滋賀県近江八幡市 沖島
Okishima,Omihachiman city,Shiga
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May 19,2017 中山辰夫
近江八幡市沖島町
琵琶湖の南東に位置視、沖合約1.5キロに浮かぶ沖島。周囲約6.8キロと琵琶湖最大にして、国内の淡水湖で人が暮らす唯一の島である。
未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選(水産庁選定2006年)に選ばれた。
今回は島での生活環境の一端にスポットを当ててまとめた。
ケンケン山の山腹から見た景観
約300人の島民が密集する島南部には港に向かって家屋が立ち並ぶ
家屋と家屋の間には幅1〜2mの狭くて細い道が延びる。「ホンミチ」と呼ばれる生活道路。ホンミチは集落が形成されたころからのメインストリート。
ホンミチを挟んで、向かいの家まで大股で1歩強、向き合って並ぶ。「伝統的な家屋、助け合いの生活、ここに古き良き日本の原風景が見られる。
島内を闊歩するのはカゴ付の三輪自転車。
島の人口減少と高齢化が深刻である。現在島に住むのは60年前のほぼ三分の一で、65歳以上が4割を越え、島に暮らす小学生は3人とか、島の小学校には近江八幡市内から通てくる生徒が現れた。
小学校
沖島に本格的に人が住み始めたのは保元・平治の乱(1156〜)で、平家に破れた7人の源氏の落ち武者が山裾を切り開き、漁業を始めたことに始まる。
江戸時代初期に港が完成して最盛期には島民の約9割が、現在も6割が漁師で、琵琶湖漁業のほぼ半数の水揚げ量を誇る。(今あるのは新港)
今も昔も、漁港がこの島の出入口で中心である。堀切港からは一日11本の通船が出ており、10分ほどで着く。最近は漁師より船の方が多いとか言われる。
漁業は夫婦二人の共同作業で成立っている。年配者ばかりである。
各所に設けてある観光客向けの案内
近江八幡市沖島町
■■案内
沖島は琵琶湖最大の島、世界でも少ない人の住む湖沼の島である。
面積:1.53平方キロ 周囲:6.3km 東西:2.5km 対岸から1.5km 人口:約330人 世帯数:約125世帯
■■全景
■船中より見る沖島全景は、涅槃(ねはん)仏の様にも、亀のようにも見える。標高220mの尾山と130mの頭山があって平地は殆ど無い。
■対岸より 17:30〜23:00〜05:30〜6:00〜8:30
■近辺の景色
■散策のスタートは「休暇村近江八幡」 全国に39カ所ある休暇村の第1号。
■休暇村から船乗り場の「堀切港」まで歩く。…景色は良好。見えるは沖島だけ。
■■堀切港
沖島への唯一の出入口
■沖島への通船「おきしま」
一日11本(休日は9本)の発着である。
■■沖島漁港
堀切港から約10分で着く。沢山の漁船が並ぶ。島の中には自動車は無い。そのかわりほとんどの家が船を持っている。沖島漁港に登録されている船は全戸数よりも多い。島には消防車はないが消防艇がある。
どの船も夫婦二人が乗っている。漁をするときも二人である。
■■沖島の概説
■歴史
島の伝承によると、713(和銅3)年、近江の国守・藤原不比等が現在の氏神、奥津島神社を建立したことに始まるとされ、建立後沖島は神の島として、湖上を行き交う舟人から、航行の安全を祈願し崇拝された無人島であった。
奈良朝末期、恵美押勝とその一族が一時期住んだといわれる。
平安朝初期の貞観年間(860〜869)の頃には柿本人麻呂が万葉集に『 淡海のうみ 奥津島山 おくまけて 我が想う 妹の言繁けく 』と詠んでいる。この頃、島には神官数名が住んでいたようだ。
