滋賀県近江八幡市 教林坊
Kyorinbo, Omihachiman city,Shiga
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General
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近郊の観音寺城跡、観音正寺、桑実寺、等を含めて評価 |
Nature
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もみじ 竹林 |
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さくら つばき |
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December 3,2022 大野木康夫
source movie
所在地 滋賀県近江八幡市安土町石寺1145
繖山の南麓にある教林坊は、庭園と紅葉で知られており、特に紅葉の時期には多くの人が訪れます。
早めに紅葉した葉が散紅葉になり、その下の木が赤く色づく頃(上下の紅葉)が見頃となるようで、訪問した12月3日が最盛期だと思います。
パンフレット
秋の公開期間は11月1日から12月10日まで、拝観時間は8時30分からでした。週末は混雑すると聞いていたので、朝の早い時間に行ったら山門脇の駐車場に駐車することができました。(帰りの時間には参道入口で車が列を作って待っていました。)
参道
山門近くの紅葉
参道
書院付近の紅葉
掛軸庭園
書院前から庭園越しに本堂方面が紅葉の撮影スポットになっているので、数分待って撮影しましたが、右下にカメラを持つ手が写り込んでいます。
書院前から庭園、本堂を見ると上下の紅葉で視界全体が赤く染まったように見えます。朝一番は本堂方面は無人となるのでかなり混雑していました。しばらくすると混雑は解消しますが、その頃には本堂方面に人が常時見えるようになります。
庭園の上を回り込んで本堂方面に行きました。
書院付近
庭園上部から書院、本堂方面を撮影
書院の周りが混雑しているのが分かります。
最上部の散紅葉など
本堂付近
本堂書院間の庭園
書院に戻って撮影
帰路
おそらく今年最後の紅葉の撮影ですが、一番見事だったと思います。
Nov.21,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
Jan.2012 中山辰夫
近江八幡市安土町石寺1145宗派:天台宗繖山(きぬがさ山=観音寺山)山麓の石寺集落内に位置する。
教林坊は、寺伝によれば聖徳太子が繖山山内に開基した33ケ坊の一つとされ、「寺社分限帳」によると天正13年(1585)に創立中興され、以来10代に渡って住職が存在したと記されている。天正13年とは本能寺変後の再興期を示していると思われる。
その後、他の子院が無住になって廃坊となる明治以降も唯一存続し、その間一時無住となるものの現在まで山麓で法灯を守り続けている
由来
なお、観音正寺については、六角氏が観音寺城を整備した時に山上の坊舎を山麓に移し、本能寺の変の後、再び山上に建物を移したとされている。
配置図
総門
石寺の集落から山手に細い道路を約200m歩き、観音正寺へ向かう参道と分かれ、少し進むと総門となる。
もうこの辺りから盛りのモミジが見える。
表門
石積や質素な竹垣で囲まれた参道を進む。
江戸時代後期の建築 棟木が親柱と控柱の中間に通る薬医門
聖徳太子作と伝わるお地蔵「しあわせ地蔵」
重さ1トンの自然石に四体のお地蔵さまが刻まれており、一度に四つの願いを叶えると伝えられている。絵馬に願いを書いて奉納する。
書院
江戸時代前期の建築 入母屋造の茅葺屋根に桟瓦葺の庇がめぐっている
西側が庭に面して座敷となっており、中央部が式台と寝間、東側が土間になっている。
書院の座敷から庭が鑑賞できる。
書院内部
木造釈迦如来像と聖徳太子孝養像
書院の屋根は珍しい合掌造りである。かなり急な階段を上り、屋根裏へ行くと小部屋に大黒さんが祀ってあり、引いたおみくじが沢山かざしてある。
書院から見る庭園
書院からは庭を特に「掛軸庭園」と呼び、自然を切り取って四季折々の山水掛軸に見立てている。
本堂
廊下から庭園が見える。
庭園
近江八幡市指定名勝
書院に面する庭園は、枯れ滝・鶴・亀など巨石を用いて豪快に表現された桃山様式を代表する池泉鑑賞式庭園である。
書院南面にも室町時代末頃とされる庭園があり、普陀落山を表現した観音浄土の庭となっている。
教林文庫
現在早稲田大学が所蔵
昭和27年(1952)に住職辻井徳順師がなくなった後、早稲田大学が購入した。
仏教書を中心に、日記・記録類・説話集・神道関係の資料や縁起類など、江戸から明治にかけての写本・版本類1200点で構成されている。観音正寺の子院
六角氏は観音寺山に城郭を築くに当って、観音寺をはじめ三十三坊あったその子院を麓の観音谷に下ろした。
教林坊はその観音正寺の子院の一つである。
子院についての確かなことは、天保12年(1841)作成の「寺社分限帳」に観音正寺の子院として、定円坊本乗坊・松林坊・宝泉坊・観泉坊・松寿坊・徳万坊・光林坊・教林坊の10ケ坊が記されている。
現状で、お茶子谷から観音谷にかけての古道景清道沿いには石垣をめぐらせた平坦地が存在する。
白州正子さんが訪問されたのは昭和44年(1969)、前の住職がお亡くなりになった後、奥様が細々と管理されていた頃の教林坊で、庭以外は荒れ放題になっていたと思われる。白州正子『かくれ里の記』より
ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へ続く急勾配に作ってあり、よく見ると、それは古墳を利用してあるのだった・・・
かつては観音正寺の末寺が三十以上もあり、繁栄を極めたというが、現在は教林坊という、ささやかな寺が一つ残っているだけである。
山裾のせまい道を、右へゆくと、ほどなくその坊に着く。椿が多い所で、落椿を踏みながら登る石段のあたりは興味深い。
現在の教林坊の姿は、若い住職の熱意に負けた地元、役所の協力で見事にカムバックしたものである。
その悲壮な経緯を、住職が習慣「仏教タイムス」に連載された『荒れ寺復興録』(平成21年6月11日〜8月27日)より読み取る。
文化財を守り、継ぐには大変な覚悟が伴う。傍観者では許されない気がします。
観音正寺への参詣路
教林坊の横の小道がつながっている。途中で石寺からの参詣路と出会い一本となる。いわゆる巡礼道の赤坂道である。
登り道は石段が多い。だが小粒の自然石で、ぶつかる所までは約290段を登る。
合流点までを紹介する。
石積みの残る往古の子院跡らしい場所を通り山道に入る。左右は何も見えない。
合流点から観音正寺までは石段もきつくなる。30分強かけて歩くことになる。石寺付近地図
当時の教林坊の位置関係がわかる
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