滋賀県大津市 明王院
Myooin,Otsu city,Shiga
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大津市葛川坊村町155 明王院 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 正徳5(1715) 桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、西側面唐破風造、向拝一間、背面庇附属、鉄板葺厨子1基、旧厨子1基 19931209
大津市葛川坊村町155 明王院 護摩堂 重文 近世以前/寺院 室町後期 宝暦5(1517) 桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、向拝一間、南側面物入附属、鉄板葺厨子1基、棟札5枚 19931209
大津市葛川坊村町155 明王院 庵室 重文 近世以前/寺院 江戸末期 天保5(1834) 桁行8.7m、梁間4.9m、一重、入母屋造、正面玄関附属、鉄板葺棟札1枚 19931209
大津市葛川坊村町155 明王院 政所表門 重文 近世以前/寺院 桃山 17世紀初頭 棟門、切妻造、銅板葺 19931209
September, 2022 大野木康夫
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坊村の集落
安曇川
明王谷川
明王院
庵室(重要文化財)
政所表門(重要文化財)
護摩堂と庵室
護摩堂(重要文化財)
本堂(重要文化財)
葛川息障明王院
葛川坊村の積雪が1mということで、国道が除雪されていることを確認して訪問しました。
花折峠
融雪剤と除雪、通行量の関係で何とか上がることができました。
葛川に入っても路面の状況は変わりません。
地主神社前の駐車場には近づけないので、葛川少年自然の家の駐車場を利用し、曙橋を渡って明王院に向かいました。
坊村の集落
地主神社は完全に雪に埋もれており、近づけませんでした。
明王院入り口付近
庵室
政所表門から護摩堂、本堂方向
本堂の石段には融雪管が設置されていて登ることができます。
本堂とその付近
石段を下りながら撮影
護摩堂、庵室付近で撮影していたら急に雪が降ってきました。道に雪が積もると帰れなくなるので、以後は駆け足の撮影となりました。
朽木地区の車窓風景
葛川息障明王院秋の明王院とその付近
雪景色の明王院を再訪しました。
政所表門
庵室と護摩堂
庵室
護摩堂
本堂
所在地 滋賀県大津市葛川坊村町155 真夏の明王院明王院がある葛川は比良山脈の西麓にあり、標高も高いので、夏は涼しいです。
明王院と地主神社のある坊村は、比良山への登山口となっており、本数が少ない路線バスの時間は登山客で賑わいますが、明王院を訪れる人は少ないです。
最近、重要文化財の建造物4棟すべてが修理され、きれいになっています。
アプローチ
政所表門(重要文化財)
護摩堂と庵室は隣り合っています。
庵室(重要文化財)
護摩堂(重要文化財)鮮やかな朱塗りの建物です。
本堂(重要文化財)護摩堂の脇の石段の上にあります。
正面の距離が取れないので、全体撮影には苦労します。
本堂内部
バスの本数が少なく、自家用車がないと訪問に苦労する場所ですが、隣の地主神社と合わせて文化財が多く、訪れる価値は十分にあると思います。
明王院のある葛川は、比良山脈の西側の安曇川渓谷にあり、大津市でも積雪が多いことで知られています。
改修が終わった明王院の雪景色を撮影しました。
1回目は1人で行きましたが、2回目は子どもの雪遊びのついでに寄ったものです。
アプローチ
政所表門道に雪が積もっており、門をくぐるのに少し雪の壇を下りる必要があります。
雪ですが政所は開いていました。
護摩堂1回目は除雪がされておらず、撮影するのに苦労しました。
2回目は通路の除雪が行われており、比較的楽でした。
庵室
本堂本堂に続く石段が除雪されないと、雪をかき分けて登らなければなりません。
当然、それなりの恰好をする必要があります。