実際に人が住みはじめたのは平安時代。保元・平治の乱(1156〜1159)に破れた清和源氏の流れをくむ落武者7人が漂着し、漁業を生業として住み着いたとされ、この7人が島の住民の先祖であると、古くから伝わる。島のほとんどが7つの姓を名乗り、笹竜胆(ささりんどう)や鶴丸(つるまる)など源氏の流れを示す家紋を墓石や棟瓦に彫りこんでおられるようである。
室町時代初め、南北朝時代に越前で敗北した、南朝の新田義貞の部下が軍備を立て直すため、沖島の頭山一帯に城を構え再帰を図ったといわれる。
足利八代将軍義政が湖上を航行する船舶の監視、取締りを住民に当たらせた。又、義政は愛妾・今参の局(いままいりのつぼね)を沖島に流罪し惨殺させた。『大仏次郎の 桜子』
文明の初めごろ(1469〜)蓮如上人が湖上で強風を受け沖島に難を逃れた。比叡山天台宗との戦いに破れた堅田衆が約2年間沖島で避難生活をした、などの言い伝えがある。。
戦国時代は、佐々木氏、その後浅井氏の支配下にあったが、その後勢力高まる織田信長の支配下で行動した。「小谷城攻め」での戦功を称え、信長から感謝状と琵琶湖一里四方の漁業権を与えられた。
豊臣秀吉も沖島を重視し、八幡城主豊臣秀次に沖島に本格的な港湾の築造を命じ、江戸時代初期に完成した。この港が沖島漁港の始まりとなった。朝鮮出兵にも従軍した。
関ヶ原合戦には徳川につき、戦勝祝いを届けた。さらに、佐和山城攻略にも水軍として活躍した。
沖島の住民はその時々の支配者や権力者の要請に呼応し、実績を揚げ、獲得した専用漁場の権利を明治初期まで確保維持し、湖稼ぎを成り立たせた・。
幕末の激動期を経て明治維新を迎え、廃藩置県が布かれた1872(明治5)年滋賀県蒲生郡沖島村となった。当時戸数54戸、人口306人であった。
学制発布により、西福寺内に学校を開学、1893(明治26)年に小学校と改称、1909(明治42)年に校舎が新築された。1995(平成7)年まで使われていた。
■沖島到着
沖島漁業センターの前に到着である。再度沖島内の状況を地図で確認する。
■■散策1 先ず島の南西の端にある民宿・湖上荘を目指して散策する。
■「漁村之碑」と「魚貝類の慰霊塔」
漁業センターの左隣にある。 周囲には桜の木々が植樹されている。沖島には桜の木が多い。
織田信長から与えられた専用漁場が廃止消滅されることになり、この権利補償問題が昭和27年に解決したことから、この補償の意義を深く理解し、先人の遺業を顕彰し遺徳を偲び、感謝の意を表すために、1952(昭和27)年に建立された。
■護岸のすぐ内側に1m幅あるかないかの生活道が続く、そこを進む。蛭の沖島は静かである。人影はない。郵便配達二人は自転車だ。
一緒の船で来て、配達を済ませ帰るのも同じだった。深夜から明け方にかけて漁をするので昼間は寝てる人が多い。
突き当りは湖上荘であった。 桜の大木がある。湖上荘の前が漁船の通り道になっている。
対岸は近江八幡市 津田山や長命寺山が近くに見える。 エリは鮎の稚魚の養殖
■水道浄水場
途中にあった施設。1960(昭和35)年に上水道敷設が行われ、1980(昭和55)年に簡易水道が設備され、1982(昭和57)年に下水道が完備された。
以前は、島には井戸がなく、早朝に琵琶湖から水ガメに汲んで置き、それを生活用水として活用していた。
1928(昭和3)年にランプが灯り、1948(昭和23)年に湖底ケーブルによる送電が始まった。今では光ファイバーの架設も終えている。
■■散策—2 いよいよ沖島の中心部を散策する。
■家並
家屋が詰めて建てられている。島の南の湖岸に500mほど二列に並んで約60軒の家が軒を接し、漁港の後背部の僅かな平地に60軒ほどかたまっている。
■路地
道幅は狭く小路ばかり。どこの家にも通じている。島の周りに風をさえぎるものがない。風や波の力を弱めためなるべく狭い通りにした。
■三輪自転車
島には自動車がない。島の交通機関である三輪車が必需品である。一軒に1台は必ずある。すれ違いが精一杯の道幅だ。
