滋賀県大津市 居初家
Isomeke, Otsu city,Shiga
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滋賀県大津市本堅田二丁目12-5
居初氏庭園
堅田湖族の中でも中心的な役割を果たしていた三家のひとつ、居初(いそめ)家の屋敷内に広がる、広さ約200坪の国指定の名勝庭園「居初氏庭園」。古くから運送、漁業などの湖上特権を得、江戸時代には大庄屋として地域に貢献してきた居初氏が作らせた、琵琶湖や対岸の三上山をはじめとする湖東の山々を借景とした枯山水庭園だ。庭園内には茶室「天然図画亭(てんねんずえてい)」が建てられている。茶室の造りや貴重なしつらえが見られるのはもちろんだが、茶室越しに見る庭の眺めが絶景。事前に申し出れば掛軸や資料、小道具などを拝見することもできる。
庭園は、天和元年(1681年)江戸時代の著名な茶人・藤村庸軒(ふじむらようけん)と地元郷士の北村幽安(きたむらゆうあん)とが協力して作庭したものと伝えられている。庭園東側の石垣の向こうには琵琶湖が広がっており、サザンカやサツキなどの刈込の向こうに、湖水を隔てて雄大な山々をのぞむ。アラレ敷石の構成もあいまって、非常に美しい風景を作り出している。
(滋賀文化のススメ「居初氏庭園・大津市本堅田」より)
パンフレットと現地説明板
道路側の建物外観
庭園へ
県文 天然図画亭
居初氏天然図画亭庭園 江戸時代初期 書院式露地
本庭は全面積が百四十五坪ほどあるが、書院兼茶亭と共に珍しくも、書院茶の亭と露地が完成し、しかも今日までよく保存されてきたことは、まことに結構なことである。そしてこの藤村庸軒は、最初茶の湯を薮内家と近い関係で、薮内の茶を習い、さらに千宗旦に師事し、後に小堀遠州の茶も習得したので、侘茶と書院茶の両面があったし、幽安は茶人であり、味ききの名人であった。そうした人々の関係によって完成した居初家の茶亭や露地には、一般と異なった様式のものとして出来上がったのは当然である。
今この茶庭を一覧すると、門を入ったところに大刈込があり、そのに立手水鉢があって、これは手水鉢としての古式のものであると共に、遠州風な書院茶の構成であり、珍しいものである。この付近から飛石を進むと、さらに大霰敷の敷石が方形に作られていて、途中で南に折れている。この付近に二三の石組があるが、刈込もあって、東部の湖水に接していて風景が美しい。縁先の、鎌倉期の宝塔の塔身を利用した手水鉢も美しい。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」居初氏天然図画亭庭園より)
琵琶湖側から見る。
対岸には三上山
Aug.2011 中山辰夫
大津市堅田2−12−5
居初氏庭園が国指定名勝である。居初氏茶室の天然図画亭(てんねんずえてい)は県指定文化財
居初氏は中世の琵琶湖の水運を支配してきた、地侍階級「殿原集」を構成する有力家。
刀根家・小月家とともに堅田の指導的な立場にあった。
この居初家には、「天然図画亭」と称する建物と庭園があり、天和元年(1681)頃に茶人藤村庸軒(ようけん)と地元の郷士北村憂安
の合作でできたものと伝えられている。
「天然図画亭」と命名されたのは、寛政11年(1799)、天台僧の六如(ろくにょ)による。
資料 滋賀県教育委員会発行
末広町のバス停から湖岸に向って歩き、突き当りを右へまがる。浮御堂からも近く、湖岸に沿う道を北上する。
居初家は通りに面して建つ。
浮御図画亭
県指定文化財
建屋の外観と周り
建屋・土蔵は通りに面して建ち、庭園は琵琶湖に向って広がる。
土蔵もさすがに大きい。
琵琶湖側から見た建屋
高く詰まれた石垣上に建ち、琵琶湖に面している。琵琶湖への出入も自由に出来たであろう。
29代目の当主・居初寅夫氏(30年前と現在)から説明がお聞きできた。
玄関に入ると三畳ほどの土間がある。置かれた提灯にある居初家の家紋が気になる。
天井は高く、頑丈なつくりである。使われている部材からも重みが感じられる。
上がり口に使われている床材がゴツイ。この部屋から見る庭園の景色が一幅の図画と称される。
天然図画亭(てんねんずえてい)
県指定文化財
平面図
天然図画亭は、桁裄10.9m、梁間5.1m、茅葺 入母屋造で瓦庇が付き、平入(ひらいり 横に平行した側面に入口のある様式)の建物。
中央に玄関と中の間 東側に客室と広い廻縁、西側に四畳半と仏間がある。内部は書院形式を取る。北面と東面に庭がある。
屋根の茅の押さえや樋は竹材である。このため10年ごとに取換えるようだ。
他にも竹材は多く使われている
「日本式」茶室は、渡り廊下で繋がる草庵形式のものが殆どだが、ここは居住機能としての一室をそのまま茶室にした。
茶を飲む以外のこともここでおこなう。
いわゆる書院式とよばれるもので、古くから残る民家は天然図画亭だけといわれる。床の間が清楚な書院造を引き締める。
茶室は、茶道具が客に見えないように、主室との間に低い結界がつけられ、主人の謙虚さがうかがえる構造になっている。
一畳の手前畳と手前座は向切逆勝手で珍しい。茶室からの眺めは、琵琶湖と対岸の雄大な景観を借景している。
古賀精里の書。江戸昌平校の教師
居初家庭園
国指定名勝
土間から出て、蔵と隣り合った露地が庭園へと導く。露地には御影石が直線的に、飛び石的に置かれている。
敷石の上をすすむといよいよ庭園の入口となる。敷石と大刈込の調和がみものである。
露地の直線を強調した敷石は、庭の入口から始まり、中央をぶっ通して湖岸壁まで迫る。途中から、直角に南に延びる。
露地全体を敷石が支配しているようだ。
庭園の飛び石、あられ敷、置石が絶妙の配置である。
大刈込みを巧に取り入れた枯山水庭園である。刈込みされた皐月・山茶花・まきなどが並ぶ。
刈込みの向こうに雄大な景色がある。茶室から湖東の山々や琵琶湖を一望できる
二本の松
唐崎の松である。左は幕末に植えられたもので約150年、右は明治中期に植えられたようだ。
昭和初期まで「小唐崎」と呼ばれた樹齢500年以上の老松があった。度々この庭を訪れた小林一茶は、次の句を呼んでいる。
「湖よ松よ それから寿々(すす)み 始むべき」
松を植えたのは藤村庸軒と北村幽庵。二人は師弟の関係で、庸軒は茶道庸軒流の祖。江戸前期の茶人・千宗旦の高弟で
千利休の孫。居初家とは親戚で当時、堅田に住んでいた幽庵は庸軒の門弟。茶の水の鑑定や、料理・造園に通じていた。
二人は居初家十九代当主の居初市兵衛に頼まれ天和年間(1681〜84)にこの庭園と「天然図画亭」を合作した。
庭に植えられた大松を小唐崎と名付けたのは堅田藩主・堀田正高。茶席は居初家と交流のあった天台宗僧侶・六如上人が
命名した。黒松は「唐崎の松」や「浮御堂の松」と同種である。
何気なく置かれた手水鉢が周りを引き締める。鎌倉時代の宝塔の塔身を利用したもの。
湖族の郷で威容を誇った居初家の全景(引用)
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