滋賀県長浜市 小谷城跡
Odani castle ruin,Nagahama city,Shiga
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琵琶湖の遠景 | |
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Flower | 大広間跡近辺の紅葉、桜馬場跡近辺のさくら | |
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October 31,2020 大野木康夫
source movie
国指定史跡
所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部
【国指定文化財等データベースより引用】
淺井氏ノ居城ニシテ小谷山上ニアリ
遙ニ姉川ヲ俯瞰シ湖北一帶ノ要害タリ
元亀三年織田信長之ヲ攻メ淺井氏遂ニ亡ブ
本丸、中ノ丸、山王丸、赤尾屋敷等ノ石垣猶ホ存シ山腹ニ空濠ノ阯アリ
舊規ヲ觀ルニ足ル
小谷城跡は長浜市の旧湖北町の小谷山(標高495m)に築かれた山城で、戦国時代のものとしては有数の規模のものです。
守護の京極氏に代わり北近江を支配した浅井氏の居城で、天正元(1573)年に織田信長によって攻め落とされました。
訪問した10月31日はシャトルバスが運行されておらず、番所跡手前の駐車場まで林道を上ることができました。
駐車場付近
番所跡に向かう林道
案内看板
琵琶湖の展望
番所跡
虎御前山展望所
登城道
御茶屋跡
御馬屋、馬洗池
黒金御門跡に向かう登城道
首据石
赤尾屋敷への通路
石垣の残り石が各所に見えます。
赤尾屋敷
浅井長政が自刃したところです。
黒金御門へ戻る
黒金御門跡
桜馬場
再び黒金御門跡
大広間跡
本丸の石垣が残っています。
本丸跡
御局屋敷跡
大堀切
中丸跡
京極丸跡
小丸跡
山王丸へ
山王丸虎口石垣
大石垣へ
大石垣
虎口に戻る
山王丸跡
浅井氏の本城としては最高所に位置しています。
ちなみに山頂は朝倉氏が籠った大嶽城址です。
六所跡へ向かう急な下り道
六所跡
清水谷の屋敷跡へ
途中の石垣
土佐屋敷へ
土佐屋敷(大野木屋敷)跡
大野木土佐守秀俊の屋敷跡です。
小谷城の戦いの際には織田方に内通して落城のきっかけを作ったと言われています。
ちなみに私の姓も大野木で、土佐守が支配した米原市大野木から京都に移住したという言い伝えがありますが、領主である秀俊は内通したにもかかわらず処刑されたので、その子孫ではありません。
三田村屋敷跡
長浜市三田を支配していた三田村氏の屋敷跡です。
帰路
July.2011 中山辰夫
長浜市湖北町伊部
国指定史跡
浅井氏三代の居城、小谷城は、標高494mの小谷山を中心として築かれた典型的な山城である。
険しい山の頂に作られた戦国期の山城で、上り坂はかなり厳しい。最寄のJR河毛駅からは約2kmである。
資料 滋賀県教育委員会発行
JR河毛駅(かわけ)前には浅井長政・お市の像が建つ。その後ろに見えるのが小谷城である。
小谷城跡は、戦国時代、浅井氏が小谷山に築いた居城の跡。南方に虎御前山・山脇山・雲雀山・丁野山、北方背後に伊吹山系が控え自然の要害をなし、南麓を北国脇往還・北国街道・中山道が通る交通の要所に位置する。
京極氏の根本被官であった浅井亮政の代に築かれ、三代長政によって整備されたが、織田信長に攻められて後、羽柴秀吉に移譲され天主その他は長浜城に移されたという。
城は小谷山山頂大嶽(おおづく 標高495.1m)の大獄城と、その東から南東に延びる屋根上に築かれた本城からなる。
小谷城絵図・ほか
関係者一覧
浅井亮政像 小谷城址保勝会蔵
浅井長政像
浅井長政・お市の方像 高野山持明院蔵