腰ぐらいの高さの積雪で行動が制約されるので、全景を撮影できる場所に行くのも大変でした。
境内風景新雪の上にシカのフンが落ちていました。
足跡もありましたが、ピントが合いませんでした。
滋賀県西部は、豪雪地帯の北部に比べればましですが、よく雪が積もります。
建物も傷みやすいと思います。
(注)2005年から6年をかけた明王院本堂ほか3棟保存修理事業が2011年5月に落成した。その工事完了の報告の資料(滋賀県教育委員会)をベースにまとめた。明王院
大津市葛川坊村天台宗
本尊:千手観音立像
明王院は、大津市北端、葛川地区、安曇川の上流の渓谷に位置する天台宗の寺院である。とにかく遠い。
JR堅田駅からバスに揺られて小一時間かけて到着する。
地主神社とは川を隔てて建っている。明王院は、息障明王院(そくしょうみょうおういん)とも称され、葛川明王院の名でも知れている。
平安初期の貞観元年(859)に、無動寺の僧相応が修験回峰行を行う密教の道場として創建した。
坊村のバス停から山手に向って歩くと地主神社がある。その手前を左に進む明王院に通じる橋がある。右は林道(登山道)である。
「三の滝」へはこの道を進む。
目の前に明王滝川が流れている。降雨が数日続いたこともあって、水量が増し流れの音が高い。三宝橋が掛かっている。
三宝橋周辺
橋を渡ると、社殿が見えてくる。石垣が両側を囲み、深遠な雰囲気となる。重文に指定されている石垣はかなりの奥まで続く。
ここからが境内である。
砂利道を進むと左側に政所の表門がある。急峻な石垣の上に建っているように思える。
政所
政所の表門を出ると、手前に大木があり、前方に石段がある。上ると広場となっており、弁財天と建立時の姿が蘇った庵室と護摩堂が建つ。
庵室は石垣の端に建っており、石垣が沈下して傾いたため、解体修理が行われた。
夏安居(げあんご)に参籠する行者の宿泊所である。
住宅風の質素な建物の玄関
宝形(ほうぎょう)造りの建物である。丹塗り塗装された直後で、建屋の朱が目に焼きつく感じ
護摩堂横の石段を上ると広がった境内となり、そこに本堂が建つ。
本堂の周りは石塀で囲まれている
本堂の詳細に入る前に、今回の明王院本堂ほか3棟保存修理事業について、滋賀県教育委員会発行資料(菅原和之氏担当)を引用させていただきます。
その他、関連情報(新聞・他)
★ 今回の修復工事は明王院から委託を受けた県教委が、2005年から国・県・市の補助を受けて行った総事業費約5億円の大修理であった。
★ 本堂の屋根は建立当時と同じ「トチ葺き」生まれ変わった。
★ 本堂の解体中には、最初に建てられた当時の平安時代後期の部材162点が見つかり、その多くが今回の改修工事で使われた。
★ 政所表門の建築年が約500年遡ることが分かった。
★ 棟梁を務めた宮大工・窪田義丘氏は「300年後に見られても恥ずかしくない仕上がり」と胸を張られた。
修理の基本は、棟梁が一人で行う「墨付け」。解体時に壁板など数千点に上る部材の寸法を測り、江戸時代の「設計図」を復原する作業で
窪田さんは並べたベニヤ板に原寸大の展開図を書いた。
本堂は部材の細部まで複雑な曲線でできていて、正面右にある装飾板「縋(すがる)破風」に建立時の棟梁の粋を感じたという。
端が反りあがり、全体が大きくねじれている。2枚重ねに見えるが一本のモミの大木をきりだしたものだという。大工の腕の見せ所で「一番大変だったが、楽しかった」と話される。
★ 「文化財建造物保存技術協会」によると、文化財を修復できる高度な技能者の育成を目的に、76年から研修を始めたが、その上級コースは窪田さんを含め143人。高齢化が進み、現役は約100人にとどまる。技能継承が長年の懸案のようだ。
★ 明王院は地元の葛野(くずの)家によって代々守られてきた。寺を預かる57代目の堂守、葛野常喜(じょうき)さんが昨年10月、工事の完成を見届けることなく85才で無くなった。常喜さんは毎年40名前後の行者を迎える夏安居(げあんご)の世話を取り仕切り、80才まで掃除・雪かきに精を出されてれていた。大修理では「雪対策をしっかり」と要望された。本堂改修工事にあわせて、「二の滝」傍の護摩堂を自費で改修された。 護摩堂横の石段を上りきった正面に本堂が建つ。本堂は舞台造である。
