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滋賀県近江八幡市 長光寺と長光寺城

Chokoji,Omihachiman city,Shiga

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March 1,2020 大野木康夫 source movie

 

長光寺城
Chokoji castle, Omihachiman city, Shiga


所在地 滋賀県近江八幡市長光寺町

(公益社団法人びわこビジターズビューローの滋賀県観光情報サイトの解説)

長光寺城のあった長光寺山は、別名、瓶割山と呼ばれています。
この由来は、織田信長の命により配されていた柴田勝家が、近江の守護「佐々木」の軍勢に包囲され籠城策を取った際の逸話によるものです。
籠城が長引くにつれ、貯蔵している水も残りわずかとなり、このままでは落城も時間の問題と思われたが、柴田勝家は、座して死すよりも将兵の士気を鼓舞し勝利を収めるため、残りの水を将兵に飲ませた後、その水瓶を自ら割って必勝を期し勝利を得たという武勇伝から瓶割城とも言われるようになったと伝えられています。
長光寺城は、応仁の乱に際して佐々木氏も東軍と西軍に分かれ、長光寺城と観音寺城を互いの居城として戦いを繰り広げたところです。
佐々木氏は最終的には織田信長により攻略され、安土城の完成とともにその役割を負え自然廃城になったようです。
又、この山より産出される良質の花崗岩の石材により石工の名匠が誕生したことでも知られ、大阪城、聚楽第、方広寺大仏殿、三条大橋、江戸城、名古屋城、彦根城などを手懸けたとされる「馬渕石工」「岩倉石工」が桃山時代から江戸時代初期に全国で活躍しました。

現地説明版
   


長光寺山遠望
 


長光寺山は近江鉄道の武佐駅の南にそびえています。
登山口は長福寺町の日吉神社です。
駐車場がないので、神社近くの公園に駐車させてもらいました。
       

登山道は少し急な坂になっていますが、歩きやすいです。
登城口から土橋まで、撮影しながらでも15分足らずで登ることができました。
                  


一の郭と二の郭の間の土橋と堀切のところ
      


一の郭南西の高石垣
                              


一の郭を反時計回りに回り込み、石垣の残り石などを撮影
                        


三の郭までを往復して撮影
                  


一の郭東側の残り石垣
                                             


井戸跡など
       


一の郭
        


土橋を通って二の郭へ
      


二の郭
    


二の郭南側の石垣とその付近
          


帰路
           


思ったよりも楽に登ることができ、いろいろな石垣も見ることができました。


Mar.24,2018 中山辰夫 近江八幡市長光寺町694

近江鉄道武佐駅から約600の距離にある。

長光寺町の中央部、瓶割山の北山麓に位置し、北側を近世の中山道(古代東山道)が通る。付近には白鳳期から平安期にかけての長光寺遺跡がある。

聖徳太子建立四十九院の寺院の一つで、当時は七堂伽藍の大寺であった。「源平盛衰記」に太子后高橋妃の出産にまつわる草創の奇譚を記す。

説明

 

境内には高さ約15m、周囲約3mの巨木がある。これは日本最南限に生息する「ハナノキ」で近江八幡市の天然記念物に指定されている。

「花の木寺」と呼ばれる所以である。

 

宗派:高野山真言宗 本尊:千手子安観世音菩薩 号は瓶割山 草創:武川綱 開基:聖徳太子 

南北朝内乱期や戦国時代には当寺が城塞化し、足利尊氏・義詮父子に擁護された後光厳天皇は南軍に追われ,三度にわたって当寺に入寺した。

1568(永禄11)年織田信長勢によって長光寺城が落城した際に当寺も焼失したとされる。

1625(寛永2)年の長光寺村の領主であった伊勢桑名藩松平(久松)定綱が阿弥陀如来像・千手観音像・毘沙門天像・役行者像、前鬼・後鬼像祖師像の七体を寄進、翌年に田畑を寄進して順良に再興させた。

十二社神社の鳥居をくぐり参道を直進する。

       

境内

        

不動堂 

    

花頭窓の上の「鎌」と奥石(おいそ)神社の神紋

案内にある通り、長光寺は、聖徳太子が老蘇の森(奥石神社)に寓居されていた際に起こった妃の出産時の出来事からが始まりと伝わる。

「鎌」は、聖徳太子、奥石神社(神紋が「鎌」)、長光寺の関わりを語る。

     

本堂

         

御前立の千手子安観世音菩薩がすこし見える

太子堂

  

本尊:千手子安観世音菩薩

 

秘仏、50年毎の開帳で、昨年2017年に行われた。聖徳太子が611(推古19)年に自ら彫られたと伝わる。安産祈願として祀られる。

天然記念物 花の木

  

幹周/3. 02m、樹高/12. 7m、樹齢/推定500〜600年。巨樹ではないけれど、植物学上貴重なハナノキ

        

4月頃には可憐な花が、5月になると新緑が、11月中旬から下旬には紅葉が、大寒の頃には雪景色がそれぞれ見ごろ。

説明にあった当寺への歴史上の主な来訪者 三位中将平重衝・後光厳天皇・織田信長・

関連する人物 足利義満・馬淵氏・柴田勝家・玄広木食上人・松平定綱

関連文献 源平盛衰記巻三十八巻(鎌倉)・太平記(鎌倉」・東関紀行(鎌倉)・信長公記巻三(安土・桃山)

長光寺城跡 別名:瓶割城(かめわり)

長光寺城のあった長光寺山は、別名、瓶割山とも呼ばれ、独立丘陵の瓶割山(234.5m)にあった。

瓶割山の由来は説明板にあるように、織田信長の命により1570(元亀元)年にここに配されていた柴田勝家が、近江の守護「佐々木」の軍勢に包囲され籠城策を取った際の逸話による。

長光寺城は、応仁の乱に際して佐々木氏も東軍と西軍に分かれ、長光寺城と観音寺城を互いの居城として戦いを繰り広げたところ。

佐々木氏は最終的には織田信長により攻略され、安土城の完成とともにその役割を負え自然廃城になった

   

瓶割山 登山 

平均年齢70歳以上のパーテイです

登り口−太郎坊口は長光寺から約1kmの距離にある 登り口には大岩が露出している 頂上までは約1km

    

地山道、しばらく進むと岩、岩が現れる

       

この山より産出される良質の花崗岩の石材により石工の名匠が誕生した。大阪城、聚楽第、方広寺大仏殿、三条大橋、江戸城、名古屋城、彦根城などを手懸けたとされる「馬渕石工」「岩倉石工」が桃山時代から江戸時代初期に全国で活躍した。

地道が続く、先々には数箇所の結構なのぼりのカ所もあり油断できない。 城跡の説明板が案内する。

          

頂上

   

一の郭の石垣−6m程の高さと資料にあったが確認できず

   

遠景

     

さすが見通しが良好 近江八幡の中心が見渡せる

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