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滋賀県長浜市 塩津

Shiotsu,Nagahama city,Shiga

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Sep.2014 中山辰夫

塩津浜の町並(塩津海道)

長浜市西浅井町塩津浜塩津浜は、琵琶湖北岸の塩津埠頭、大川(塩津川)河口左岸に位置する。

塩津港は、海津(マキノ町)・大浦共に湖北三湊の一と称され、古代以来畿内と北陸を結ぶ重要な港であった。

この港を中心に、塩津海道に沿ってまちなかが約1kmの間につくられ、両側に民家が並ぶ。現在も同じである。

かつて塩津浜には本陣と、問屋が六軒あったとされる。問屋は浜の荷物を峠まで輸送する仕事を一手に引き受けていた。

明治の初めには、旅館が立ち並び、蔵なども軒を連ね、港町として賑わっていた。

現在の町並み

港に接して通る国道8号線から海道筋に入る。

通りの右側に浄心寺が見える

通りは、街道らしい趣が出てくる。

町家毎に案内の掲示がある。造り酒屋 屋号『沢屋』

元宿屋 屋号『木又』

屋号『古平』 道具蔵

元宿屋 屋号『半平』

本宅は建て替え。1793(寛政5)年建築とされる蔵が残る。

築後約220年経過の蔵を、90歳と80歳越えのご夫婦が隠居部屋として使用中。訪問者にお茶を接待。中庭を教えてくれる。サルスベリが弱ってきている。

元塩津郵便局舎

宿屋 屋号『丸一』 深坂峠や塩津湊まで客人を駕籠で迎えに行ったとある。

宿屋 屋号『菱屋』

塩津には、かつて旅館もたくさんあった。町並みには旅館らしき建物が今も残る。屋号を付けた旅館が、敦賀の旅館と連携を保ち,天保から慶應にかけて繁昌し、一日三十人、多いときは百人前後泊まったという。その他の町並み・家並み

旅館の客人は商人、京都や本願寺へ行く人、問屋関係の人たちで、港の桟橋まで夜二回、昼二回迎えに行ったという。

しかし明治期の鉄道の開通、大正末期の賤ケ岳トンネルの開通、昭和十年代の国鉄バスの運行などで激変した。

人影少ないまち並みにわずかな面影を残し、昔日の栄えた姿を留める。港の景観は、昭和十九年食糧増産のために塩津内湖、同35年に娑婆内湖が干拓され、更に大川も整備されて昔の面影はなくなった。

稲荷神社

寛永年中(1624〜44)京都伏見稲荷神社を塩津神社にの相殿に分霊し、配祀し、稲荷明神または海北稲荷と称した。1872(明治5)年にこの場所に移した。

深坂古道(塩津海道)撮影日:Aug.02.2014 紫式部も通った万葉の道として名が通る古道。昔日の面影を追う。

位置図

近江・塩津と越前・敦賀を結ぶ塩津海道にある古道。深坂古道は、古来「深坂越え」と呼ばれ、越前と近江を結ぶ主要道路として賑わった。

万葉の歌人・笠金村や、紫式部が父(藤原為時)に同行して通った道としても知られている。又平清盛が琵琶湖—敦賀間の運河計画を命じた所でもある。

この時に掘り起こした大岩が深坂地蔵と伝えられている。

近世に移り、秀吉によって高低差の少ない「新道野越え」が東に開かれると難所とされてきた「深坂越え」の道は衰退していった。

現在では東の「新道野越え」は国道8号線に、西の「西近江路」は国道161号線に姿を変えている。深坂古道は使われなくなった。

交通路としての主役の座を明け渡した「深坂古道」は、激動する時代の動きの中に取り残された、数少ない古道のひとつである。

全長3.8㎞と短いながらも「深坂問屋跡」「深坂地蔵」「笠金村歌碑」「紫式部歌碑」など、悠久の歴史に触れることができるのがこの道の魅力でもある。

コースは滋賀県と福井県にまたがっている。コースの北には疋田舟川(敦賀市)の運河遺跡もあり、当時の物流の様子に触れることが出来る。

◆◆古道散策塩津浜からJR塩津駅まで約3km、駅から古道登り口の近江鶴ケ丘まで約5km、港から合計8kmほど国道を歩いて深坂古道南口に到着する。

道路の不備な昔はもっと距離があったであろう。駅から近江鶴ケ丘までバスを利用する。5分である。(適する時刻は一日一本)