朝倉義景像 心月寺蔵・織田信長像 神戸市立博物館蔵
浅井家略系
小谷城の概要
築城の年代は大永元年(1521)頃とされているが、一時期に完成されたものでなく、長期間に亘って改造が繰り返されたとされる。
城の中心は東尾根にあり、北から山王丸・小丸・京極丸・中丸・本丸などの郭(くるわ)が連続して配置される。
これらの郭は要所に石垣を設け、礎石建ちの建物が配されている。
浅井氏や有力家臣の生活の場は、二つの尾根に囲まれた清水谷にあり、雛壇状に造成された屋敷地跡や寺院跡を見ることが出来る。
小谷城の頂上には大嶽城(おおづく)があり、西の屋根上には山崎丸・福寿丸などの郭が配されている。
小谷城散策コース
① 本丸コース ②清水谷コース ③尾崎山コース ④焼尾コース ⑤脇坂甚内コース ⑤本宮の岩屋コース
とわけることもできるようだ。
今回は、本丸コースと清水谷コースをめぐる。 所要時間は約2時間半を予定。
KHK大型ドラマ“お江”の放映の影響で、観光客が大幅に増加し、市あげての歓迎行事が行われている。
来訪者へのボランテイアの人々と特別催し会場(小谷城戦国歴史資料館)
◎スタートは追手道 道幅は2m弱、地道である、道の両側は樹木が覆う。
追手道は清水谷から番所跡へと通じる道。近年、通る人もなく荒れていたのを手入れされた。
★真柄峠(まがらとうげ)
馬酔木(あしび)の群生する急な山道をしばらく登ると「真柄峠」の石碑が建っている。
★望笙峠(ぼうしょうとうげ)
春はツツジ、秋は萩が咲く旧道を進む。
舗装された車道が走る。今はシャトルバスだけが通行できる。見晴らしがいい。
好天の日には竹生島が正面に見えことから、「望笙」と名付けられたともいわれる。東には伊吹山もみえるとか。
★金吾丸跡
登り道には階段が整備され、道の両側にはツツジヤハギが植えられている。
大嶽に対峙できる場所に陣をおいたため、大嶽が真正面に見える。
◎小谷城址絵図(現在地点の確認)
★番所跡
金吾丸を下りた所の左手にある。ここが小谷城の入口である。
石垣が少々残る。数mの土塁もある。
★お茶屋跡
景色
★御馬屋敷跡
御馬屋敷は西・南・東の三方を高さ約2mの土塁が囲み、建物の礎石と思われる石が散乱している。
こから大広間跡・本丸跡・中の丸跡付近まで幅3〜5mの細長い曲輪がめぐらされている。らしき跡が認められる。
★馬洗池
石積みの枠に囲まれた池
★首据石
六角氏との戦いで敵方に内通した箕浦城主今井秀信を神照寺庭園で催された茶会に誘い出して討ち、その首をさらしたとされる石。
★赤尾屋敷跡
本丸から東へ少し下がったところに重臣赤尾美作守清綱の屋敷がある。
唯一筆頭宿老である赤尾美作守清綱の屋敷だけ本丸のそばにあった。
★黒金(くろがね)御門跡
首据え石から少し登ったところに黒金御門がある。左右に巨石を積んで石垣を築き、中央に数段の階(きざはし)が築かれている。
★桜馬場跡
現在では一帯に、大きく枝葉を広げた桜の木が数多くある。さくらのシーズンは最高に映える。
御馬屋敷跡の北にある曲輪、南の桜馬場下曲輪には建物の礎石が見られる。残っている礎石は大きくはない。
西の端から竹生島が見えるようになった。
大広間跡との境に史蹟小谷城址碑、小谷城址碑・浅井家供養塔が建つ。「小谷城址碑」には、浅井三代の歴史をしるす。
小谷城址碑は昭和4年(1929)5月建立。
★大広間跡
黒金御門を入ると「千畳敷」と呼ばれる大広間がある。約3500㎡。場内で一番広い。礎石らしいものが散乱している。
遺構調査では、多くの礎石や敷石は発見されたが、一片の瓦も発見されず、焼かれた痕跡も発見されなかった。
秋の紅葉が美しいようだ。
東西四十間、全体に地形は馬の背のようで、両側は断崖絶壁、奥のほうに通称「鐘の丸」とも「本丸」とも呼ぶ小山がある。
