滋賀県大津市 春日山古墳群
Kasugayama Kofungun,Otsu city,Shiga
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Sep. 2011 中山辰夫
大津市真野谷口町
国指定史跡
真野・小野地域には古墳が多く、関連性がある。
堅田駅の西方700mにある、曼陀羅山古墳群と対峙するかのように、真野川南岸の低丘陵地(通称春日山丘陵 標高120m)
に築かれた大規模な古墳群である。
昭和53年(1978)の分布調査で、丘陵の屋根上を中心に総数約167基の古墳群が確認され、分布状態で7つの支群に分かれる。
数の面からも内容の面からも滋賀県下において屈指の大群集墳である。
5世紀の全長65cmの前方後円墳を主墳とし、直径35mを越える円墳、6世紀前半の円墳のほか、6世紀後半の横穴式石室をもつ円墳
が多いとされる。
古墳の被葬者は、この付近の有力者であった、和邇氏や真野氏などの古代豪族であろう。
石室の構築方法は石室の壁を垂直に近く積上げる技法で、錦織から坂本一帯に集中する持ち送り技法を持つ石室とは明らかに異なる。
和邇氏の勢力下にあったためと推定される。
当古墳群は5世紀代の前方後円墳、6世紀前半の木棺直葬墳、6世紀後半から7世紀前半の横穴式石室墳と5世紀中頃から7世紀
前半にかけての長期にわたって間断なく造墓活動の続いていたことが明確となっている。
資料 滋賀県教育委員会発行
真野郷と古墳群
古代の郡制では「郷」という区画であり、古代の滋賀郡は、古市郷・錦部郷・大友郷・真野郷の4つの郷だった。ちなみに古市郷は大津港
の背景をなす中心部、錦部郷は錦織地区を中心とする地域、大友郷は坂本町を中心とする地域であった。
真野郷は現在の堅田・和邇の両平野を中心とする地域である。
この「真野郷」には『新撰姓氏録』によると、雄族和邇氏をはじめとして、小野氏、真野氏、春日氏などの皇別氏族達が
居住していたとされる。
このうち和邇氏は真野郷の北端部、現在の志賀町和邇に居を構えていたといわれる氏族であり、5〜6世紀の複雑な政治
情勢の中で、諸天皇に数多くの后妃を容れて、皇位継承に大きな影響を与えた氏族である。
『君手』は壬申の乱の最大の功績者として評価され、その功績が志賀郡の郡領氏族としてその地位を確固たるものにすると
ともに、議政官補佐氏族として中央政界でも重きをなしていた小野臣と提携して、官途への道を開いた。
小野氏は和邇氏の本拠地と北で接した地域に居を構えていた氏族であったらしく、現在も「小野」の地名を
残している。
真野氏は小野氏の本拠地、志賀町小野の南に接する「真野」の地に居を構えていた氏族であり、小野氏と同様
に「真野」の地名を現在まで残した。
春日氏は真野氏の本拠地の西南、現在、春日山と呼ばれる低丘陵地付近にその居住があったとされる氏族である。
以上のように和邇氏をはじめとした古代の氏族達が居住地とした真野郷には曼陀羅山・春日山といった大群集墳
地域があるが、この大群集墳こそが、この古代の氏族達の奥津城であったと思われる。
古墳の分布状況
曼陀羅山古墳群(まんだら)
大津市真野普門町など
真野川水系と和邇川水系に挟まれた低丘陵地帯のほぼ中央に、丘陵を東西に分割するように標高191mの曼陀羅山
がある。(JR湖西線・堅田駅からは北方約2.5kmの距離である。)
古墳はこの山を中心に築かれ、古墳群は曼陀羅山山頂に立地する前方後円墳・和邇大塚山古墳をはじめとする数基
