滋賀県長浜市 舎那院
Nagahama Shanain
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Apr.2010 撮影/文:中山辰夫
長浜市宮前町13−45
真言宗豊山派
長浜市街地の中心にあって、長浜八幡宮の東隣にある。
明治の神仏分離までは八幡宮の別当寺をつとめていた。
神仏分離令の際に八幡宮から仏像・仏画・仏具が舎那院に移された。
それらの中には、国指定重要文化財のものが多く含まれている。
その多くは2棟の収納庫に納められている。
3200㎡の境内には、八幡宮から移された本堂のほか護摩堂・観音堂・太子堂など多くの堂宇が所狭しと並び建っている。
弘仁5年(814)空海の開基と伝える。
後三条天皇の時期には七堂伽藍が整い、寺中四十九坊あったと伝える。
永禄年間(1046〜53)には、源義家がここで東夷征伐の戦勝祈願を行ったとの寺伝が残る。
中世兵火で焼けたが、天正年間(1573〜92)の初めに羽柴秀吉によって再建された。
明治初年の神仏分離までは長浜八幡宮の別当寺であった。
明治の神仏分離で他の坊を廃して舎那院のみが残った。
昭和14年(1939)、八幡宮が紀元二千六百年の記念事業として、神域の整備を行った際に本堂(愛染堂)及び護摩堂が神社から寺域北部に曳家で移された。
太子堂
観音堂
昭和17年(1942)の復興前の本堂
本坊・茶室跡
かっては、小堀遠州晩年の作である三畳八窓の名茶室があったが、大正8年(1919)北海道へ売却され、現在札幌市の公園内にあって、重要文化財に指定されている。
本堂
七間四面総欅造りである。
江戸後期大型仏堂で堂々とした外観を持ち、内部も見ごたえがある。
形式的には宝形の三間四面堂で、入側の背面一間を附加した形である。
滋賀には少ない真言宗の大規模仏堂として注目される。
宝暦4年(1754)、八幡講を結んで資金をつのり、明和7年(1770)大工頭長浜町の村居九兵衛、平九兵衛が工事に着手。
文化7年(1810)落慶を見るまで、57年の歳月を費やしている。
八幡宮境内にあった本地堂を昭和14年(1939)に境内を拡張してうつしたもの。
本堂内部
天井部のつくりに注目
護摩堂(不動堂)
県指定文化財:建造物
桁行・梁間と同寸法の方三間の小規模な仏堂で、軒は一軒、疎垂木で木舞裏とするため軽快な建物である。屋根が美しい。
建立年代は柱の隅延びや頭貫木鼻・肘木の絵様から室町時代(16世紀後期)をくだらないとされる。
主要部財に当初部材がよく残存しており、痕跡により当初の形態がよくわかる。
県下における中世の護摩堂の遺構として貴重とされる。
本堂と同時に八幡宮境内より移された。
宝物殿
2棟建っている
心地池・石地蔵
心地池(放生池)の中央には、正徳3年(1713)彦根城主井伊直該公寄進の石地蔵尊が安置されている。
鐘楼
装飾が素晴らしい。
比較的小型で袴腰付きである。
上階の花頭部分以外は登り降りの龍の彫刻で埋め尽くしており、その点からは19世紀に下がる様相を示す。
軸部や細部絵様はしっかりした仕事で棟札通り宝暦5年(1755)の建物と認められる。
この鐘楼のように、彫刻を一面に入れるたてものはが18世紀中頃に存在していることは、全体的に保守な滋賀県にあっては特異である。
下階では厚い台輪を置いて腰組をおく。木瓜及び拳鼻の形態に独特のものがある。棟梁は本堂と同じである。
鬼瓦
文化7年(1810)本堂落慶時のもの
重要文化財一覧
木造阿弥陀如来坐像
国重要文化財
木造、ヒノキ材、寄木造、漆箔、像高:89cm
宝仏殿に安置されている平安時代の作
木造愛染明王坐像
国重要文化財
木造、ヒノキ材、彩色、像高:49.4cm 13世紀後半の作 獅子・本面に玉眼を嵌入している。
躍動感にあふれた精緻な彫法をもつ鎌倉時代の彩色像
絹本著色三月経曼曼茶羅図
鎌倉時代の作
懸仏
裏面に秀吉の生母についてのことが彫られている。
参考資料《滋賀県の近世社寺建築、郷土資料辞典、滋賀県の歴史散歩、総覧日本の建築、長浜市史、など》
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