大広間には御殿が建ち、井戸や土蔵も点在していた。
★本丸跡
古図には「鐘丸」と描かれている。北側に大堀切が見られる。上下二段の平坦地からなる。
結構な高さである。
★御局屋敷跡
大広間西北詰隅、一段低いところにある腰曲輪で平地。
お市の方など浅井一族の婦女のいたお局屋敷(女中屋敷)があったとされる。
★大堀切跡
★中丸跡
本丸から北へ100mほど行くと、中の丸の砦がある。本丸と中丸跡とは掘りきりで分けられており、堀切の東奥に高さ5mの二段の石段が築かれている。東西十六間、南北三十間、二の丸・中の丸の二段に分かれている。刀洗池はおよそ1m角。
★京極丸跡
京極高清父子のいたところである。
★小丸跡
京極丸の上に小丸の砦があり、浅井久政がいた。
★山王丸跡
東西二十間、南北四十間、三郭に分かれ、ここは、小谷城の本丸と呼ぶにふさわしい堅塁である。
秀吉に破壊された石垣が残る。
◎ 山王丸を過ぎると、北方に六坊・月所丸後がある。そして残るは“大獄城跡”である。
★六坊跡
山王丸から岸壁の急坂を下ると六坊がある、久政時代、当時、湖北にあった六つの有力寺院と連絡を蜜にするため、その出張所が置かれた。
久政が陣僧などの諸役を命じた。寺院も大きな力を持っていたことを語る。
★月所丸
浅井氏が造成した砦の中では最高の造り。北側からの攻撃を防御するための砦。畝上の堀や二重堀切、高い土塁など貴重な遺構がみられる。月所丸は後でつけた名称。
★大獄城跡をめざす途中、唯一の絶景。光る西池がみえる。はるか奥に伊吹山が見えることがある。
★大獄城跡
小谷山山頂にある砦で、昔大岳寺(おおずく)があり、その廃寺跡を利用して、早くから築かれたようである。
最近南東部分の樹木の刈り払いが行われ、竹生島、手前に山本山が見える。
◎帰り道は、六所近くで分岐する清水谷経由の道をたどる。
大獄と本丸の間の清水谷には、浅井一族や重臣たちの屋形がずらりと軒を並べていた。
古地図には、これらの屋敷跡が記されているが、場所が確定していないもののある。位置が判明しているところには石碑が建つ。
途中で出合った頑張り坊や(3才)!
◎道幅は狭い。向って左側は渓流である。右の山側に居住跡が残る。下りで段が多い。
★土佐屋敷跡(大野木屋敷跡)
浅井氏の重臣大野木土佐守の屋敷跡。三田村屋敷跡の上方谷道沿いの西側に位置する。
ここからしばらく登ると六坊への尾根にでる。
★三田村屋敷跡
丸子砦、蛙砦、八帖岩と登るにつれて道はけわしくなり、木橋を渡ると、三田村城主・三田村左衛門尉の館がある。
姉川に近い三田村に居館を持つ重臣三田村佐渡守の屋敷跡。谷川沿いに石垣が確認できる。
★巨岩が並ぶ。
谷川の中や谷沿いに、広さ八畳ほどの岩。高さ約5mの大きな蛙に似た岩。そして丸子岩が並ぶ。
★御屋敷跡
徳昌寺のすぐ上、ゆるやかな坂のいちばん奥に杉林が広がる平坦地が現れる。古地図に「御ヤシキ」と書かれている。
浅井家の広大な屋敷で、浅井三代の当主や三姉妹たちは、日常ここで生活していたと思われる。
広大な屋敷に入ると内玄関、書院、居間、女中部屋がり、右手には、宝蔵番所、御台所、下台所がある。
また、左手には、具足屋敷、番衆屋敷下屋敷などが立ち並んでいたという。
ここから急な坂道に変わり、右手の急斜面に何本もの竪堀が現れる。
★堅堀
御屋敷近くの右手急斜面に何本も掘られた。
◎ 清水谷コース配置
★ 観音堂跡
徳昌寺跡の西、福寿丸跡の下斜面にあって、三段の曲輪からなる。長浜市所蔵の小谷城跡絵図に「観音堂跡此所能水有」とあるところから湧水地であったことが伺える。
徳昌寺跡
浅井氏の菩提寺で、清水谷の奥、清水道の御屋敷の前面に位置していた。落城後、秀吉によって長浜に移された。
現在、長浜市平方町にある徳勝寺がそれで、浅井三代の墓がある。
虎ケ谷道
大手道の可能性あり
