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滋賀県大津市 本福寺

Honpukuji ,Otsu city,Shiga

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Aug.2011 中山辰夫

大津市本堅田一丁目

浄土真宗本願寺派

本尊:阿弥陀如来

近江八景の一つ「堅田の落雁」で知られる堅田は「浮御堂」でも有名であるが、この地は蓮如上人が浄土真宗布教の足がかりとしたゆかりの地である。 その中心となったのが浮御堂のすぐ近くに山門が見える本福寺である。

本福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、正和年間(1312~17)の創建、開基はもと御上神社の神職で、堅田に居住した善道(ぜんどう)と伝える。

本福寺門徒は、「地下九門徒」と表現される新興の商工業者(全人衆 まとうどしゅう)で、これら商工業者は近江以外の地域でも活躍した。

本福寺の山門前には「本願寺旧址」と刻まれた石柱が立ち、寺の周辺は白壁で囲まれている。

山門を入ると見事な老松が枝を張り、境内中を覆っている感じである。

近江八景の一つ「唐崎の夜雨」で知られる唐崎の老松があるが、それにも劣らぬ立派さである。

松の枝越しに見える本堂であるが、何回かの火災で焼失し、現在のものは平成7年に再建された新しい立派な建物である。

ここはその昔、本願寺を追われた蓮如上人が本福寺恩講を行った場所であるが、今は 毎年3月第2日曜日に「蓮如忌」の催しが営まれ、昼食には蓮如粥が振舞われ多くの参拝客で賑わう。

そしてかつて堅田全人衆(もろうどしゅう)が蓮如を助け、結集して真宗再興を成し遂げたように、南無阿弥陀仏の念仏を唱えて蓮如上人を偲ぶ。

本堂内陣の右手には蓮如上人像が安置された蓮如殿があるが、これは三井本家から寄進されたものである。

また本堂前には蓮如上人のブロンズ立像が建つ。

境内には、蓮如上人愛樹の梅の木が植わり、シーズンには満開の花を咲かせて蓮如一色の寺を感じさせる。

山門

境内アプローチ

由緒・寺暦

開基は善道(元・御上神社宮司)、南北朝時代の創建とされる。

善道は八幡太郎義家の弟・義綱の子孫で、本願寺の第三代法主覚如上人を師として帰依、上人を助けて本願寺の

復興に尽力し、堅田門徒への布教に努めた。

堅田に所在したことから水陸交通の有利さがみられ、門徒による広い商業活動もあり、寺内町を形成していった。

特に善道の孫である第三世法住法師は蓮如上人(本願寺第八代住職)の片腕と言われ、浄土真宗布教活動の第一歩

の拠点を堅田で始めることに貢献した。

法住像

近江での浄土真宗の伝播は、親鸞が木部(きべ)に錦織寺を開いたことにはじまり、蓮如の時代になって近江全域に進出した。

湖西では本福寺が中心であった。

堅田は15世紀の中頃より全衆人(まろうどしゅう)を中心に本福寺を軸に一向門徒が固く団結し、近江布教の拠点になっていた。

その中心にいたのが、三代目の法住であった。

この浄土真宗の拡大は、延暦寺の反発を招き、寛正6年(1465)叡山の衆徒が京都東大谷の本願寺堂舎を破却するに至った。

これにより、蓮如は堅田へ移住し、ここで本願寺の寺務を執り再起を期した。当寺が「本願寺旧址」とされる所以である。

応仁2年(1467)、足利将軍家邸宅「花の御所」の用材運搬船に対し、堅田が湖上海賊を働いたことにより、室町幕府は比叡山に

堅田の襲撃を命じた(堅田の大責 おおぜめ)。

比叡山の衆徒は堅田を焼き払い、堅田衆は沖島(現近江八幡市)へ逃げ延びた。

この事態に対し、本福寺法住は金品での解決も必要とし、山門に三千貫文を納入して本件を落着し、文明2年(1470)に還住が

許可された。法住も380貫文を負担した。

その後蓮如は真宗布教のために越後・加賀へ発つ。その後北陸は吉崎を中心に真宗王国になってゆく。

連座像

堅田本福寺法住に対して寛正2年(1461)蓮如が下付した貴重な画像「本福寺蔵」

この地はまた俳聖芭蕉が大きな足跡を残した場所でもある。

山門を入るとすぐ右手に 「蓮如上人御舊跡」と刻まれた円筒碑があり、

その傍らに「しぐれ来や 並びかねたる いさざ船 千那」と刻まれた句碑がある。

又、本堂の裏にも多くの句碑が建つ。

本福寺11世 明式(みょうしき)

浮御堂には芭蕉の句碑が多く建てられているが、本福寺第11世住持明式(みょうしき)は貞享2年(1685)に松尾芭蕉

の門に入り、俳号を「千那」と称した。明式は文人であり、千那の活躍によって堅田でも蕉風俳諧が興隆した。

千那の跡を継いだ12世住職・明因も俳号を角上(かくじょう)と号し、13世住職明観(みょうかん)も角三として俳諧を

受け継ぎ、堅田において、蕉風俳諧が興隆した。

江戸中期の堅田は、本福寺を中心に、文芸面での賑わいを見せ、今も芭蕉を偲ぶ寺となっている。

芭蕉は前後3回にわたって当寺を訪れている。

そして有名な「病雁の 夜寒に落ちて 旅寝かな」 「からさきの 松は花より おぼろにて」などの名句を残している。

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