福井側からは「深坂峠」を越えて近江の塩津に出るので、「深坂越え」、滋賀側からは近江の塩津から追分・疋田へは「塩津越え」と呼ばれた。

滋賀側には旧道とは別に林道が通り、古道の道幅は擬木で階段を作り登りやすくしてあるが、福井側は道路の整備がすすんでいないため、古色蒼然とした趣が残る。

JR塩津駅

バスは国道8号線を走る。この8号線が新設された新道野越えである。

近江鶴ケ丘バス停=深坂古道南入口 

散策開始 バスを降りて約240m歩く。

人手の入った跡がない道のはじまり

深坂問屋跡 

南入口から約300m 石垣が残る。問屋場は深坂古道が利用されていた戦国時代以前のもので、後は新道野に移る。

参道

深坂地蔵への参道である。

8月の大雨で、土が流され、露わになった石道が結構な距離続く。凹凸がはげしいく歩き辛い。 一部林道を廻る。旧道は別にある。

深坂地蔵

問屋跡から600mの距離である。 峠の手前に建つ。

高さ161cm、厚さ58cm、浮き彫りの厚さ15cm、お顔35cm、右手に錫杖左手に宝珠を持つ普通のお地蔵さんの姿、中世末〜近世初の作。 

昭和の頃は、信者が振りかけた塩が解けて、身体全体が白く濡れたようになっておられた様で、現在は振り掛けを禁じられ、袋のままでお供えされている。

平安末期、平清盛が近江・塩津から越前・敦賀を結ぶ運河の計画をたて、当時の越前国司であった清盛の長男・重盛に工事を命じた。重盛は塩津側から掘削を始めたが、工事の最中に大岩から地蔵が出てきたので掘るのを止めた。運河計画は中止となり、その場にそのお地蔵様を安置したと伝えられている。

