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滋賀県長浜市 菅山寺

Kanzanji,Nagahama city,Shiga

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 Nature
 
 ブナ、さくら、モミジ、原生林
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
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Oct.30.2017 中山辰夫

長浜市余呉町坂口

菅山寺の宝蔵庫に収録されていた平安時代作の十一面観音像を含んむ寺宝すべてが山麓の里坊・弘善館に収納され展示されている。

菅山寺−弘善館

坂口の表参道入口の鳥居から約100mの地点に里坊・弘善館があり、寺宝はすべてここで保管され地元の住民が交代でお世話されている。

弘善館には本地佛の十一面観音像、梵鐘(国重要文化財)、菅原道真公勉学時の11歳の像など菅公ゆかりの品と菅山寺宝物資料を展示し併せて絵馬、お守り、お札、宝印受付をしている。

   

木造十一面観音立像 像高:102.8cm 奈良末期〜平安時代初期 菅山寺蔵 引用:特別展:湖北の観音

      

漆を用いた特殊な仏像制作技法で造像された乾漆像で中国の唐朝と日本の奈良時代に行われた。木心乾漆は木で心木を造り、その上に木粉に麦漆を混ぜた「木屎漆」を厚く塗り上げ塑形・彫像してゆく。手指などの細い部分には、針金を用いる。本像は滋賀県内で4例目の木心乾漆像である。

  

像背面墨書と台座裏墨書銘から、1801(寛政13年)に天神九百年忌を祈念して彦根藩家老・木俣守前(もりちか)と母・清玉院によって菅山寺に寄進された。

梵鐘 国重要文化財

           

本尊—不動明王坐像

    

地蔵菩薩立像

 

菅公十一歳の像

 

専暁上人

 

鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、 5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられた

狛犬

 

955年当初の天満宮に配置された。

その他

   

菊水飴本舗

弘善館の直ぐ近く、旧北国街道に沿って菊水飴の製造販売を行っている。創業は江戸時代で約350年の歴史がある。

店の由来によれば、参勤交代の途中の福井藩主・松平光通公が腹痛を起こした際、この飴を嘗めて回復したという話が残り、それ以来福井藩の「御用飴屋」として商いを営んできたことや、醍醐寺三宝院第83代高賢座主がこの飴を褒め、菊の紋の暖簾と和歌を授けたことから、「菊水飴」と呼ばれるようになったとされる。

   

店舗は現在は瓦葺きであるが、1961(昭和36)年の室戸台風で倒れた木が当たったために建て替えられるまでは、茅葺き屋根の家だった。

店内には建て替え前の古い写真が飾ってある。

菊水飴は、砂糖を使わずデンプンと麦芽から生成される無添加の食品で滋養に富んだ食べもの。

自然の上品な甘さとさっぱりとした後味が特徴のとっても美味しい飴で、水飴と砂糖を加えて固まらせた固形飴などがある。

     

店内には歴史を感じさせるものが目に付く

       

菅山寺

菅山寺は大箕山(おおみね 標高432m)の山頂近くにある。麓から約2km登る。

宗派:真言宗豊山派 本尊:不動明王 創建:764(天平宝字8)年 開基:照檀 中興:菅原道真(889−寛平元年) 無住

菅山寺はもと龍頭山大箕寺と呼ばれ、当時は法相宗だった。藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、興福寺の古い記録によると、僧房105末寺70余とあり極めて大きい寺であった。後に真言宗豊山派となった。

      

1572(元亀2)年に記された菅山寺縁起によると、余呉湖辺の川並村に生まれ6歳から11歳まで本寺で勉学したという伝承が残る菅原道真が中興し、49坊と塔・鐘楼を配した伽藍を整備されたとあり、名も菅公の一字を採り大箕山菅山寺と改められたと伝えられる。

 

955(天歴9)年、白山妙理権現と天満天神を勧請、もと鎮守熊野・吉野・山王の三社権現と併せ五所権現とした。1407(応永14)年に記された巳高山縁起には、巳高山観音寺・竹生島・大吉寺と当寺を湖北4カ寺と称し、合力して法を護持したとある。

