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滋賀県大津市 長安寺

Choanji,Otsu city,Shiga

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大津市逢坂2-3-23 長安寺宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉前期 鎌倉前期 石造宝塔 19600209


January 8, 2024 野崎順次

滋賀県大津市逢坂2-3-18
関寺霊跡 時宗 
松月山 長安寺


さて、松月山長安寺は、元亀年間、関寺の一隅に大通庵主声阿弥陀仏によって開山されたと考えられます。そのころ、関寺には、三昧、芸能に関わる聖が多く存在していたようです。そのため、長安寺もその関わりから創建されたのではないでしょうか。中世には、大津市内にあった金塚道場荘厳寺(廃寺)の末寺でしたが、近世に入り、荘厳寺の衰退とともに豊臣氏によって京五条坂に創建された吉水道場法国寺(創建時は豊国寺)の末寺となりました。また、東海道の宿場町大津宿の関係もあり、人々の往来も多く酒肴に席としても利用されていました。その賑わいは、『東海道名所図絵』にも描かれています。
近世末頃には、境内から湧き出る豊富な水を市街地に供給する長安寺水道を有するなど栄えていました。
栄枯盛衰、時代の変遷の影響を受けながらもその法灯を今に伝えています。
(本寺公式ウェブサイト)

    

国重文 長安寺宝塔 平安時代後期 高さ353cm 花崗岩
京阪電鉄京津線「上関寺」駅の東北すぐ。旧関寺の故地という山裾に立ち、石造宝塔としては最大のものである。基礎は低い八角型、塔身の平面は円形、笠は六角という特異な組み合わせになる。ゆるやかな塔身軸部の曲線、長い首部、笠の屋根勾配、軒反りなどの手法に悠々として迫らぬものがあり、平安時代末期の様式を示すものと見る。今笠上に置く露盤・宝珠は後補であるが、当初から相輪でなく、この式であってもよい。関寺の霊牛の供養塔の伝承
があるが、その証明はない。しかし鴨長明の『無名秘抄』に、鎌倉時代初頭の建暦年間(1321-3)に、この辺りで道より高い所に、一丈ばかりなる石の塔を見たことを記しているので、平安末期には造立されていたものと思われる。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日)

               

本堂と石塔

   

小野小町供養塔

    

一遍上人・超一房供養塔

   

織田信長ゆかり百体地蔵尊

       

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July 27,2014 大野木康夫

 

所在地 滋賀県大津市逢坂2丁目3-18

 

 参道

 

   

 

石造宝塔(重要文化財)巨大なだけでなく、塔身の曲線、光沢が美しい石塔です。

 

                        
 本堂

 

  

 

小野小町供養塔

 

    
June 2011 中山辰夫

大津市逢坂二丁目

時宗

本尊:阿弥陀如来 石造宝塔が国重要文化財京阪電車石坂線上栄町駅で下車。踏み切りを越えた所に石段があって神社の案内があり、西国三十三ケ所とある。

  

石段を上り始めると左側に大きな碑“獣魂碑”が建っている。

 

右側奥には重要文化財の石塔がポツンと建っている。

 

石道をすすむと境内である。ここが謡曲「関寺小町」に出てくる関寺跡とされる。

関寺は「更級日記」にも記され、日本三大仏の一つを祀る立派な寺であったという。

  

本堂には石仏15体が祀られている。

   

小野小町供養塔(五輪塔)

関寺は小野小町が庵を築いたとも伝わる。

  

一遍上人供養塔(五輪塔)、超一房(一遍上人の妻)供養塔

鎌倉時代に遊行僧一遍上人が留錫したことから時宗となり、浄土念仏道場となった。

  

百体地蔵

昭和35年(1960)比叡山の麓から集められた百体の地蔵。元亀2年(1572)比叡山の焼打ちで埋もれていたもの。

 

関寺の牛塔 高さ3.3m 平安後期〜鎌倉の作 国重要文化財指定

    

基礎は八角、塔身の平面は円形、笠は六角、石造宝塔としては最大である。

    

獣魂碑

昭和2年(1927)建立。高さ1.66m

平成20年(2008) 7月18碑には、寺関係の物故者の供養と共に口蹄疫で処分された畜類の供養も併せ行われた。

霊牛塔と獣魂碑を境内にもつ長安寺だからできたとのこと。

  

本堂の右側に建つ庫裏の横から石段が始まり 参道となる。園城寺の境内に続く山道を登る。途中には西国三十三カ所めぐりの石仏が処々に立っている。崩れかけの石積みもある。山道は落ち葉が積もり、人の訪れを感じさせない。

    

裏参道の出口で広幅の道に出た。この広道を行くと高観音近松寺から長等公園、長等神社、三井寺へと続く。

   

『参考』牛塔

白州正子の「かくれ里」より抜粋

『石塔寺と匹敵するのは、逢坂山を越えたところにある、関寺の牛塔であろう。石塔寺との間には、約三百年の隔たりがある。ここはもはや大陸の残り香はなく、完全に日本のものに化している。人工から再び自然に近づいたといえようか。

はっきりした形は失ったかわりに、漠然とした大きさと、温かみにあふれ、笠をのせたような印象をうける。

牛塔とか牛塚と呼ばれるのは、横川の恵心僧都が、関寺の再興をはかり、工事のために牛を使用していた。

その牛が迦葉(かしょう)菩薩の化身であるという噂が立ち、前関白道長屋、頼通が拝みに来るという騒ぎだったが、噂に違わずその牛は、工事の終了とともに死んでしまった。

その供養のために建てたのがこの宝塔であるというが、俗に和泉式部とか、小野小町の塔とも呼ばれている。

「年々に牛に心をかけながらこそ越えね逢坂の関」と、式部が詠んだからで、小町の方は、謡曲の「関町小町」から出た伝説にちがいない。が、牛や美女では不似合いで、よほどの名ある高貴な人か、もしかすると、恵心その人の供養塔だったかも知れない。

いずれにしても、こんな美しい石塔が、二つながら近江の地にあることは、良材に富んでいたのはもちろんだが、その裏にある石の信仰と伝統のたまものといえよう。獣魂碑

都が東京に遷都し鉄道が開通したので、牛は農耕と肥料生産の主力となり農宝として殆の農家で飼育され、戦後農業機械化が進むと乳肉提供の主役となって、疲弊しきった国民の栄養改善に大きく寄与した。

特に近江牛は既に江戸初期より将軍家に献上した長い歴史があり、昭和初期には全国的に近江牛の肉質が最高であると認められ、昭和2年11月には大津周辺の家畜商や食肉商により長安寺境内にこれ又高さ5メートルにおよぶ恐らく日本一の獣魂碑が建立されさらに昭和12年が丁丑歳にあたるので由緒ある長安寺において、同年4月に全国食肉連合会が主催して盛大な牛供養が行われた。

(HPより)  


Nov.2008 瀧山幸伸source movie

     

     

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