本堂外観
部材の細部まで複雑な曲線で出来ている。
改修部分に古木も使われて絵柄になっている。
土台部分
川べりより見た本堂
窪田宮大工に“建立時の棟梁の粋を感じた”と言わしめた。端が反り上がり、全体がねじれている。
蟇股は表裏で図柄が異なる。本堂内部「外陣」に入る
内陣
奥の厨子内には、像高99cmで漆箔の本尊千手観音立像、像高93.3cmで彩色の不動明王立像、像高103cmで彩色の毘沙門天立像(いずれも国重文)が秘仏として安置されている。
外陣の梁に見かけた蟇股と絵図、など
本堂、本屋根の装飾
夏安居(げあんご)
7月16日に花折峠を越え葛川入りした行者たちは、まず葛川坂下町の平の集落にある「山の神」で休息。そして安曇川の清流で口をすすぐ慣わしとなっている。「引用」
行者は阪本の生源寺を朝早く出発し、旧道を歩いて明王院に入る。その宿泊場所が庵室である。
太鼓まわし 行事には参籠の行者や、明王院の息障職員、葛川の各集落の青年が加わる。
参籠札と懸仏
参籠した人々が、卒塔婆に「大聖不動明王」の名号・参籠年月日・氏名・度数などを墨書したものが参篭札である。明王院には江戸時代のものまで含めると356本を数え、慶長年間(1596〜1615)以前の紀年銘を有するものだけでも58本が現存する。
その最古のものは、元久元年(1204)の紀年銘があり、鎌倉時代には、本堂の周辺に林立していたとされる。
参籠札で興味をひくのは、足利義満が応永12年(1405)に納め、また、応仁の大乱が終わり、自らの野望をとげた日野冨子が将軍職についた足利義尚とともに文明13年(1481)と19年にそれぞれ参籠し、参籠札を納めている。
懸仏は円板状の銅版の上に仏像などを彫り出したり、鋳像(ちゅうぞう)をつけたりして本堂の壁や長押に掛けておくものである。
明王院の懸仏は、通常の懸仏と異なり、いずれも直径75cmから1mという大きさで、室町時代の墨書銘を持つものが6面ある。
そして懸仏には紀年銘とともに願主・奉加者(ほうがしゃ)なども墨書されている。
三の滝
三の滝は相応が不動明王の示現をうけた滝で、ひときわ雄大である。葛川には数多く滝がある。夫婦滝は険しい谷の中で仲良く暮らすような感じの2筋の滝である。
明王院の境内から、三宝橋を渡り、左側の林道を進む。明王谷から、三の滝、白滝谷、夫婦滝、打見山に続く登山コースを進むことになる。三の滝までは1.5kmほどの距離である。
歩く間、流れの音が気持ちよく感じられる。昔、生活のみずであった取水場がある。水は冷たく、清らかである。
さらにのぼる。まもなく二の滝の護摩堂があらわれる。今回の改修工事にあわせて常喜ご夫妻が自費でつくられた。
三の滝へ下りてゆく地道。細くて急である。護摩堂に近づくと岩場となり、クサリが準備されている。ぬかるむ日はまずダメだ。
三の滝の護摩堂。
護摩堂を取囲むように張った大木の根。スギかヒノキであろう。平安の時代から参拝に訪れる人々を見守ってきた。
耳に響く大滝と、この巨木の根っこが、敬虔で神々しい聖地を犯しがたいものにしている。
三の滝
激しい流れである。水量も多かった。すべての煩悩が消される思いである。
夫婦滝
資料1 滋賀県教育委員会発行
資料2 滋賀県教育委員会発行
資料
国重要文化財
国重要文化財
国重要文化財
梵鐘
県指定文化財 貞治2年(1363)銘あり
宝篋印塔
正和元年(1312)の銘が残る。本堂前にあって形がよく整っている。
<本堂>
正面3間、側面5間、組物出三斗、二軒繁垂木、入母屋造、檜皮葺
江戸時代[正徳5年(1715)]
<本堂蟇股彫刻>
<庵室>
正面8.7m、側面4.9m、一軒疎垂木、入母屋造、檜皮葺
江戸時代[天保5年(1834)]
<護摩堂>
正面3間、側面3間、組物舟肘木、一軒半繁垂木、宝形造、檜皮葺
江戸時代[宝暦5年(1755)]
<政所表門>
1間棟門、一軒疎垂木、切妻造、檜皮葺
桃山時代[17世紀初頭]
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