山城屋敷跡
浅井氏の一族浅井山城守の屋敷跡と伝えられる。虎ケ谷道の西に位置し、中央の清水道にそって土塁の痕跡が見られる。
虎ケ谷道の西に位置し、中央の清水道にそって土塁の痕跡が見られる。
遠藤屋敷跡
元亀元年(1570)6月28日の姉川の合戦では、浅井方の敗北が濃厚となったとき、信長の首を取るべく単身信長の陣に乗り込んだが、信長方に討ち取られた。「信長公記」
上記以外の主な遺構
福寿丸・山崎丸は南にのびる尾根上にあって、規模・構造・年代のいずれも類似性が高く、ともに朝倉流の縄張りが見受けられ朝倉氏の指導または影響のもとに築かれたものと推定される。
福寿丸
山崎丸
まとめ
尾根に抱きかかえられた清水谷の様子がよく分かる。浅井氏や有力家臣の生活の場であった。
全体案内
【お断り】
含まれるイラストは《地域情報誌みーな vol.105》掲載より引用させて頂きました。「滋賀県中世城郭分布調査」7(滋賀県教育委員会)に掲載された縄張図をもとに、中井均氏「NPO法人城郭遺産による街づくり協議会理事長」のアドバイス、大田浩司氏 「長浜城歴史博物館」の原案を、中谷訓子氏がイラスト化されたものです。
小谷城は落城後、秀吉が城主になったが、在住2年後の天正4年(1576)小谷城の石塁・城郭・町屋・寺院などを今浜(現長浜)に移したので、廃城となった。
小谷城の城下町については、詳細が不明であるが、範囲は2万㎡にわたると推定されている。城の移転と同時に城下町も長浜に移ったものとされ、長浜には大谷市場・東本町・西本町・本町など、同じ町名が残っている。
昭和45年〈1970〉から平成元年〈1989〉にかけて発掘調査、遺構の分布調査が行われ、本城を中心に土塁・石垣・礎石などの遺構が確認された。
小谷城を築いた浅井氏は、室町時代守護京極氏の家臣であったが、その後台頭し、2代久政・3代長政と勢力を拡大していった。
信長の妹。お市を娶った跡、盟友朝倉氏と同盟を組み、織田信長軍に抗したが、天正元年(1573)落城した。
長政と父久政は城中で自刃、長男万福丸は関が原で磔(はりつけ)にされたが、お市の方は3人の娘とともに信長のもとへ送られた。
お市の方はのち柴田勝家に再嫁し、秀吉に敗れた勝家とともに悲運の生涯を閉じた。
長女茶々は秀吉の側室淀君として秀頼を生み、次女初子(はつこ)は八幡山城主(のち大津城主・小浜城主)京極高次)の室となり、三女達子は徳川秀忠御台所として千姫〈秀頼の室〉・家光・忠長・和子(東福門院。後水尾天皇中宮・明正天皇生母)らを生んだ。浅井氏は滅んだが、その血脈はわが国近代史に大きい地位を占めた。
虎御前山(とらごぜんやま)
長浜市中野町(登山口)
中野・別所・河毛集落に囲まれた山で、織田信長の小谷城攻撃の拠点となった。標高208.7m 虎姫山とも称する。
小谷山との間を国道365号線(旧北国脇往還)がはしる。
この山の桃須谷の井筒という泉に忽然と類稀な美女があらわれ、せせらぎ長者の妻となった。やがて懐妊して15筋の小蛇を生んだが、これを恥じて山東の淵に身を投げ込んだ。今の女性淵(にょしょう)がこれである。それよりこの山を美女の名にちなんで虎御前山
とよんだという。
元亀2年(1571)織田信長は、浅井氏攻略のため、小谷山に対峙するこの虎御前山に城砦を築いた。天正元年(1573)信長をはじめ秀吉・柴田勝家・堀秀政・滝川一益・丹波長秀らが陣を引き置き、小谷城を攻撃し、ついに落城させた。
江戸時代に建造された矢合神社、多くの陣屋跡、曲輪、堅掘などが残る。
今はキャンプ場ができ、さくらの名所となっている。琵琶湖も一望できるとある。
参考資料≪戦国大名浅井氏と小谷城・み〜な≫
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