1582(天正10)年大地震により壊滅、その後黒田村(現木之本町)の土豪大音氏出自の専秀が再建に努力、江戸時代初めに堂宇を再建した。

石田三成から山林を寄進されたり、徳川家康の命で芝の増上寺へ寄進された宋版大蔵経七千余巻(国重要文化財)の代償として幕府より寺領50石を受く家康黒印状を得て以降幕末まで継承された。明治初年神仏分離により山林は国有となり、境内地は天満宮と分轄された。天満宮は菅原神社と改称した。

境内には本堂・庫裏・護摩堂・鐘楼・薬師堂・弁天堂などがある。豪雪地帯にあるため、12月から4月までは雪に覆われる。

菅山寺のシンボル−ケヤキの巨木一本が倒壊

山門近くに聳え「菅原道真お手植えのケヤキ」と伝承され、滋賀県の自然記念物に指定されていたケヤキの巨木が強風と腐食により2017(平成29年)9月に折れた。並び立っていた2本のうち1本。樹齢約1300年、高さ、幹回り共に約10mの巨木で、訪れる人の度胆を抜いてきた名木でした。パワスポットとしても親しまれていただけに残念なこと。

在りし日の姿

    

倒壊の様子 今後は残された1本を大事に見守りたい。

    

 

境内散策 

現在の山門周辺

        

宝蔵

  

ほとんどすべての寺宝は弘善館に収納されている。

本堂外観

                

本堂内部 但し撮影:Sep.25.2011

           

鐘楼

    

国重要文化財の梵鐘は弘善館に展示されている

護摩堂

    

如法経堂

      

庫裏

      

春、秋の大祭の日には坂口地区の皆さんが庫裏で炊き出しをされ、おにぎりが参拝者に配られた。最近は集会所で行われている由。

社殿はいずれも老朽化しており、今後の存続が危ぶまれる状態にある。お世話頂く地元の皆さんの高齢化も大きな課題の一つです。

朱雀池

1572(元亀2年)の菅山寺縁起には、晴雨に功験のある霊池と記載されている。

    

天満宮

            

台風で部分的の被害が出ている。

    

菅山寺、天満宮共に地元の坂口地区の皆さんがお守りしてされている。

参考資料≪滋賀県の地理、他≫


Nov.2011 中山辰夫

菅山寺 近江天満宮

長浜市余呉町坂口1576

菅山寺

真言宗豊山派

本尊:不動明王

鐘楼の梵鐘が国重要文化財

滋賀県湖北地方の余呉町(長浜市)は豪雪地帯で知られ、交通の難所として有名。

    

その余呉町のシンボルである大箕山(たいきざん 標高432m)の山頂近くに真言宗豊山派(ぶざんは)の

菅山寺がある。

  

ここは秋の大祭が終わると約4ケ月もの間、数メ−トルの雪の中で眠る。その間は無住のお寺で訪れる人も無い。

そして翌年の春になればまた、千年にわたる自然の息吹を吹き返す。人びとは年二回の大祭にのみ集まる。

大箕山(菅山寺)への登山道(参道)の入口・余呉町坂口には、大きな石標が二本と大鳥居が建つ。

鳥居には「大箕山」と書かれた朱塗りの扁額がかかる。

菅山寺までは約2kmの距離である。

   

この大鳥居をくぐり、山に向かって進むと菅山寺の里坊「弘善館」がある。

菅山寺を守る集落の人びとのセンターである、ここには菅山寺の寺宝が展示されている。

   

参道を兼ねる登山道は幅2m程の獣道で、両側は雑木に囲まれ何も見えずただひたすら登るのみ。

雨が降れば川となるような歩き難い道を約1時間かけて辿る。約1000年もの間踏み込まれた道である。

途中、首の無い石仏が道脇に座すのに再々出会う。明治以前に立てられた88ケ所巡りの遺跡であろうか。

    

やっとの思いで峠に到着し、ここで一休み。賎ケ岳や神秘な伝説の湖・余呉湖がここから少し見える。

この峠が唯一展望のきくポイントである。他の集落から続く二本の参道とここで合流する。

    

生い茂る樹木の中を暫し下ると、菅山寺に関わった人達の墓標が目に入る。無言で古い歴史を語っているようだ。

もう境内である。千年もの間、手が入ってない原生の森は静寂だ。木々の間に社殿が垣間見えて安堵する。

    

人影のない森閑とした道を進むと、間口が2m弱の朽ちた山門と出合う。

山門の両脇には巨石と見間違える、大ケヤキ(県指定)の古木2本がそびえる。菅原道真公の手植と伝える。

幹周り6mを越え、樹高15m以上の巨木である。

    

