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滋賀県守山市 東門院

Tomonin,Moriyama city,Shiga

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守山市守山2-2-46 東門院五重塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 鎌倉後期 石造五重塔 19610323


Sep.2012 大野木康夫 source movie

2012.9.8撮影 

仁王門

境内

五重塔(重要文化財)

鎌倉後期の建造です。

境内西側(仁王門から本堂に向かって左側)に建っています。

宝篋印塔、宝塔(重要美術品)

五重塔の左右に建っています。


Sep. 2009 撮影/文:中山辰夫

東門院( とうもんいん ) (守山観音) 

守山市守山2

天台宗

JR守山駅の北西約800m、旧中山道に面して建つ。

平安時代の初期、今から千二百年前、最澄が延暦13年(794)に開いたとされる古い寺。

桓武天皇の勅願により、最澄が鎮護国家の道場とした叡山三千坊の「東門」にあたるためこの名称が付けられたと伝えるが、坂上田村麿呂の伝承のように「皇城」の「東門守護」から付けられたとも伝えられる。

しかし、座主良源(912~985)以降、広大な荘園を有し、東側の志那街道(比叡山街道ともいう)の山門屯所の仏像を安置したことからこの名称になったとするのが妥当とされている。

本寺は中近世度々の戦火に遭いながらも信仰を集め、門前町を形成、守山宿と共に市街地発展の核的役割を果たしてきた。

江戸時代には朝鮮人街道を通る朝鮮特使の宿舎になっていた。

昭和61年(1986)本堂焼失により、寺宝類を多数焼損したが、平成3年(1991)本堂が再建され、修復された仏像等が安置された。

不動明王坐像・石造五重塔が国重要文化財、石造宝塔、石造宝篋印塔が国重要美術品建造物である。

その他、市指定文化財が多くある。

境内南隅に座す三基の石塔が当寺の歴史を語る。

石造五重塔 

国重要文化財:建造物:指定 1961・03・28

像高:2.86m 一番下の塔身は、日本最古の石塔である石塔寺の塔と同じく、前後2石を合わせているめずらしいもの。

正面に阿弥陀、背面に釈迦と見られる像が彫刻されている。

各層の屋根の反りが少ない古風をとどめる鎌倉前期のものとされる。

石造宝塔(鎌倉) 

国重要文化財:建造物:指定1948・04・27

像高:1.59m 鎌倉時代

相輪は後補。基礎四面に格狭間を作る。

石造宝篋印塔

国重要文化財:建造物:1948・04・27

像高:1.67m 鎌倉時代

相輪上半を失う。壇上積式基礎の四方を格狭間とし、いずれも開花蓮を浮彫にし、上端は複弁の反花とし、よくバランスの取れた端麗な印塔である。

ちなみに、宝篋印塔とは、もとは宝篋印陀羅尼経を納めた塔であったが、後に供養塔墓碑となった。

 

オハツキイチョウ

市指定天然記念物

境内の中でひときわ目立って聳えている。石塔の近くにある。樹齢もかなりのものである。

イチョウの葉の一部に「ぎんなん」がついたようなコブをつける。これはオハツキイチョウと呼び珍しい植物学的特長である。

木造不動明王坐像

国重要文化財:彫刻:指定 1909 04 05

本堂の右に続く護摩堂の本尊である。

像高:1.42m 一木彫 彩色像で、お顔の念怒相きわめて強く、迫力に富む。衣文に飜波式が見られ、重なる曲線が強く、かつ美しく

腕と手首の環釧の彫刻も優秀である。藤原初期の造像とされる。 

木造11面観音立像

木造 彩色

昭和の火災で焼失したものを修復して本堂に安置している。重要文化財からは削除となる。

守山宿「本宿」

古代東海道(中山道)筋に位置した守山は、文治元年(1185)源頼朝制定の東海道「鎌倉〜京間、125里63宿」の森山宿となり

以降も近郊の貨客集散地として発達してきた。室町期には市場町として商業機能も発達、戦火に度々あいながらも、

永禄11年(1568)文録3年(1594)に信長、秀吉によって、「中仙道一の名邑なり」として、禁制や保護をうけている。

江戸幕府により中山道守山宿(板橋〜守山間67次)の制札を受け、江戸より約127里28町(約515km)の宿場となった。

正徳6年(1716)仙を山に改正。この頃両隣の集落−吉身、今宿が加宿となり、往還筋1053間「町居613間」で、

中山道18番目の規模となった。

写真 IMG_2150〜2155

守山宿の浮世絵版画に、歌川国芳の「木曾街道六十九次之内、守山だるま大師」がある。

国芳の「木曾街道六十九次之内図」は、広重の「木曾街道六十九次」の風景描写と違って、その地域の神話や伝説、特色などを画いている。

従って道中物としての旅愁の ムードは、上下の細絵に示されているのが特徴。

守山の図は、達磨大師が蕎麦屋で蕎麦を食べている絵である。

国芳はなぜこのような絵柄にしたのか。

この浮世絵は、近世幕末の守山宿の特徴がよく表されているとされる。

守山宿に蕎麦の絵柄は、守にもりそば、山に山かけそばの語呂合わせが込められていて、守山といえば蕎麦を思い浮かべたのであろう。

古老の話では、実際幕末の街道筋にはうどん・蕎麦屋が三軒あったそうで、一月八日の火祭りは、うどん祭りといわれるように、勝部や浮気の家々では訪れる人にうどんをふるまうことで有名だったとか。

近郊の地で蕎麦が栽培、収穫されていたようだ。

一里塚

県史跡指定文化財 江戸時代

中山道沿いの今宿町地先に保存されているこの一里塚は江戸日本橋から127里の位置にある。

この塚は旅人の旅行の目印になるもので、駕籠や馬の駄賃などの計算の目安にもなった他、暑い夏には日陰をつくるので

休憩場所にもなった。

塚の大きさは五間四方で、塚には榎(えのき)や松などを植えた。

現在に一里塚は東側だけだが、元は両側にあった。

県内ではこの今宿の一里塚しか残っておらず、貴重な交通史跡である。

《参考資料:守山市史 守山の文化財 守山城物語 中山道 歴史と文化・近江 より抜粋

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