滋賀県大津市 月心寺
Gesshinji,Otsu city,Shiga
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Nov.12.2017 中山辰夫
大津市大谷町27−9
宗派:仏教系単立 本尊:聖徳太子童形像
月心寺は「都名所図絵」にも記載されている「走井茶屋」を敷地内に有している。敷地内には多くの建物が建っているが見る機会が少ない。
多くの建物の内、「百歳堂」が最も古い。
明治維新後の明治天皇東遷に際してこの地が休憩所に充てられたため、当時の「走井茶屋」の主人によって明治元年に「如在軒」が建築された。
其の後、1927(昭和2)年にこの地が画家橋本関雪によって買収されて関雪別邸となり、この時に通用門・走井居・夢白軒・三聖堂・薬師堂が建築され現在の形となった。この時の大工は、橋本関雪お抱え大工の京都の中村梅吉である。橋本関雪の本宅は銀閣寺近くの「白沙村荘」・京都」
西側に建つ持仏堂・雨花亭などの建築群は1945(昭和15)年の建築である。1946(昭和21)年に関雪の雅号であった月心に因み「月心寺」として宗教法人となった。
月心寺のある下大谷町は古来より「走井」と呼ばれる山肌より湧き流れ出る名泉があり、京都への往来の際の名所で、平安期より知られていた。
『井は。ほりかねの井。玉の井。はしり井は、逢坂なるがをかしきなり。山の井。などさしもあさきためしになりはじめめけむ。・・』枕草子
『これやこの 行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも逢坂の関』 蝉丸
大谷下町付近は東海道筋にあって大津絵の発祥の地ともいわれ、算盤・針などを土産に売る店が立ち並んでいた。
芭蕉の『大津絵の筆の始めは何仏』の境内の石碑に残されている。
石畳み敷き、小園池とした庭園で、「築山庭造伝」にも取り上げられ、茶店を置いて旅人の休憩の場になっていた。
茶店の主人は薬も売ったとされる。名物「走井餅」は明和期(1764〜72)の創案とされる。
江戸も過ぎ、明治に入ると東海道沿いに汽車が開通し、往来の人々もめっきりへり、大正になって走井庭園も売りに出された。
これを京都画壇で活躍していた橋本関雪が購入し、往時のままの形で保存し別邸とした。今は関雪夫婦と橋本家の菩提寺となっている。
配置図
土塀と風流な軒行灯、墨書
通用門と周辺
桁行三間、梁間一間、切妻造、桟瓦葺。道路に面し中央間を格子戸、下地窓、開戸、潜り戸を備える。柱、桁、垂木に節付の丸太を使用。
数奇屋風の瀟洒な作りである。
前庭と「走り井」
門を入ると正面の夢白軒の軒下に「走り井」がある。
夢白軒
通用門を入った正面に建つ。土間、板間、小部屋からなる。左が台所、勝手口には入母屋造妻入りの破風を構える。走井居とは廊下でつながる。
走井居
夢白軒の右手に接続し、通用門とは矩折れに玄関を構える。妻に玄関を設ける。
玄関口周辺
玄関は入母屋造妻入りの屋根。木太い節付の丸太を使用した重厚な構えで、内部は舟底天井である。昭和2年に改造されたと思われる。
外観
木造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺の主体部に対して座敷部分は、縁部分を一段低くして、一文字瓦葺の庇としている。
座敷部
内部は十畳の座敷と矩折れの縁と四畳の玄関の間からなり、柱は面皮材を用い、床や落掛にも面皮材を使用している。
如在軒
池を挟んだ東側に建つ。木造、入母屋造、桟瓦葺、垂木を桧丸太の垂木とする。広い出桁が軒裏から釣られている。内部は6畳と8畳の座敷。
縁は切り目縁の濡れ縁として、外観は書院風のつくり。
御本尊 「引用:パンフレット」
庭園
夢白軒南側の池を中心に、その南から西の山の斜面に園路をめぐらし、急斜面には石組を施す。建物を景色に取入れて全体として山里の風情を感じさせる。植栽は、ヒノキ・モッコクなど常緑樹の中にカエデを多用し、季節の移り変りを感じさせる。
百歳堂 (ももとせどう)
南のなだらかな斜面に数軒の建物が存在する。百歳堂は正面の斜面に張り出し、四畳半の間と背面側の茶室・水屋からなる。
木造、平屋建、一文字瓦葺、一部茅葺
正面の四畳半部分は茅葺きとし、「百歳堂」の額が架かる当初からの部分で、懸造風につくられ庭園を一望できる。茶室・水屋は昭和の建物。
小野小町百歳像を安置する。
薬師堂
百歳堂の背面に建つ。桁行一間梁間一間、正面入母屋造、背面切妻造、桟瓦葺の小堂。奥に薬師如来像を安置する。
