滋賀県大津市 堅田
Katata ,Otsu city,Shiga
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Aug.2011 中山辰夫
堅田の歴史
大津市堅田1〜2丁目、本堅田1〜6丁目、今堅田1〜3丁目 衣川1〜3丁目、
概略
平安時代に恵心僧都が浮御堂を建立し、千体の阿弥陀仏を安置した。
堅田漁師は京都の賀茂神社の日供神人となり種々の特権を得ており、菅浦や近郊と湖上権でよく対立していた。
中世の堅田は非常に勢力があった。漁師の上に地侍がおり、それを支配する頭目に刀弥家・居初家・小月家などがいて叡山
にさえ対抗するほどの実力であった。
応仁の乱の時には蓮如が本福寺に身を寄せ、堅田衆を頼みとして本願寺再建を企て、一休宗純も瑞祥寺で青年時代を過した。
吉川英治の「新平家物語」で、「堅田湖族」が戦後有名になった。湖族の頭領といった感じは居初家の庭からは知ることが出来ない。
漁師は市女笠(いちめかさ)に似た笠をかぶっていたようだ(石山寺縁起)
経緯
琵琶湖の北湖と南湖を分け、その最狭部の西岸に位置する堅田地区は比叡山に源をもつ真野川・天神川・御呂戸川によって
形成された扇状地であり、恵まれた三角州であった。
縄文時代の早期〜後半に属する土器片が採取されており、生活の営みは約6〜7千年前に遡り、衣川のあたりが最初とされる。
弥生時代に入って、生活の証拠が明らかになり、古墳が築造された5世紀後半以降、地域的なまとまりが生まれた。
渡来人も早くから定着を始めた
滋賀県下最古の寺院跡である衣川廃寺は飛鳥末期から白鳳期にかけてつくられた仏教寺院である。
この文化の営みは堅田地区の住民に様々な影響を与えたが、寺院の詳細は不明である。
平安時代の9世紀末に入って、本堅田宮ノ切に堅田大宮・伊豆神社が建立され、10世紀には、巨大な延暦寺の寺領
に組み入れられ、堅田は山門の支配地域として成立してゆく。浮御堂はこのころ造られたとされる。
「堅田」の名が史料上に初めて登場するのは平安時代後期である。永承6年(1051)の結解(けちげ 決算書)に、
「堅田渡」と記されている。すでにこの頃に、通行税的なるものを徴収しており、関所の機能を有していた。
これにより湖上交通の拠点として成長し、さらに漁業基地としても成長を遂げつつあった。
寛治4年(1090)、下鴨神社の御厨が設置された。このため、「堅田御厨網人」は下鴨神社に御膳料として湖魚を献上
するかわりに、漁業権やの確保その他の賦課を免除され、湖上にその勢力を拡大し、堅田は水運・漁業両面で強力な
特権的基盤を作り上げた。地域が「堅田浦」や「今堅田関」、「堅田関」という名が表れるのもこの頃である。
しかし、その半面で、漁業権や湖上関の権益をめぐって菅浦はじめ、他浦と相(争)論を巻き起こした。
相論の繰り返しの中で自らの権益を守ってきた堅田は、山門支配の中で自治的なまとまりが生まれ、自治行政を行った。
寛政6年(1465)、山門により大谷本願寺が破却されて以後、蓮如は金森(現守山市)に居を移し、本福寺にも移住した。
堅田は15世紀の中頃より百姓・商工業者からなる全人衆(まろうどしゆう)を中心に、本福寺に一向門徒が固く団結
し、近江布教の拠点となっていた。山門との宗教的確執もあって「大責」に発展した。
応仁2年(1468)、堅田が比叡山に焼き払われる「堅田大責」が起こった。
堅田衆が室町幕府将軍足利義政の御所の用材船などを襲い、財物を奪ったために、幕府の命で延暦寺に堅田を攻撃させ
た大事件である。
堅田はこの合戦で敗北し、沖ノ島に逃れた。その後、比叡山に莫大な礼物を払って還住を許され、堅田回復に努めた。
戦国期に入って、権益確保に必死の防衛を行い、地域的特権を守った。
元亀元年(1570)、織田信長は地侍層である殿原(とのばら)衆のうち、猪飼野・馬場・居初氏らを懐柔、敵の朝倉義景に味方していた
堅田を自らの陣営に引き込むことに成功している。
堅田は、信長軍についたり離れたりして安定を図った。安定の確定を見るのは豊臣秀吉政権からである。
天正11年(1583)、堅田は秀吉の意を受けた浅野長政により、湖上水運に関わる「掟書」を授けられ、その特権が保証された。
又、天正12年には堅田浦の船大工は、大津浦とともに、諸役免除の特権を得ている。
慶長5年(1600)以降、徳川氏の政権になると堅田が大津代官支配の幕府直轄領となる。
大津百艘船の急成長とともに水運は衰えるも漁業は大きく発展した。
これは慶長16年(1611)に、堅田漁業の特権が江戸幕府に安堵されたことによる。堅田漁師の漁業が活発になると、漁場をめぐって
の相論が頻発した。
最終的には文政5年(1822)、江戸幕府は中世以来所持した堅田浦の諸特権のすべてを抑制する採決を下した。
これにより、堅田漁業の独占的立場は大きく後退することになったのである。
慶長5年(1600)以後、堅田は幕府直轄領となった。堀田正高が下野国から領地替えで、近江堅田藩を立藩した。
元禄11年(1698)〜文政9(1826)まで堅田藩領となり、のち佐野藩領となる。
中世末より近江八景の一つに数えられた地だけに、文人墨客をはじめ、多くの人々が往来した。浮御堂はそうした人々を吸引する
景観の中心であったが、元禄4年(1692)、この地を訪れた芭蕉は、観月会で浮御堂の句を詠んでいる。
芭蕉の残した功績は大きく、元禄期(1688〜1704)を通じて蕉風俳諧を定着させた。
ことに芭蕉の弟子であり、本福寺の住従であった千那(せんな)の役割は大きく、その後の堅田俳壇の基礎を作った。
文芸と密着なつながりを持つ茶道の興隆も注目すべきものであった。
茶道の湯では藤村庸軒の影響が大きく、堅田衆の上層でたしなまれ文芸とともに堅田の地域に深く浸透していった。
「湖族」という表現は、吉川英次氏が「新平家物語」の文中で、初めて使われたとされている。
JR堅田駅前の碑
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