現在では子供の守り神として、多くの人々がお参りに訪れていると聞く。旧道 

参道の横にある旧道。歩かれた気配が全くなかった。

深坂峠

標高370m。案内板が立つ。山手に山城の遺構が残ると言われる。ここから先は福井県か。

炭焼き窯跡や巨大なホオノキを見ながら進む。

笠金村歌碑

深坂地蔵から700m

笠金村とは、柿本人麻呂に続く宮廷歌人として、元正、聖武両天皇の時代の歌人。万葉集に45首含まれる。

紫式部歌碑

笠金村歌碑から600m

996年。父の藤原為時が越前の国司として任につく際、船で塩津に着いた後、この深坂を越えて行った。

その時同行したのが20才前後の紫式部である。もちろん、貴族である式部が歩いて通った訳がなく、輿に乗っての旅であった。

深草古道北口迄

紫式部句碑より700m。整備が進んでないこともあって、しばらく行くと古道は川になる。もともと沢であるが、8月の雨で水量が増している。

沢を渡る橋がすべり易いと案内にあったが、見事に尻もちをついてしまった。暫くの区間は要注意であった。 

古道らしくなった辺りで振り返ると通り抜けてきた塩津山が見えた。北口の案内板で古道散策は終了である。

付近地図

JR疋田駅

福井県敦賀市疋田70−8

深坂古道出口からは700m。

案内

愛発関(あらちのせき)とは、近江国と越前国の国境に置かれた関所。東海道の鈴鹿関と東山道の不破関とともに三関の1つであった。

天智天皇の頃に近江宮を東国から防衛するために設けられたとされ、郡衙や軍団と同等以上の規模だったと考えられる。

764(天平宝字8)年に藤原仲麻呂が反乱を起こした際には、息子のいる越前国への逃走を防ぐために関が閉じられた。

その後、789(延暦8)年に廃止された。

塩津港遺跡

長浜市西浅井町塩津浜撮影日:Sep.09.2014 お断り:記載の内容は滋賀県教育委員会発行資料がベースである

■■■塩津

■琵琶湖の北端、塩津湾の湾奥に位置する塩津は、古代以来、北陸道諸国の物資を湖上交通によって京都へ運ぶ集積地として、重要な位置を占めていた。

■塩津の地名は、764(天平宝字8)年に藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に関わって『続日本書紀』に登場し、『万葉集』にも詠まれるなど、奈良時代に登場している。また、平安時代の郷名としても『和名類従抄』に浅井十三郷の一つとして記される。

塩津という地名は、北陸から運ばれる塩の中継港であったことに由来するともいわれる。

■塩津港は、奈良・平安から江戸時代まで湖北を代表する港として賑わったが、1882(明治15)年に敦賀〜長浜間に鉄道が開通し、1938(昭和13)年に定期連絡船が途絶えると衰退し、現在見るような静かな湖畔の集落へと姿をかえていった。

■■塩津の現在

■現在の塩津港 港としての機能は終わっている。

船上よりの遠景と港周辺(おもに公園より)

■8号線バイパス工事が進行しており、大川の河口上に橋梁新設工事が行われている。

工事当初の風景

バイパス完成

■■大坪川船溜り跡

近代まで使われており大小の船が停泊していたという。 大川も近くを流れる。塩津港遺跡の現場にも近い。

■吉崎道場へ向かわれる蓮如上人が遭難してここに到着された。天台宗の浄光寺に寄寓。浄土真宗に改宗するキッカケとなたt。した。

■■■塩津港遺跡 

■■発掘調査

平成18〜20年に行われた。

平成18年・19年の調査では、平安時代後期頃に建てられ多神社跡や、長大な起請札・木簡が見つかった。

平成20年度の調査で、前回見つかった神社に伴う鳥居・門・井戸を確認した。さらにもう一つあることが分かった。

古代から中世への移行期における港周辺の実態が示された全国的にも稀有な例として注目される遺跡である。

■平安時代の琵琶湖湖上交通路

塩津港遠景

日本海に面した敦賀港までは約18.6km、この両地点を運河で結ぶ計画が幾度も実行されたが実現しなかった。

■■発掘場所

遺跡は塩津集落の西側を流れる大川(塩津川)の河口付近にあって、大川の河川改修に伴い平成18年度から約3,000㎡を対象に発掘調査が実施された。

右側の大坪川沿いが近代までの塩津港、発掘調査地は画面中央やや左側の白色の橋の手前である。

塩津湾に流入する大坪川と大川。塩津港遺跡はこの二河川の河口付近一帯に位置する。

■■社殿検出

神社遺構は数字に亘って建て替えられ、12世紀には廃絶している。

■11世紀遺構面全景と神社想定図

写真の下半分に社殿があり、上半分に社殿域の南側を区画する堀がある。約50m四方の掘りに囲まれた「正殿」・「拝殿」・「鳥居」・「門」などの施設がある。

奈良時代から鎌倉時代前期にかけての建物跡で、建物はほぼ同じ位置に掘立柱建物から礎石建物、基壇を持つ建物へと何度も建て替えされている。

■宗教施設とみなされる基壇を持つ建物

一辺7mの方形の基壇(手前の石組)が確認された。建物の前面(南側)には琵琶湖が広がる。

■礎石建物

平安時代後期〜鎌倉時代前期のもの。柱を礎石の上に据えて建てる構造の建物。写真中央に並ぶ平らな石が礎石である。

■掘立柱建物

掘立柱建物は、柱の根元の部分を土の中に埋めて柱が倒れないようにする構造であるが、今回の調査では柱の一部が立ったままの状態で見つかった。

■鳥居の柱

太さは根元で約50cm、人々は琵琶湖側から堀を渡り、鳥居をくぐって参詣したと思われる。鳥居から北側に30m進むと、拝殿・本殿がある。

■神様用の井戸

井戸枠には、直径60cmの曲物が使われ、底部には玉砂利が敷かれていた。神様用の井戸「神泉」である。発掘時もコンコンと湧き出ていたとされる。

■出土した男神像と女神像

神社跡の堀の中から5体の神像が発見された。5体もの神像の発見は日本で初めてである。いずれも高さ15cmほどの一木作りの像である。神像は本来、社殿の中に安置され人目にはふれることのない神聖なものとされる。1185年に琵琶湖で起こった大きな地震の際に起きた津波に、社殿ごと流されたとされる。