の首長墓を筆頭に、昭和53年(1978)の分布調査で、古いタイプの大塚山古墳も含め前方後円墳(4世紀末築造)
1基と総数111基の円墳が確認された。
施設は大半が横穴式石室で、6世紀後半から7世紀前半のもの。構築方法は石室の壁を垂直に近く積上げる方式。
真野の地は湖西の豪族和邇氏の一族である真野氏の本拠地とされ、当古墳群も真野氏の墳墓との見方が有力である。
曼陀羅山の南麓一帯に広がる真野神田遺跡は彼等の居住地域の一部である可能性が強いとされている。
神田遺跡
大津市真野普門町など
曼陀羅山の南麓一帯に広がる遺跡。
昭和49年(1974)以来、5回の発掘調査が行われ、縄文時代から江戸時代の多量の遺物とともに、古墳時代後期
から奈良時代の集落跡と、鎌倉時代後半から室町時代の居館跡が明らかになった。
集落跡は竪穴住居跡10基、掘立柱建物跡約40棟をはじめ、柵跡や円墳周溝の遺構があり、曼陀羅山古墳群に葬
られた人たちの居住区域でないかと注目を集めている。
出土品
縄文時代の打製石鏃(やじり 上、長さ3.3cm)と石錘(下 長さ6.7cm)および帯につけた装飾具の石帯(中
一辺3.2cm)である。 須恵器・土師器、天目茶碗・青磁・白磁なども出土している。
真野城跡
神田遺跡の北東700mの地点に、真野氏の居城とされる真野城跡が低丘陵の先端部を利用して築かれていた。
幅約2m、深さ約1.3mのⅤ字形に掘り込まれた濠で、北・東側を画され、西・南側を小河川で守られた一画に
掘立柱建物を中心とした居館が造られていた可能性が強く、出土遺物の時期及び種類の豊富さから、真野城主
で当地に勢力を張っていた真野元貞氏か、これに関連した一族の屋敷跡と考えられる。
元貞は、十左衛門と称し、西養坊と称した。近江守護六角氏に属し、昌法寺山に城を構えていた。
しかし、永正15年(1518)浅井亮政に攻略され、城は落ちた。
昌法寺の墓地に元貞の墓と伝えられる五輪塔が残る。
真野古墳
真野城跡として埋蔵文化財包蔵地に登録されていた地域の宅地造成によって発見された古墳。
直径20mの円墳で、4世紀末から5世紀初頭の築造。
墳丘中央から約8.2mの割竹形木棺が見つかり、多くの副葬品が確認された。古墳は造成により消滅したが、跡地が
公園と成り、一部が復原整備されている。
この地域に横たわる古墳群が歴史を詳細に語ってくれる。今後の発掘による新事実の解析が待たれる。
大友郷
上記、曼陀羅山古墳群・春日山古墳群を擁する真野郷の南に位置するのが大友郷であり、現在の坂本付近
から南滋賀と錦織を画して流れる柳川付近までがその範囲とされる。
この大友郷には多数の古墳群が所狭しと作られている。それと共に崇福寺・南滋賀町廃寺跡をはじめとした
大津宮関連遺跡も多数存在する地域でもあり、大津宮造営という大事業を媒介としたその直前の古墳の被葬者
との関連が注目される地域でもある。
真野郷には和邇氏・他の皇別氏族達が本拠地を構えていたが、旧滋賀郡のうち大友郷以南の錦織・古市郷には
三津首〈みつのおびと〉、志賀穴太村主(あのうのすぐり)、志賀氏、錦織(にしこおり)村主、大友日左(おさ)
といったいずれも藩別(ばんべつ)の氏族すなわち渡来系の氏族達が集住していた。
この大友郷の地形をみると、比叡山系からの低丘陵が幾筋も延びており、この低丘陵上に、北から日吉大社境内
古墳群、裳立山古墳群、穴太古墳群、大通寺古墳群、太鼓塚古墳群、福王子古墳群など10以上にものぼる古墳群
がつくられている。
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