滋賀県長浜市 鶏足寺と周辺寺社群
Keisokuji,Nagahama city,Shiga
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紅葉 |
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所在地 滋賀県長浜市木之本町古橋
紅葉の名所として定着したようで、紅葉散策期間は多くの人が訪れますが、訪問した日は期間外で訪れる人も少なかったです。
石道寺の臨時駐車場はなくなっていましたが、古橋の臨時駐車場は駐車することができたので、與志漏神社から時計回りで散策しました。
與志漏神社参道
鶏足寺へ
鶏足寺
散紅葉は楽しめましたが、やはり少し遅かったようです。
近年は参道入り口の一定地域を立入禁止にして散紅葉を残しているようです。
参道を往復しながら散紅葉を撮影
入口付近
石道寺へ
石道寺
帰路
與志漏(よしろ)神社
鶏足寺へ
鶏足寺
石動寺へ
木造十一面観音立像 一躯 石道寺 国重要文化財
像高:173.2cm 木造・彩色・平安時代
己高閣(ここうかく)と世代閣(よしろかく)
Kokoukaku and Yoshirokaku
長浜市木之本町古橋バス停・古橋のすぐ東に與志漏(よしろ)神社の広い境内内に己高閣がある。世代閣も隣接してある。
標高923m、湖北の霊場・己高山(こだかみやま)。
この地域はかつて、東にそびえる己高山(標高923m)を中心として繁栄した湖北の霊場・仏教文化圏に属していた。
己高山縁起によると、「この山は近江国の鬼門にあたり、いにしえより修行場であった」といわれ、役玖小角(えんのおづね)・行基
泰澄大師なども修行し後に最澄が再興したとある。
つまり、このあたりは交通の要所にもあたることから、奈良時代には中央の仏教と北陸の白山信仰が混ざり合い、さらに平安期
になると比叡山天台宗の影響を強く受け、これらの習合文化圏として観音信仰を基調とする独自の仏教文化を構築したことが
うかがわれる。
この地域の寺院を中心とした仏教文化は湖北地方の仏教文化に大きな影響を与えたといわれ、「己高山仏教文化圏」とも表現
されている。
明治の廃仏毀釈や信仰の変化、地理的悪条件、などにより次々と無住、または廃寺となり、多くの仏像や寺宝が村人の手で麓
の古橋に移された。
現在は収蔵庫として建設された「己高閣」と「世代閣」で、これら己高山の貴重な遺産や仏像に会うことができる。己高閣
昭和38年(1963)に古橋東部の丘陵地に建てられた文化財収蔵施設で與志漏神社境内にあり、鶏足寺(けいそくじ)
飯福寺(はんぷくじ)・法華寺など己高山(こだかみやま)の諸廃寺の諸仏を奉安している。
多くの寺法が安置されているが、中でも特に鶏足寺の本尊・十一面観音(国重文)は必見である。
周辺のモミジ
世代閣
平成2年(1990)隣接して旧戸岩寺(といわじ)の仏像を収蔵する目的で建てられた。
ほとんどが天平期から平安期にかけての重文級の仏像である。戸岩寺の本尊・薬師如来などの尊像が多く安置されている。
寺宝「一例である」
十一面観世音菩薩
国重要文化財
魚藍観音菩薩と持ち物(魚が入った魚籠)
滋賀県指定文化財
十一面観音立像
国重要文化財
薬師如来立像
国重要文化財
十二神将立像
国重要文化財
七仏薬師如来立像「一部」
滋賀県指定文化財
菩薩形立像
鶏足寺関連
長浜市木之本町の東方に位置する己高山の山頂付近および西麓には、古代から中世にかけて多くの寺院があり、天台山岳仏教
の聖地であった。これらの寺院は近代以降すべて山麓に下り、または廃絶した。応永14年(1407年)の奥書のある『己高山縁起』によれば、近江国の鬼門(北東)に位置するこの山は奈良時代に行基および泰澄
によって開かれた。
鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の別院であったもので、伝承によれば天平7年(735年)、行基によって開基。
いったん荒廃したものを延暦18年(799年)最澄が再興したといわれている。
文永6年(1269年)下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗に改宗した。
奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏』という資料(嘉吉元年・1441年)には、己高山の五箇寺として法華寺、
石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺の名があり、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられる。鶏足寺の所蔵として登録されている膨大な文化財はかつてこの地に極めて注目すべき仏教施設が存在していたことを物語る。
古橋の集落は、南流する高時川が平野部に入ろうとする地点の左岸段丘に立地し、東側は南北に標高932mの己高山を主峰とする
山並を望んでいる。
この地は古くから古墳や製鉄遺跡の存在が知られ、人々の生活が連綿と営まれていた。ここに一大仏教文化圏が開き、貴重な遺産を
現在に残した。
石道寺
Shakudoji
長浜市木之本町石道(いしみち)真言宗豊山派
本尊:木造十一面観音立像(国重要文化財)JR北陸本線木ノ本駅から歩いて1時間あまりの石道集落の外れにある。
高時川にかかる井明神橋から東へ。石道集落の北西のはずれである。神前神社の石段を過ぎると三谷川を挟んだ
向かい側の小高い丘に石道寺の観音堂が建っている。
本尊の十一面観音立像は特に有名で、「石道(いしみち)観音様」とよばれ信仰を集めている。また、文学作品にも多く登場する。
穏やかな顔立ち・唇に残る朱色が印象的。もとの石道寺は、堂の近くを流れる三谷川の1km沿いにあり、山門跡などの寺院跡地を残している。
石道寺創設の由来は、案内にも含まれる。「己高山五箇寺」の中の一つで、僧房38宇、衆徒20口の大寺だった。
細部は案内を参照。明治初年無住廃寺となり、大正初期に高尾寺と合併し、現在地に堂宇を建立、仏像を祀った。
現在は石道の集落の人々が当番を決めて大事に守られている。強い観音信仰がうかがえる。アプローチ
紅葉のシーズンは拝観の人々が途切れない。その分、紅葉が美しい。
観音堂
観音堂周りの紅葉
石道寺の西およそ2kmには己高閣・世代閣がある。石道寺参道から鶏足寺(旧飯福寺)後を通り、己高閣へ散策するコースは
新緑や紅葉を満喫できる最適な道で、何度訪れても季節ごとに味わいが残る。
6月頃の石道寺
観音堂
霊像名宝のまとめ
十一面観音立像
国重要文化財 藤原時代
木造 ケヤキ一木造 彩色 173.2cm
持国天立像・多門天立像
国重要文化財 鎌倉時代
木造 玉眼 182.7cm
十一面観音立像
県指定文化財 藤原時代
101.1cm
種字刺繍幡
滋賀県指定文化財 室町時代 14旒
印佛・馨・華鬘
滋賀県指定文化財
八ツ華形鏡
県指定文化財 江戸時代
寺宝用語の解説
旧高尾寺
星と祭り 井上靖
飯福寺跡とモミジ
Hanpukuji ato
長浜市木之本古橋飯福寺は、己高山(こだかやま)の山頂近くにあった鶏足寺(けいそくじ)の別院の一つで、中世には僧兵を擁する大寺であったとされる。
延徳2年(1490)に実盛が中興。浅井・秀吉の保護を受け、江戸に入っても寺領を安堵されている。
元禄9年(1696)の記録では、本堂薬師堂・権現堂のほか宝珠院・金剛院など五塔頭を有していた。後、堂宇を焼失。
この時村民が薬師堂本尊を土中に埋めて焼失を免れた、
その後一宇の坊舎を建立、明治元年(1868)薬師堂本尊を飯福寺本尊とした。昭和初年廃寺となった。
伝来した仏像のみ山下の収蔵庫に安置されて地元住民によって管理されている。鶏足寺付近のMAPと案内 石道寺から辿る。約35mである
左右は茶畑。印象に残る石畳の道を進むと、もう旧飯福寺の境内でモミジが盛りを迎えている。
周囲は紅葉で赤々と輝いている。
大門跡とされる所から本堂まで一直線に延びる参道。道の両側に積まれた苔むした石垣、台地の佇まいが往時を語る。
6月頃の参道 モミジの青葉が清々しい。
境内を埋める約200本のモミジの古木が秋には周囲を真っ赤に染め、人を誘う。
いよいよ参道を進む。両側に残る僧房跡が続く。
このあたりは日差しが届かず暗い感じが続く
閻魔堂、鐘堂、護摩堂、その他の跡地もモミジが覆う。
参道の突き当たりの石段の上には5年前に建てられた本堂がある。今は使われていない。