■調査風景

遺跡は川が運んできた厚い砂の層に埋まっていた。この砂の中から多くの土器が出土した。

■出土遺物

(左)金銅製鳥脚(長さ5cm、幅2.5cm) (右)土師器(まじないの文字がかいてある 鎌倉時代)

■剣頭紋軒平瓦

屋根瓦片。平安時代後期(12世紀後半)に平安京で作られ、琵琶湖上を運ばれてきたもの。

この時代の近江で、瓦を出土した遺跡は十指に満たない。しかも見つかったのは南湖周辺の遺跡で、屋根を葺いたとは思われない1〜数点の瓦片に過ぎない。 そうした中で、塩津遺跡からは棟に使ったと推測できるほど多量の出土で、県内では大津市園城寺に次ぐ出土量である。

11世紀の後半、延暦寺と園城寺(三井寺)は大津浦の支配をめぐって争い、12世紀代には山門領大津東浦と寺門領大津西浦とに分かれて対立していた。

そして、剣頭紋軒平瓦は園城寺では珍しくないに関わらず、延暦寺では今のところ殆ど出土していない。このことはここで出土した瓦が、園城寺支配下の大津西浦を窓口に平安京から運ばれてきたことを示す。

■■起請文木簡

■日本最古の起請木簡

神社跡南限の区画溝跡から数多く出土した。この木簡から、この神社が琵琶湖の湖上交通〜輸送に深くかかわっていた様子がわかる。

大きさが非常に大きいのは、人目に付くよう掲示するためとされる。

■内容

これらには保延3年(1137)・保元2年(1157)・平治元年(1159)・永暦元年(1160)といった年紀がある。

このうち最も保存状態のよかった保延3年の五十二号木簡には、草部行元が運搬を請け負った荷物について、魚一巻も無くさずに運ぶことを誓約し、もしその事にウソ偽りがあれば、日本国中一万三千七百余所の神罰を体内の毛穴に蒙る(こうむる)と記されている。

他の木簡にも、米は一升も盗まないことを神々に誓約するといった、運搬の信用性を保証、PRする内容が見える。塩津港が物資の運搬で賑わう様子がわかる。

■その他

木簡と一緒に箸や松明に使われたと思われる松根の細材や炭化した米の塊もでた。大量に出土した土師器と合わせ、この場所で夜に明かりを灯して神に誓い、食事をする儀式を行っていたと思われる。

■■出土船形木製品

出土の船形木製品から復元された平安時代末の木造帆船。平安時代末の船の構造を知るための重要な資料とされる。

全長17.3cm、幅4cm、底は失われているが、平らであったとされる。船体には2本の梁が渡され、前方には帆柱をはめ込んだようなくぼみがある。

平面形が細長く直線的で、先端がやや丸みを帯びている様子や、平底である点は、後の丸子船と共通する特徴である。

弥生時代から続く丸木船をベースにした準構造船に替わって、新型の木造帆船が琵琶湖に登場していた。

■■木造帆船イメージ図

■■■塩津港遺跡のイメージ

■■■塩津遺跡の現状

大川の河口にそれとわかる平地があり、草に覆われている。すべて埋め戻されている。知る人しかわからない状況で、看板すらない。

■■遺跡調査中

大川の河口近辺、バイパスの橋梁工事現場の河床の調査が行われていた。

更に新しい情報が得られたとき、何らかの施設が設けられるのであろうか、このままでは残念である。

参考資料

明治中期の塩津の賑わい 太湖汽船支社

 参考資料≪近江湖物語、レトロ・レトロの展覧会、塩津港遺跡現地説明会資料、滋賀県の地名、その他≫

塩津神社

長浜市西浅井町塩津浜547撮影日:Aug.2.2014 柿本人麻呂公の歌碑が塩津神社の社頭にある。

『味鎌之塩津乎射而水手船之名者謂手師乎不相将有八方』 味鎌(あぢかま)は塩津の枕詞で湖北の良港として栄えていた。

神社はJR塩津駅から約3kmの塩土山に、琵琶湖に面して鎮座している。社前を8号線が走る。

祭神:塩土老翁神 彦火火出見尊 豊玉姫尊伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に「塩池」があった。

