滋賀県近江八幡市 大嶋・奥津嶋神社
Oshimajinja/Okitsushimajinja,Omihachiman city,Shiga
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Oct.3.2017 中山辰夫
近江八幡市北津田町529
近江八幡市の北部に位置する。ここ姨綺那山(いきや)一帯は奥島自然休養林として豊かな自然環境が残されている地域である。
その麓に成務天皇ご即位の年(131年)に武内宿禰により創祀されたと伝えられる(式内)大嶋・奥津島神社がある。
両神社は「延喜式」神社帳にみえる大嶋・奥津嶋神社に比定され、別所に祀られていた。両神社共に奈良時代から封戸が施入されており、早くから朝廷の厚い崇敬を受けていたとされる。
8世紀の初めに宗像神が迎えられたとされ、津田内湖の船頭や湖上交通に従事する人たちから湖上安全の神として信仰され、地名も北九州の宗像神の鎮座地に因んで大嶋・奥嶋・沖島と称されるようになった。大嶋神社が合祀されるのは、豊臣秀次が八幡上を築城する際に、郷内の祭祀集団を再編成した時とされる。
祭神:大国主神(大嶋神社) 奥嶋津嶋比売命(奥津嶋神社)
境内
拝殿—入母屋造、間口四間三尺、奥行二間
本殿—大嶋神社 三間社流造 間口二間 奥行二間一尺 興津嶋神社 一間社流造 間口一間二尺 奥行一間一尺
社殿は2棟あるが、境内からは見えない。
境内社—多くある
白山神社、ほか
文化財
木造大国主尊坐像 - 平安時代
菊花螺鈿鞍・黒漆鞍・黒漆鐙(あぶみ) - 平安時代末 - 鎌倉時代
大嶋・奥津嶋神社文書(222通)1巻、32冊、3枚 - 鎌倉〜 江戸代
「ムベ」
皇室への献上は1982(昭和52)年に一旦途絶えたが、2002(平成14年)から氏子の手で再開され、今年も10月18日に、15個の赤紫色のムベが献上された。
石碑には、1878(明治11年)明治天皇が北陸へ行幸された際に、村人が一篭の「ムベ」を献上した。この村人の思いに、当時の県令-籠手田安定が返礼として詠んだ歌が刻まれている。
参考
境内にある池ではスイレンの花が咲く。
かつてこの地は歌枕として歌われ、織田信長の祖先・津田氏が住んでいたとされる。
信長が築いた安土城は北津田を望む地にあり、水路でつながっていたと言われている。
五月雨は津田の入江のみをつくし見えぬも深きしるしなりけり (続後撰集)
と謳った覚盛法師は、平重盛の孫で、織田氏の祖先であったという。
平家が滅びた時、母親にともなわれてここに逃れ、津田氏を名のって北津田に住んでいたが、信長は祖先と縁故のある地を選んで築城したのではあるまいか。
正確にいえば、覚盛法師の邸が遠望される所に善美をつくした城を築いたので、いかにも彼がやりそうなことである。
その城もわずか三年足らずで滅び、跡かたもない。「国破れて山河あり」。だが、その山河もいまや累卵の危きにある。
白洲正子『近江山河抄』
津田山にある長持岩から見た下界の眺望 近江八幡市・山野氏提供
左端が南津田町集落 中央の薄く見える山が比良山連峰 その前の山二つの左側が長命寺山、その下に長命寺がある 右の集落が北津田集落
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