■郵便局
1938(昭和13)年に郵便取扱所が開設され、翌年に沖島郵便局と改称した。コンビニは無くても郵便局だけはある。商店は二軒のみである。
■おきしま資料館
民家を改築して沖島の生活を後世に伝えようと1995(平成7)年に開館した。予約が必要である。
沖島は信仰にあつい島である。集落を歩くと狭い小路に、お地蔵さんがいくつも祀ってある。男子が生まれると、玄関前にお地蔵さんを安置する習慣があるという。
■■西福寺
宗派:浄土真宗本願寺派 開基:1515年 見落としそうな小路に、蓮如上人旧跡地の案内がある。
7人の落ち武者の一人、茶谷十右衛門の末裔が蓮如(本願寺第八代上人)に帰依し庵を建てたのが始まり。
寺宝には蓮如上人直筆の虎斑(とらふ」の名号と正信偈(げ)が残されている。お庭も端正である。17代目の住職さんは茶谷文雄さん。
■■「奥津島(おきつしま)神社」
神社までの道も狭く家と家の隙間を歩く感じである。山の斜面に階段と鳥居がありここが参道入り口。舞殿と本堂は2003(平成15)年再建。
藤原不比等の建立に始まる、鳥居の社標は権勢の神様と呼ばれた尾崎行雄(尾崎愕堂)
宮世話は島で42歳になったものが一年間行い、その交代式は大晦日の深夜に行われる。
■願證寺
宗派:浄土真宗本願寺派
沖島の住民西居清観入道が蓮如う上人に帰依し、法名を釈願證と授けられたことに始まる。
■弁財天
宗派:厳島神社派
長松寺(彦根市)の僧が記した沖島弁天記に弁天を祀ったとの記録が残る。雨乞い弁天として信仰され、1876(明治9)年にはこの地で雨乞いを行った記録もある。
■■散策—3 島の裏側を歩く
西福寺の裏側を右手に見て歩く。民宿・島の宿を過ぎると家並も減ってゆく。郵便屋さんは自転車で島中を走る。
■湖とは思えない広がり、静けさ、水の色、緩やかな波の動きに引き込まれそうになる。
■桜の大木
列をなして、湖面に垂れ下がる桜、その季節は素晴らしい眺めと思う。
■畑作、自給自足が生活の基本
800年ほど前に7人の落ち武者が漂着した。彼らは漁業を生業とし、岩混じりの土地を耕し田畑とすることを代々伝え今に来た。
子孫にはその血と教えが流れている。自給自足を維持するため、時間があれば石を拾い、植え付けをする習慣が当たり前になっている。
住民の農業への関心は強く、中之湖入口付近や 大中干拓地を買い入れ、島外にある農地は約50haで食糧はほとんど自給自足している。
漁船に農具を積んで出作りに行く姿は沖島ならではの風景である。
島内には尾山の北西斜面を平坦にして作られた畑(千円畑)と、急傾斜地や対岸まで田畑を開墾してきた各家のそばにつくられた菜園があるだけである。
■浄化センター 1982(昭和57)年に完成
■■石切り場
現在は何も残っていない。
島を形成しているのは石英斑岩という良質の石材で、1734(享保19)年「近江與地誌略」には沖島について「湖中の一島也。漁人多く此処に住み、其の島の石を取って之を売る」と記されている。古くから石材の切出しは行われていた様で、当初は島外からの石工に頼ったが、島の中から技術を修得した者もあらわれてきた。琵琶湖疏水、南郷洗堰、東海道線の鉄道工事、鴨川の護岸などに使われ活気に溢れ、1895(明治30)年頃が最盛期であった。1915(大正4)年頃、県内で江若鉄道の建設が始まり、昭和の初めから、東レの石山工場など工場建設に沸き、昭和10年頃まで石材の需要が続いた。この頃石材販売組合が出来、その収益で、対岸の土地を購入し米作農業を始めるなど島の食糧確保や経済効果にも貢献した。
しかし1965(昭和40)年に入り、石材からコンクリートの時代に代わり、採掘場の老化も進み1970(昭和45)年廃山し、約100年の石材採掘の歴史を閉じた。
■千円畑「引用」