大門跡あたりのモミジが朝日を受けて燃え盛っている。
飯福寺のモミジに満足した跡、己高閣をめざして歩きだすと景色が一変、茶畑となる。
広く小高い傾斜地に形よく整然と手入れされた茶畑は、これまた美しい。
古橋の茶は、千年前、鶏足寺を再興させた最澄が植えたのが始まりとされる。法華寺は秀吉と三成の出会いの場とも言われる。
この付近は“まほろばの里”と称される
923mの己高山を眺めながら進むと程なく己高閣・世代閣に付く。
神前神社
Kamisakijinja 長浜市木之本町石道 赤谷祭神:須佐之男命 許勢少柄宿禰 所在
JR木ノ本駅から東へ約4km
石道集落の南、赤谷に鎮座。高時川にかかる井明神橋から東に進む。三谷川沿いに進むと、自然石を組み込んだ
約60段の石垣に出合う。かなり急勾配である。これを登ると境内となる。モミジが一帯に映え美しい。
もと己高山中の高尾山神前谷に鎮座していたが、明応年間(1492〜1501)に社寺・村落ともに現在地に移転した。
もともとは高尾寺・石道寺の鎮守社だった。明治の神仏分離により高尾寺は廃寺となり、本堂は現社殿拝堂となる。アプローチ
拝殿
入母屋造 間口二間四尺 奥行二間四尺
本殿・境内建物
一間社流造千鳥破風付 間口四尺 奥行三尺三寸 覆屋の中に鎮座
境内のモミジ
6月頃の緑
由緒
「延喜式」神名帳の伊香郡「神前神社」に比定される。
役小角が高尾山に来住、同社を尊崇したとの伝承がある。
神亀元年(724)行基が当社に詣で、高尾寺・石道寺を建立。この時両社の鎮守社としたという。
延暦15年(796)最澄が杉の枝を玉串とし地にさしたところ繁茂した紙前杉となったという。
明応年間(1492〜1501)に社寺・村落ともに現在地に移転した。旧地には神前神社跡・高尾寺跡・石道寺跡
僧房跡・神前杉などが残る。
天正11年(1583)賎ケ岳の戦いの後、当地を領した堀秀政は毎年初穂料を献じた。
慶長6年(1601)彦根藩主井伊直政は関が原合戦の折の傷の平癒を当社に祈願した。
明治の神仏分離により高尾寺は廃寺になり、本堂は現社殿拝堂となる。創祀年代不詳であるが、神亀元年行基この地に来り社坊を置き、延暦年間伝教大師大神を拝すなど伝え、
明応7年現在地に移転したと伝える。
明治9年村社に列し、同41年神饌幣帛供進神社に指定された。延喜式内社。
與志漏神社
Yoshirojinja
長浜市木之本古橋1102 祭神:須佐之男命(すさのおのみこと) 波多八代之宿禰命(はたやしろのすくねのみこと)
延喜式内社。
バス停古橋でおりる。神社はやや小高い位置にある。石段を上り鳥居をくぐると参道である。
参道の所々モにはモミジのトンネルができている。約5分で社殿に着く。
参道の近くに薬師堂、大日堂があり、古社を思わせる趣がある。モニジが境内をあかく染める。己高閣にも近い。
旧戸岩寺
戸岩寺に伝わった天平仏、鎌倉仏、その他の寺宝は己高閣に収納されている。
流造、入母屋造 間口三間 奥行二間
中門( 流造 間口九尺 奥行四尺)・幣殿(流造、間口一間 奥行二間)
一間社流造 千鳥破風唐破風付 間口一間 奥行一間
八幡神社 春日神社
景行天皇の御代 武内宿称勅命により、北陸巡行の折この地にさしかゝり、荒廃殊の外著しく、この原因は大蛇生棲し
人畜に危害を及ぼすと聞き、その子波多八代之宿称を招き須佐の男命の神霊を御剣に勧請しこれを討ち給う、
これによって難を他郷に避けていた郷人帰農しいたく宿称の徳として、須佐之男命の神霊と併せ祀るに至る。
聖武天皇の御字、行基この地に来錫し、この大神と習合するに己高山に鶏足寺を創建し、当地の傍らに社坊を建立した。
降って桓武天皇の御宇、最澄が鶏足寺の荒廃を再興し「十所権現」と称して鶏足等の鎮守としたが、当社もその内に加えられた。
「世代山戸岩寺」も現存し、天平時代の諸佛を遺し重文となっている。
浅井長政も神田を寄進その奥方お市の方の寄進と伝える屏風一双あり。
昭和38年神社境内地に校倉式の収蔵庫を建設して天平佛、鎌倉佛を収蔵した。
延喜式内社。境内のモミジ
A camera
石道寺付近
旧飯福寺付近
B camera
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