枝を縦横に張り、何者をも圧倒するかのように激しく強く、逞しい生命力に溢れている。

盛り上がったコブ、岩のようにゴツイ根株が千年もの間、辛苦に耐え生き続けてきたことを物語っている。

まさに神宿る木だ。十数段の石段は所どころ石が飛び、崩れているが見事な調和を呈している。

    

参道の石段や石積は、草木や樹木に隠れ、苔にも覆われ、一層鄙びた風情を醸し出している。

  

社屋の配置

本殿を含めた建物はすべて江戸時代の建造物。古木の合間にこぼれた日差しが往時の姿を彷彿させる。

厳しい風雪に耐えてその姿を今に留めている。

   

本殿

建造年度は定かでないが、天正10年(1582)の地震後すぐに建造または改築されたとされる。

桁裄三間 梁間三間 入母屋造 向拝一間 茅葺形鉄板葺 背面一間通軒下張出し付 17世紀前期

総円柱 出三斗 中備蟇股及び間斗束 妻飾木連格子 向拝角柱 連三斗 縁柱付 外陣一間吹放し

    

やや大型の三間堂で、正面に一間の向拝を付けている。屋根は元茅葺であったようだが現在は前面鉄板で覆われ風格に欠ける。

しかし軸部や組物はしっかりした造りになっており、江戸時代でも古いほうに属するとされる。

向拝部

    

外陣部 極彩色は剥離が進んでいる。

   

内陣部と厨子・須弥壇

厨子の壁板内面に製作由来を書き留めた銘文によって、元禄5年(1692)に製作されたことが分かる。

本堂再建後まもなく御本尊の修復と厨子の新造とが行われた。

全体を禅宗様でまとめた一間厨子で、屋根は入母屋造の妻入りとし軒正面に唐破風をつけた本格的な造りになっている。

    

春と秋の大祭の日だけは大勢の参拝者に囲まれ、境内に活気が甦る。朽ちかけた本堂から読経が響く。

鐘楼

梵鐘は国重要文化財。

梵鐘は建冶3年(1277)の鋳造で、その銘文が歴史を語ってくれる。

簡素な一間鐘台で、角柱を用いる。

構造:桁裄一間 梁間一間 切妻造 銅板張 木製礎盤 角柱四方転び 出三戸 中備蟇股 妻飾紅梁蟇股

   

鐘を吊る大梁を棟通りにわたし、両端を妻梁の上に少し落とし込むように架け、その上から妻飾りの蟇股を大梁に覆いかぶさるように

馬乗りの型で乗せている。

    

経堂

一切経を入れる殿堂で、専暁が持ち帰った一切経7千余巻が収められていたとされる。

堂内の意匠も凝っている。輪転部は、戦前までは動いていたともいわれる。破損が無ければ、国宝級のものとも聞かれる。

    

慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、代償として寺領50石

を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。

  

護摩堂

護摩には供物札木を焼く外護摩と、自身を壇として如来の智火で煩悩の薪を焼く内護摩とがあり、ここは内護摩が行われたところ。

   

庫裏

   

現在の菅山寺を支えて頂いているのは、60戸前後の坂口集落のみなさんである。

特に大祭の日は、庫裏で振舞う昼食の“おにぎり“の準備に早朝からおおわらわ。今年取れたての新米を、庫裏裏の”弘法水“で

炊き込む。このオニギリの美味しいこと! これを口にすると疲れが吹っ飛んでしまう。ありがたいことである。

    

宝蔵庫

平安時代から鎌倉時代にかけての多数の宝物が収蔵されてきた。今は弘善館にて保存されている。

  

 

不動明王坐像

長浜市指定文化財 平安時代 木造 彩色 像高:58.2cm

 

十一面観音立像 平安時代 弘善館収蔵

ひねった腰、開いた目は動的、下半身には金箔が残る。

 

朱雀池

拝殿前の急峻な石段をおりて、薄暗くて閑静な参道をさらに進むと朱雀池である。

   

千年の間、干天にも満水を保つ朱雀池、天満宮をひたすら守ってきた。 朱雀池は雨乞霊験あらかたとされてきた。

    

近江天満宮(菅原神社)

