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滋賀県大津市 義仲寺

Gichuji, Otsu, Shiga


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Sep.2010 撮影/文:中山辰夫

義仲寺(ぎちゅうじ) 今井兼平(いまいかねひら)も含む

大津市馬場二丁目

天台宗

本尊:木造聖観音世音菩薩

国指定史跡

義仲寺境内

旧東海道に沿って建つ。

義仲寺は無名庵ともいい、元暦元年(1148)に没した木曾義仲のために、巴(ともえ)御前が草庵を営み供養を続けたので巴寺と称したのに始まるとされている。

天文22年(1553)佐々木義文が木曾義仲の菩提のために建立したものとされる。

境内には木曾義仲と松尾芭蕉の墓が並んでいるので、「木曾殿と背中合わせの寒さかな」の句で有名である。

戦後ひどく荒廃していたのを近年復興して、史跡の指定を受けた。現在の義仲寺は芭蕉の遺跡として訪れる人が多い。

現在、寺内には朝日堂、無名庵、翁堂、粟津文庫が建ち、義仲公墓、芭蕉翁、巴塚があり、翁の句碑を始め碑文が多い。

巴地蔵尊は、山門右側の堂内に安置されているおり、古くより信仰厚く親しまれている。

木曾八幡社

義仲寺の鎮守として、古図に見える。昭和51年(1976)社殿鳥居を併せ新造。

義仲公墓

土壇の上に宝篋印塔を据える。芭蕉は木曾塚ととなえた。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」 「木曾の情 雪や生えぬく 春の草」

朝日堂

義仲寺本堂である。本尊:木彫聖観世音菩薩。義仲公・義高公父子の木造を厨子に納める。

義仲公、今井兼平、松尾芭蕉、丈艸諸位、ほか合わせて31柱の位牌を安置している。昭和54年(1979)に改築。

「平家物語」における悲劇のヒーロー・木曾義仲は、平氏を都から追い落として征夷大将軍に任じられ「旭将軍」と称された。

しかし、頼朝が差し向けた義経・範義らの大軍に攻められ、近江八景の一つ、粟津(石山)の合戦で討ち死にを遂げた。(巻九)

大津市内には義仲の墓、主人公の後を追い自害した今井兼平の墓、義仲の愛妾が庵を結んだという山吹地蔵など、彼の伝説を語り伝える史跡が多く残る。

巴塚・山吹塚・巴地蔵尊

兼平は主君義仲の死を見とどけて、攻め来る敵に向かって、「日本一の剛の者の自害する手本を見よ」と叫んで最後を遂げたという。

この兼平の妹が義仲の愛妾巴御前である。巴は義仲が木曾ではじめて旗揚げをした時から、粟津で死ぬまで側近に使え、愛情を注いだ女性で、まれに見る女武者だったという。

「謡曲・巴」に「寄来る敵を薙刀にて四方を払い八方払い、一所に当たる木の葉返し、嵐も落つるや花の滝、波枕を畳んで、戦ひければ皆一方に切りたてられて後も遥かに見えざりけり」と描かれているとある。

義仲にとっては、兼平・巴の兄妹がいたことは、志した思いが届かなくても、満足であったろう。

芭蕉

芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現伊賀市)に生まれた。旅を生涯の友とした。芭蕉が初めて大津を訪れたのは貞享2年(1685)、42才の春。「野ざらし紀行」の旅の途中だった。

このとき、千那・尚白らが相次いで入門した。

「辛崎の 松は花より 朧にて」「山路来て 何やらゆかし 薫草」は、大津での最初の句である。

以後、芭蕉は度々大津を訪れる。

元禄2年(1689)「奥の細道」の長旅を終えた芭蕉は、その疲れを癒すため、木曾塚(義仲寺)に入った。

当寺は木曾義仲の墓地であるが、芭蕉はしばしばこの地を大津での居所とした。

翌元禄3年(1690)3月、湖南の門人たちと唐崎沖で舟遊びをした後、芭蕉は「行く春や近江の人と惜しみける」の句を読む。

この句は、芭蕉が近江の風光や、そこに住む門人たちを、いかに愛していたかを端的に物語る句とされる。

また、門人に出した手紙の中で、大津を「旧里 ふるさと」と表現し、大津は芭蕉にとって、まさに第二の故郷だった。

元禄3年の4月6日から7月23日まで、芭蕉は幻住庵(げんじゅあん)に入る。

この庵は、門人菅沼曲翠が提供したとされる。ここで、芭蕉は「石山の奥、岩間の後に」やまあり」で始まる幻住庵記を完成させた。

芭蕉翁墓

墓石は1m足らずの自然石で、俳人の墓らしくじつにつつましいものである。

生涯、近江を愛した芭蕉は、元禄7年(1694)「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残し、大坂で亡くなる。享年51才。