石切り場の跡地を島民に分譲したユニークな形状の段々畑、通称「千円畑」。島のおばあちゃんたちは、三輪自転車で毎日ここへ通い、畑で野菜を育てつつ、井戸端会議に花を咲かせる。住民曰く、「これが健康の秘訣」とのこと。高齢化率が突出する沖島だが、要介護率は驚くほど低いらしい。
■桟橋
今も使われているようだ。ここからは比良山系がくっきり見える。白髭神社の遥拝もできる。
■■散策—4 小学校方面を目指す
■どこへ行くにも小路を通る。人家の並ぶ小路を歩いて小学校に行く。
■小学校
分教場という雰囲気一杯の木造校舎。二階建てである。腰板にはクロスした彫刻のような模様が見える。得難い味がする。
沖島の小学校は、明治の学制発布により西福寺内に開設されたのが始まりで、1909(明治42)年に旧校舎に移転した。(校舎がユニーク)
1995(平成7)年には現在の地に新築移転した。1947(昭和22)年に併設された中学校(分校)は昭和39年に市内の本校に統合された。
現在の小学校の正式名は滋賀県近江八幡市立沖縄小学校、小学校に通うのは11人、その内6人が島外から通っている。放課後は隣の幼稚園児と一緒に遊ぶ。給食は毎日、船で届けられた給食の入ったクーラーボックスを学校まで運ぶのは子供たちの役目となっている。
往年の小学校跡は廃墟である。見晴は良好
■■漁業会館
県が避難港湾として、1932(昭和7)年工事をはじめ、1935(昭和10)年に完成した栗谷港は、築造には沖島産の石材が使われ、島の住民の手により、丸子船漁船を使って運搬された。この港が、沖島の漁船を台風被害から守る役割は大きく、住民からも感謝されていたが、1992(平成2)年から、水辺みらい再生事業で埋められてしまった。とってかわって1981(昭和56)年新漁港が完成した。
沖島は主漁副農の半農半漁村である。
漁業については、織田信長によって特権的な専用漁場を与えられて以来、これを活かして漁業に専念してきた。
全戸数のほぼ95%が漁業に関係しており、女性従事者も増えてきている。その漁業範囲は琵琶湖一円に亘り、底曳き、刺網、帝置網、沖引網、貝引網、などの漁法ニヨリ、エビ、フナ、鮎、ゴリ、イサザ、ワカサギ、ハス、シジミ、などが水揚げされている。
50種類を越す固有種が存在する琵琶湖は宝の湖であるが、赤潮発生、外来種、などで水質汚染や生態系の変化で漁業を取り巻く状況に厳しさが増すとともに後継者問題も抱えている。地元沖島漁協婦人部の皆さんが作る伝統料理が店頭で販売されている。その中身は次の通りです。
「琵琶湖八珍)の一覧です。沖島並びに滋賀県においでの際は、是非お召し上がり下さい。
近江八幡市沖島町解説:滋賀県教育委員会発行資料
長命寺港から一日一回運行する船に乗るとおよそ30分、湖上からは三上山、そして対岸の比良の峰々と北湖の満々とした水の青さとさざ波に目を奪われる。
沖島の面積は1.5k㎡で、人口はおよそ700人の琵琶湖最大の島である。島民は大半が漁業にかかわった生活をしている。
古代には、この島は無人島であり、信仰の対象である神の島であった。
その後、湖上航海安全神である北九州の宗像神が大島郷に勧請され、この島にも宗像神が祀られる様になったと伝わる。
島の住人の先祖は近江源氏の残党・源満仲の家臣南源五郎以下7人の開拓によると伝えるが、古くからの往来があったとされる。
琵琶湖対岸の高島(現高島市)、小松(現志賀町)、堅田を結ぶ琵琶湖湖上の交通拠点として機能をもっていた。
守護大名佐々木六角のために出陣もし、織田信長や徳川家康も禁制をだして統制を行っている。
沖島島民は平常は漁業を営みながらも、合戦となると水軍として活躍した。近江八幡 掘切新港からは定期便が多く出航している。
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