに要する種穀は一本の松明に約三十束で、頭飾りした松明はあたかも花が咲いたようである。
この松明を動かし置く際は、X型の木の台を頭部の下に置く。これを「飾り足」といい、檜材で出来ている。
なお、奉火するときに使う足は「焼足」と呼ぶ。これは火にかかっても焼けないように、一週間ほど川に漬けておく。
頭飾りが終わると、一基に右側に5枚、左側に4枚、計9枚のうろこを取り付ける。
出来上がった松明の寸法は
全長:約6m、松明の太さ径:約80cm、種穀の直径:約400cm、厚さ:約150cm、そこから尾の先まで:約450cm、重さ:約450kg
と大きく、今年は境内に六基、馬場に5基、計12基が準備された。
*9日の朝、8時頃には作業が殆んど終わっていた。頭部がまんまるく飾られた松明が美しかった。
「太鼓飾り」
夜の太鼓渡りに使う太鼓は三個ある。朝から会館前の広場に運び出し、担ぎ棒を取り付け、縄を美しく巻いて飾る。
その中央に松・竹・梅の小枝を一つにまとめて飾り立てる。「食事」
火まつり当日の昼食には、必ずうどんが出される。とくに来客には何をおいても、まずうどんを出す。うどんのないときはそばが出される。「祭典(松明祭)」
祭典は神社の神前で厳粛に行われる。神職以下、関係者一堂が身を浄め、大祓い、神饌供え、祝詞奏上、神楽奉納、玉串奉損奠が行われる。
*多くの関係者が参加して、14時頃より始まった。
一同は、各自食事を済ますと風呂に入って身を浄め、午後6:30までに住吉会館に集まる。
30歳以上の幹部は赤い褌を締め、一般組合員は白の褌を締めた地下足袋姿である。
太鼓渡り・松明の宮入などのときに高張提灯を持って先頭を行く若者は、白長袖シャツに白パンツ姿で運動靴を履いている。
世話方は濃紺の法被を着用し、前の襟には「勝部松明組」、背中には「世話方」の文字を記し、白のヘルメットを被っている。「神社からの使い」
修祓式(しゅうばつしき)の定刻が近づくと神社から松明組の所へ使いが来る。組長に対して「ものもうす」が訛って「もう」という。
それに対して組長が「どうれ」と受け止める。修祓式へどうぞの意である。「修祓式」
神社からの使いを受けると、「勝部神社」と書かれた高張提灯を先頭に組員一同、神社へ向かう。
拝殿には八足が横一列に並べてありその上に土器が並べておかれてある。一同が整然と神前に向かって整列する。
神職からお祓いを受けると、組長は神職から組員を指揮する御幣を受け取る。
済むと一同は神社役員の接待で「浄めのお神酒」を頂く。
*18時過ぎに始まった。所用の時間は僅かである。終わった後から20時頃まで待つことになる。
大阪〜姫路辺りから来られた数十名の有名なカメラマン?が最前列にズラリと並ぶ。今いる場所はもう動けない。
本殿への参拝客が列をなす。見物客もゾクゾクと増え、幾層もの列が出来る。
「太鼓渡りと宮入り」
御幣を受けた一同は、会館に戻り、一番太鼓、二番太鼓、三番太鼓と飾り付けられた太鼓を担いで、定められたコースに従い町内を回る。
一番太鼓の先頭は高張提灯、その後を組長が御幣を持ち、それの褌一本の裸で太鼓を担いだ松明組の若者が続く。
二番、三番の太鼓は御幣の替わりに日の丸の扇子を開いて持ち、合図の林を行う。
賑やかに町内を練り歩き、一巡して午後八時前に鳥居前に戻る。
鳥居前で、一際激しく太鼓を乱打し、太鼓を上下して練り合う。その後、一番太鼓から宮入りする。境内に入ると本殿横の空き地に置く。
三番太鼓が入り終えるまでには、少々時間が掛かる。
*足先が冷えてきて辛くなり始めた20時過ぎ太鼓の宮入が始まった。鳥居の外の様子がわからない。いよいよかと緊張が走る。
「牛玉参り(シュウシまいり)」
太鼓の宮入を終えた一同は会館に戻り、牛玉参りに向かう。
先頭は高張提灯で、その後に、一同はシュウシ棒と呼ばれる長さ約100cm 太さ径3cm程の白木の棒を左手に持って左肩にかつぐ。
棒には「奉納勝部神社 家内安全 平成二十二年一月九日」などと墨書されている。
一同は拝殿の正面に順序よく並んで、袴姿の神職・氏子総代から勝部神社の護符を頂いて帰る。
「松明の宮入」
牛玉まいりをすますとシュウシ棒を境内に納め、一旦会館に戻る。
そして分担する松明のうろこを外し、番場から五基の松明が順番に境内に運び込まれる。
この宮入は暗い所で重いものを担ぐため、負傷することがある。若者はお神酒の勢いで突っ走る。危険も一杯だ。
*待ちくたびれた観客が一斉に興奮し始める。カメラのフラッシュがマブシイ。松明は十二基、本社に向かって半円形に並べられた。
「火出人と火受人」
松明が全部並び終わると、一堂は拝殿の前に集まる。火出人は神前の燈明から篝火に移して待つ。