三聖堂
木造、平屋建、寄棟造、茅葺。待合は寄棟造茅葺の建物で、内部には仏壇を備える。三聖祀堂。小町・蝉丸・芭蕉合祀する。(一体欠けてました)
参考資料≪滋賀県の地名、パンフレット、滋賀県の歴史散歩、滋賀県発光資料、他≫
大津市大谷町27-9
臨済宗単立寺院
京阪電鉄大谷駅を出て、すぐ左の歩道橋を渡り、国道1号線沿いの狭い歩道を京都方面に向い約400m歩くと左側に月心寺がある。
国道1号線はいつも交通量が多い。
古くから名水として知られる“走り井”はここにある。
往古より東海道を行き来する旅人たちが、この清水を求めて足をとどめた。
この走井の清水については、多くの詩歌や文学作品に登場している。
例えば、藤原定家の「旅人の ゆききをいそぐ 相(逢)坂に、はやくも見ゆる 走井の水」はよく知られており、枕草子や蜻蛉日記などにもその名がみえる。さらに、安藤広重の錦絵にも登場する。
「近江興地志略」では「石を畳んで一小園池とす。その水、はなはだ清涼にして、冷気凛々たり。今は茶店の庭とし旅人憩息の便とす」と走井の情況を書いてある。
魚売りが、ほとばしるように湧き出る走井の水で盥(たらい)の水をかえている様子を描写
盛況を極めたこの地は、茶店のあと無住で荒れていたが、大正3年(1914)頃に明治から昭和を生きた橋本関雪画伯が朽ちるのを惜しんで別邸にし、庭の修復に力を注いだ。
画伯の死後、昭和20年(1945)に月心寺として宗教法人となり、現在に至っている。
国道沿いに長い土塀をめぐらし、軒行灯(のきあんどん)を掲げた風雅な門をくぐる。
道路側からは一見簡素にみえた門も、内部は手の込んだつくりになっており、続く庭とよく調和している。
派手さもなく、優しさが感じられる落着いた前庭である。
成務天皇の産湯に使ったともいわれる、目指す"走り井“は奥のほうにある。
走り井
山間に湧き出る水の勢いが、走井のようだからその名が付けられたと思われる。
現在もコンコン湧き出している泉
村瀬明道尼さまが体調を崩されて療養中とのこと。
好評であった精進料理もお休みです。ごま豆腐から始まる大好評のお料理は食べきれないほどのボリュームとか。
書院を含めての、これから先の拝観については、留守を預かる人で判断できないと許可されなかった。
資料によると、相阿弥が造ったともいわれる、斜面をうまく利用した池泉式庭園がある。
庭園内には
持仏堂には、関雪画伯持仏と伝える聖徳太子像が安置されている。
奥に百歳堂がある。中には運慶の作と伝える小野小町百歳像が安置されている。晩年百歳の老いさらばえた姿で逢坂山に隠れ住んだとの伝えによる。
芭蕉の句碑がある。「大津絵の 筆のはじめは 何仏」
西側山麓、橋本画伯の廟所には、応永8年(1401)の造立銘がある高さ2.7mの八面石幢が立っている。
丹後の(京都府)の長徳寺から移したものである。
庭園は名庭とされる。江戸時代の書院庭園で池泉回遊式 水を十分に生かした趣のある庭園
山の斜面を見事に利用し、中央に池を穿って味わいある石橋が掛かっている。
池のほとりには、庭園の雰囲気とよくあう石灯籠と石塔が立ち、縁の中に趣の深い景色を作り出している。
と出ている。
写真(引用)
聖徳太子会
4月21日、月心寺で行われる。この法要は開基・橋本関雪画伯の持仏であった2歳の聖徳太子像を本尊として安置する本堂「持仏堂」の直前で、太子筆「篤敬三宝(篤く三宝をうやまう)の宝符を参詣者に授与する珍しい行事である。
開扉された聖徳太子像
≪蜻蛉日記≫に記された、にぎわいの様子。
走り井には、これかれ、馬うちはやしてさきだつもありて、いたりつきたれば、さきだちし人々、いとよくやすみ涼みて心ちよげにて、車かきおろすところによりきたれば、しりなる人、 【うらやまし こまのあしとく はしりゐの】といひたれば、【清水にかげはよどむものかは】
ちかく車よせて、あてなるかたに幕などかきおろして、みなおりぬ。
てあしもひたしたれば、ここち、物思ひはるけるやうにぞおぼゆる。
暑い夏のさなか、唐崎へ行った帰りに、ここで休み、物思いが晴れた心地がしたという。
追加資料
関寺小町と百歳堂
資料 滋賀県教育委員会発行 (滋賀県の近代和風建築)追記
西側の区域
手入れが必要な状態に見受けた。持仏堂・雨花亭は昭和15年の建築
門
雨花亭
持仏堂
境内
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