朱雀池のまわりを進むと近江天満宮に着く。今でも参詣者は絶えない。

祭神:菅原道真

菅原道真公発祥の地として、道真が太宰府で無くなった後で建立(955年)。

道真の像を祀り、菅山寺の鎮府としたのが近江天満宮の始まり。

慶長2年(1597)石田三成から禄30石、慶長18年(1613)には、徳川家康より禄50石を寄進されるなど有力者の崇敬を集め

現在の本殿も彦根藩主井伊家の築造によるもの。

豪壮な拝殿は、大正末期近江天満宮講が集めた資金で建てられた。

    

拝殿と本殿は廊下で結ばれている

    

現在の社殿は昭和5年(1930)に改築された。

    

大正に入って「菅山寺保勝会」が設立された。これ以外に大正13年に「近江天満講」を設立し、県内はもとより関東・敦賀方面

まで広く講員を募り菅原神社の再興に繋げた。この時より菅原神社を「近江天満宮」と呼ぶようになった。

菅山寺・近江天満宮由緒

菅原道真公ゆかりの菅山寺は、もとは「龍頭山大箕寺」と呼ばれ、天平宝字8年(764年)に昭檀上人(しょうだんしょうにん)が

孝謙天皇の勅命を受けて創建された。当時は法相宗だったが、後に真言宗となった。この後、道真公が繁栄をもたらした。

菅原道真公は余呉湖辺の川並村に生まれ、6歳から11歳までこの寺で学び、後に京都に上ったと伝わる。

道真11歳の稚児天神像 左手に梅の枝を持ち、漢詩を読もうとしている姿を写したもの。弘善館で拝観できる。

 

道真公45歳の寛平元年(889年)、勅命により寺院を復興、寺号も菅公の一字を取り「大箕山菅山寺」と改めた。

この際、その姿を現在の朱雀池に映し、自らの等身大の像を古梅の大木に彫刻した。

菅原道真像 弘善館で拝観できる。

 

道真の中興により、伝法秘密の修法をなす威徳院など三院、道真寄宿の信寂坊など四十九坊と塔・鐘楼を配した伽藍が整備された。

延喜3年(903)道真公の没後、道真の像を祀り、菅山寺の鎮守としたのが、近江天満宮の始まりという。

天暦9年(955)白山妙理権現と天満天神を勧請、元鎮守熊野・吉野・日吉の三社権現と合わせ五所権現とした。

建治元年(1275)、当寺大僧都専暁が7千余巻の経典を宋より請来、経蔵に蔵した。この頃、一山衆徒が梵鐘(重文)を寄進した。

 

菅山寺は藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、興福寺の古い記録には、僧房105末寺70余とあり、極めて大きな寺であった。

天正10年(1582)の大地震により、当寺は壊滅した。この時経蔵の宋版大蔵経の収納箱約40箱も破損している。

その後、黒田村(現木之本)の土豪大音氏出自の専秀が再建に努力し、江戸時代初めに堂宇を再興した。

高野山で修法し当寺に帰住した専秀に帰依した石田三成から、寺領30石と山林を寄進安堵された。

慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、代償として寺領50石

を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。

浅井長政、石田光成、徳川幕府の庇護もあったが、江戸時代末期より、末寺が他宗に転宗して菅山寺の維持が困難となり、彦根社寺

役人に救済を願い出てはいるが、明治初期までの菅山寺はまだ相当な規模を誇っていた。

 

明治維新の改革で、菅山寺が徳川幕府から約103万㎡安堵されていた土地は、明治政府に返還されて約16万㎡となった。

そのため再興どころか現状維持も出来ず、次第に衰微し、坊舎も次第に影を絶ち、僧も下山し名刹はむなしく荒廃の一路をたどった。

大きなブナの大木が重なり合う原生の森の中、このうえない森閑な雰囲気に包まれた廃寺の菅山寺と天満宮からは

随所に往時の隆盛さが偲ばれ、訪問者の心に忘れ難い想い出を残し、また訪れたいという気持ちを駆り立てる。

いつまでも現在の雰囲気を保って欲しい。菅山寺は信仰の篤い地元民に守られ、今後も生き続ける。・・・・

お土産は「菊水あめ」

帰路も同じコースを歩いた。

坂口の集落に戻り、近くにある菊水飴本舗の店に入った。砂糖の甘さとは異なった、まさに天然の甘さにビックリした。

    

参考資料≪余呉町誌、伊香郡史、ほか≫

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