ささやかな池ながら塩水が間断なく湧出した。そこに遠祖塩土翁の遺訓を奉じて、これを汲んで製塩の業を行うものが23戸あった。

彼らがその遠租塩土老翁神を祀り、その後彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。

「延喜式」神名帳の「塩津神社」に比定する説がある。浅井郡の総社であったが、元亀年間(1570〜73)兵火にかかり衰微。

寛永年中(1624〜44)に京都伏見稲荷神社分霊を配祀し、稲荷神社と称した。1872(明治5)年に稲荷神社を境外に移し、社名を塩津神社と復称した。

一の鳥居

二の鳥居から拝殿へ

拝殿:入母屋造 間口三間三尺 奥行三間三尺

 本殿

一間社流造 間口一間一尺 奥行五尺五寸

 大工藤岡甚兵衛光守の繊細な彫刻が身舎の組物と妻飾の小壁に見られる。

一の鳥居を過ぎた左側に石段がある。登った先に境内社が建つ。琴平神社とさらに上にあるのが愛宕神社である。

境内社八幡神社が拝殿の右に立つ。目立った彫刻

≪参考≫

昔は神社の前に二千年以上の杉の大木が二本、一間くらいの間隔で聳えており、非常に森厳であった。その奥に本社があり、拝殿は琴平石段下の南に葭葺きの家があった。それが明治以後、拝殿は本社の前に置くべしとのことであったが、本社の前はスギの大木、後ろは山、拝殿を建てる余地がない。スギの古木を伐るか後ろの山を削るか二社択一と言う事になら、石べ山の建部神社の宮司の意見を聞くことになり、結局その人の意見に従い、杉の古木は神社の荘厳に残し、山を削って本社を上げ、しかして本社跡に建てたのが今の拝殿で、1910(明治43)年竣工となった。

その後、台風で杉の木が折れ、拝殿の一角を壊したりしたので、売却した方がよかろうと、東側の木は1948(昭和23)年金壱拾参萬円也で売却され、西側の木は1953(昭和28)年四拾五萬円で売却された。

参考資料≪滋賀県の地名、湖のくらし、他≫

常夜燈

西浅井町塩津浜 1834(天保5)年、塩津浜集落北入口に建てられた街道常夜燈。塩津浜9カ村の世話役と荷物運搬に携わった人々が建立した。

同12年の道標が残り江戸時代の街道の面影を留めている。

常夜燈には五穀豊穣成就と彫られている。

道標には、同一面に「左 いせ たにぐミ きのもと」「すぐ竹生島 大津 諸浦出航」と刻まれている。

「左 伊勢 谷汲 木之本」とは木之本で北国街道に出て中山道に連絡する道を示している。

「すぐ竹生島 大津 諸浦出航」とあるのはほかでもない、塩津港を指し、そこからの湖上航路行先を示している。

浄光寺

西浅井町塩津浜浄光寺は塩津海道から少し奥まった所にある。

京極高詮の甥高雄(善慶)が創建、はじめ天台宗法泉坊と称した。

のち浄土宗に改めて応浄寺と号したが、1471(文明3)年善慶が蓮如に帰依し六字名号を譜よされ宗旨・寺号を改めた。現在は単立蓮如との関り

大坪川船溜り跡に建つ案内と境内に建つ案内

境内まわり 井戸は今も涌き出ている。

鐘堂

本堂外回り

本堂内部 了解を得て撮影する。

浄光寺の位置

塩津港付近よりの遠景

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