三番鐘を合図に、火出人は松の木を細く割り、先に肥松を挟んで針金で束ねた手松明に火を移し、火受人に手渡す。
火受人は受取ると素早く定められた松明の前に行き、一斉に奉火する。
*時間は20時30分前後だった。火を見た観客から一斉に歓声と拍手があがった。
「奉火」
*本社まえに並べられた十二基の大松明に一斉に奉火された炎はすさまじく、まつりは最高潮に達する。
パチパチ、ゴーという火勢の音、「ゴショウ ヒョウヨ」と叫びながら褌一本の若者の乱舞、火柱は天にも届く勢いで燃え盛る。
観客は炎に興奮し、今年の無病息災を祈念する。しばしの間、境内は異常な怒涛に包まれる。
「引き松明」
松明が九部通り燃えると「引き松明」といって、頭部の種穀がすっかり燃えてしまって胴部の木の束となった松明を境内から外へ引き出し、そばを流れている小川に漬けて消す。消防組も火災予防にあたる。
引き松明が終わると、太鼓を担ぎだして会館に納める。見物客も大半が帰りだす。
一同は神前に集まり、本社に向かって今日の奉仕ご無事終わったことを報告して会館に戻る。
「松明の残り木」
松明の燃える火にあたると、その一年は無病息災だといわれる。この松前の残り柴を持ち帰り、朝の粥をたいて食べると一年中が健康と言われているので、奪い合うように持ち帰った時代があったが、近年は持ち帰りが無くなったと言われる。
*21時30分過ぎに全ての行事が終了した。無事であったことに、関係者からは安堵の表情が伺えた。
まつりを待つ時間帯には、神社の紹介、祭りの由来の説明に続いて、まつり存続への協力要請が繰り返された。
約800年継続しているこの行事を今後も是非続けて欲しく思うが、関係者にとっては課題が付きまとう様だ。
今年は子ども会の協力が得られたとのこと。
文化財の維持には、親から子へ・大人から子どもへ、小さい頃から関心を持たせ、歴史も知らしめるといった地道な積み重ねも必要だと感じた。住吉神社
「松明」
維持が難しい中で、存続への動きが実ったようだ。是非頑張って欲しいとお願いしたい。
参考資料:《守山町史、勝部神社—火まつりより引用》
Sep. 2009 撮影/文:中山辰夫
勝部神社(かつべじんじゃ)
拝殿
間口三間三尺、奥行二間、入母屋造
意外と狭いつくりである。本殿との間には祭事ができるスペースは確保されていた。
本 殿
1497建築:室町時代
国重要文化財:建造物:指定 1913・04・14 三間社流造、向拝一間、桧皮葺、切妻造、平入り、 附:銘札 2枚
桁行三間(5.13m)梁間三間(4.40m)で前室付きである。
この前室は、外陣の前にもう一室付加するもので、鎌倉時代の後期から近江に現れたもの。
この神社の場合、奥行一間の前室が外陣にあたり、その奥二間が内陣です。
前室の正面三間は古式の蔀戸(しとみど)であり、両側面は各々一間の板唐戸となっている。
組物は、向拝には出三斗(でみつど)を用い、身舎と前室には柱の上に大形の舟肘木(ふなひじき)を正面、背面共に四つ置いているだけのまことに簡単・重厚である。
彫りものは向拝に優れた手挟(てばさみ)があるだけで、蛙股も木鼻もない。
本殿には三方廻縁(まわりえん)があり、そこに乞欄(こうらん)が設けられ、奥に脇障子が立つ。
基壇は浜縁(はまえん)となっている。
軒廻は二軒(ふたのき)繁垂木(しげたるき)で化粧屋根裏である。
妻は豕扠首(いのこさす)で、妻飾の懸魚(げぎょ)はすべて猪目懸魚(いりめげぎょ 片方に5個)である。
柱は、身舎が円柱、前室と向拝は面取方柱である。
棟は瓦積みで、下方に甍唐草(いらかからくさ)と甍巴(いらかともえ)を置き、その上に熨斗(のし)と雁振(がんぶり)の各瓦を積み上げている。
棟の端は鰭(ひれ)付き鬼瓦と鳥衾(とりぶすま)となっている。
勝部神社火祭り(一月第二土曜日)
国選択無形民俗文化財
毎年1月第2土曜日に行われる「火祭り」が特に有名で、近江の奇祭として県の無形民俗文化財に選定されている。
由来は住吉神社と類似した内容であり、土御門天皇の病気平癒を祈念して創始されたものと伝える。
毒蛇になぞらえた直径3mもある大松明16本を境内に円弧状に並べ、住吉神社の火がすっかり衰えた頃に一斉に点火される。
松明の先には乾燥した菜種穀を使っているため点火すると勢いよく燃え上がり、大きな火の渦巻きが天をも焦がすように立ちのぼる。
若衆たちは《ゴーヒョ−ヨ》の掛け声をあげながら、火の周りを裸のままで乱舞する。
まことに勇壮な火の祭典である。
《参考資料:守山市史 守山の文化財、守山城物語、中山道、歴史と文化・近江より抜粋》
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