滋賀県大津市 近松寺
Gonshoji,Otsu city,Shiga
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July.2011 中山辰夫
近松寺(ごんしょうじ) 通称:高観音(たかかんのん) 近江西国三十三所第四番札所
大津市逢坂二丁目
天台寺門宗
本尊:千手観世音菩薩
近郊には寺院が多い。しかも各寺院とは相応の関わりがある。
近江名所図会
京阪上栄町駅から長安寺の裏参道口を過ぎて徒歩約10分、
または上栄町駅〜犬塚のケヤキ〜大津日赤病院裏の、「高観音善光寺如来」の石柱が建つ石階段をのぼる。
長等山の中腹にあって、境内からは眼下に大津市街、琵琶湖が眺望できる。往古は素晴しい景色であったろう。
本堂を中心に南北に阿弥陀堂(善光寺如来堂)弁財天などが東面して建ち並び、近江西国観音霊場・第四番札所として篤い帰依を集めている。本堂の南には弁財天社、豆粉地蔵がある。
微妙寺、尾蔵寺とともに三井寺三別所に数えられる。
三井寺の開祖、智証大師の教法を慕い、三井の幽寂を愛された五大院安然和尚が練行、入寂された地と伝えられ、和尚入寂後遺骨を当山の山上に塔し、延喜4年(904)に旧房をあらため「近松寺」としたのに始まる。慶長9年(1604)再建と伝わる。
安燃上人は、「天台円家の枢機」と称えられる天台の高僧で、比叡山で顕蜜二宗の奥義を究められ、天台密教を大成された。
江戸時代に戯曲作家として活躍した近松門左衛門が、ある時期当寺で遊学したという説がある。
本堂
市指定文化財
西の山の斜面を背に建つ。享保元年(1716)の再建である。
桁行三間、梁間二間、入母屋造、本瓦葺の重厚な仏堂である。
礼堂の前方に吹放しの外陣とし、後方に内陣を配し、その背面に後堂を張り出すなど、別所寺院特有の底面を伝える貴重な建造物
眷属として風神・雷神・観音二十八部衆が安置されている。
千手観音菩薩立像
市指定文化財
銅造鍍金で、像高:37cmの小さな像であるが、木彫を思わせる精緻な観音像である。
木造が選択されることが圧倒的に多い平安時代後期にあって、貴重な鋳銅製の美作とされる。
穏やかな表情や精緻な衣文表現など随所に平安後期の温雅な作風を示し、また宝相華唐草を透彫した光背や蓮華座も当初のままである。
善光寺阿弥陀堂
大津市指定文化財
桁行一間、梁間二間、二重方形造、向拝一間、桟瓦葺、南側渡廊下付
嘉永3年(1850)建立。善光寺如来を祀る宝形造(ほうぎょう)である。
弁財天社と豆粉地蔵
投足弁天
安燃と投足弁天
安燃は一代の学僧であったが、生活はかなり苦しかった。そこで、七福神の一人弁天に、福を授けてくれるようにお願いした。
弁天さんは足を前に出し、私の足を舐めれば福を授けましょうともちかけた。
その言葉に怒った安燃は、念力で足を引っ込めることができない様にしてしまった。そのため、近松寺の横にいまも建つ弁財天の弁天さんは、少しお行儀の悪いお姿という。
安燃塔
この弁財天の近くの山中にはかつて重層の石塔があり、安燃塔と呼ばれていた。
安然は、近松寺の地で練行の後、この地で没しており、安燃塔はその遺骨を納めた塔と伝えている。
この塔からの眺めは素晴しかったようで、文化2年(1805)の「近江図会」にも、安燃塔からの風景が描かれ、「湖上および四方遠近の山野郷里、顧望到らざるところなし」と記されている。
東海道名所図会
資料 滋賀県教育委員会発行
近松門左衛門の伝承
近世に入って、近松寺は音曲諸芸道の祖神を祀る蝉丸宮「関蝉丸神社」を介して、全国を行脚し「説教讃語諸勧進」を渡世とする人々を支配した寺としても知られた。
浄瑠璃・歌舞伎役者を支配してからは、音曲芸能の免許状の発行をも引き受け、音曲芸能への関連を深めたという。
杉森信盛(通称平馬 後の近松門左衛門)は公家の一条恵観らに奉公したあと、自分の行く末に悩んで寛文11(1672年)近松寺を訪ねた。
平馬は武門の家に生まれたが、次男で家を継ぐ必要はなかった。若くして徒然草も読み、詩歌も詠んだ。
その後、三年の間、近松寺で過ごした。
杉森平馬が後に名乗った戯曲家、近松門左衛門の苗字はこの寺の名前によるものという説もある。
犬塚のケヤキ
大津市逢坂二丁目
大津市指定文化財
樹高:19m、幹周り:8.3m 樹齢:約540年
京阪電鉄上栄駅下車徒歩1分、 大津赤十字病院の南、住宅密集地の中にある。
石垣に囲まれた塚の中に悠然とそびえる大樹、直径2m弱、高さ8m余りのクネクネした根瘤と、主幹から多数の大枝が天に向って伸びているのは壮観である。
由緒
京都・東山大谷の本願寺を比叡山の衆徒に破壊され、追われた連如上人は、近江の国を転々して別所近松に坊舎を建てて腰を落着けた。1471年、北陸への布教を思い立った時、三井寺円満院の僧が別れの宴を催してくれた。その宴の料理人が連如上人に毒を盛った。口に運ぼうとした時、庭にいた飼い犬がその料理を蹴散らして、血を吐いて死んでしまった。危うく一命を取り留めた上人が犬を手厚く葬り、埋めた塚にケヤキを植えたと伝えられる。この塚が「犬塚」と呼ばれているもので、本願寺近松別院の飛び地としてケヤキとともに管理されている。
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