「偖(さて)からは木曾塚に送るべし」という芭蕉の遺言に従い、門人達は亡骸を義仲寺に運び埋葬した。「芭蕉翁」の質素な墓が残る。

墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸(じょうそう)の筆といわれる。

芭蕉翁の弔日葉「時雨弔 しぐれき」といい、毎年11月の第二土曜日に行なわれる。

翁堂

正面祭壇に芭蕉翁像、左右に丈艸居士、去来先生の木造、側面に蝶夢法師陶像を安置する。正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若冲(じゃくちゅう)筆「四季花卉の図」である。

翁堂は明和6年(1769)蝶夢法師が再興。翌7年に画像完成、安政5年(1858)再建。現在の画像は、明治21年(1888)奉納された。

無名庵

元禄4年(1691)春、新庵落成。同年6月25日から9月28日までここで過ごした。

伊勢の俳人又玄(ゆうげん)の有名な句「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」は、同年9月13日頃、又玄が無名庵に滞在中の翁を訪ね泊まったときの作である。

今は、俳会開催の場や俳句のクラブに貸与して利用されている。

粟津文庫・身余堂文庫

寛政3年(1791)蝶夢法師が創設した。蝶夢法師は終生芭蕉翁を敬慕し翁の遺業顕彰に努めた。寛政5年(1793)芭蕉百回忌を開催し俳人500人を当寺に集め、歌仙150巻を興行した。近世文芸史上の盛事とのこと。昭和51年(1976)か改築。

史料館

粟津文庫に収蔵する史料什宝を適宜取替え展観する。昭和51年(1976)に開設した。

句碑・碑文

義仲寺再興と保田譽重郎氏

義仲寺は荒廃の一途を辿っていた。奈良県桜井市在住の保田譽重郎氏がこの状況を憂い、再興を計るべく各界に働きかけを行なわれ昭和40年(1965)再興のはこびとなった。建設資金は篤志家の寄進などによる。当寺にとっては保田氏が大恩人である。

園城寺、三井寺円満院より独立し、単立の寺院となった。

曲翠墓

膳所藩士菅沼曲翠(初め曲水)は、芭蕉翁の最も信頼した門人の一人であった。幻住庵は曲翠が翁に提供したものである。

享保2年(1717)7月20日、曲翠は藩の悪家老曽我権太夫を槍でもって刺殺し、自らも責任をとって切腹した。

翁は「幻住庵記」に「勇士曲水」と記し、また、初見の印象を「ただ者に非ず」と言っている。

この事情から、没後曲翠の墓は造られなかった。

昭和44年(1969)7月、膳所不動寺筋(現・中庄1丁目)の旧址に「菅沼曲翠邸址」の碑を建て、年々の忌日に法要を行う。

昭和48年当寺内に「曲翠墓」を建立。没後257年初めての建墓である。

境内に咲く四季折々の花

バショウ

毎年6月末から11月の間に花をつけるが、今年はまだ蕾のままで遅れている。

ナンバンギセルまたの名は”思い草“

ススキに寄り添ってさくという。俳句仲間では大好評とか。

その他(今頃の花)

白・赤のハギ、タマスダレ、ヤブラン、ムラサキシキブ、赤・白の彼岸花・・・何れも遅れ気味のようだ。

紙本著色芭蕉翁絵詞伝

市指定文化財

芭蕉の生涯の主な出来事を上・中・した3巻にまとめた絵詞。

狩野至信が描き、詞を蝶夢が記している。

蝶夢は芭蕉俳諧に傾倒し、芭蕉を深くあがめ、「芭蕉翁発句集」他多くの芭蕉に関する本を刊行をした。

今井兼平の墓(いまいなりひら)

大津市粟津晴嵐二丁目

大津市指定文化財

JR琵琶湖線石山駅から歩いて、約5分。盛越川のほとりにある。ここは木曽義仲が落命した粟津の合戦跡である。

今は工場が建ち並んでいる。

平家を京から追い出し、一度は実権を握った義仲だったが、やがては自分も都を追われる立場になった。

討つ手を押さえるべく、瀬田にいた兼平は、大津・打出の浜で主の義仲と落ち合い、主従二騎で敵に向かった。

しかし、義仲は粟津の松原で討ち取られる。これを知った兼平は「日本一の剛の者が自害する手本を見ろ」と言い放って刀の先を口に含み馬から

飛び降りて自害した。

墓石は卵形で、「今井四郎兼平」と刻まれている。

参考資料《パンフレット、他》


Nov.2008 瀧山幸伸 source movie

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