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滋賀県大津市 園城寺(三井寺)

Onjoji(Miidera),Otsu city,Shiga


Apr.2013 中山辰夫

園城寺(三井寺)の創草は、大友皇子が仁申の乱で敗北したため、その子大友与多王がその宅地に寺を建てたことから始まる。

金堂あたりが大友氏の邸宅跡とされ、近江最古の庭園と思われる石組が現存する。金堂も閼伽井屋、鐘楼も国重要文化財の桃山建築である。

勧学院と光浄院

三井寺の境内には多数の子院が点在するが、なかでも別格に格式が高いとされるのが勧学院と光浄院である。

 

現在の両院の客殿は豊臣秀吉が破却したのち、「慶長の再建」によるものである。両院は1年差で建てられたほぼ似た建物である。

両院の客殿は、桃山時代の代表的建築物として、何れも国宝に指定されている。

通常は非公開で、事前申請による特別拝観となっている。

尚、勧学院はメトロポリタン美術館に一之間レプリカで展示されている。

光浄院客殿は、1954(昭和28)年日米友好関係の再構築を願い、日本からアメリカへの贈り物としてニユ−ヨーク近代美術館中庭に建設展示された松風荘のモデルで、吉村順三氏による設計である。

いまはアメリカ生誕の地、フィラデルフィア市郊外のフェアマウント公園に建つ

フィラデルフィアの松風荘(ウイキペデイアより引用) 日本文化を凝集させたものと評価される。

 

勧学院

大津市園城寺町246

三井寺子院の中でも格式の高い子院の一つで、唐院の南に位置する。

勧学院は学問所として、東大寺、興福寺、金剛峰寺その他諸大寺に設けられた。

これは寺全体が学問機関であった古代の状態から平安以降教育機関が寺内の一か所に集中する過程でつくられた。

園城寺の勧学院は、比較的遅れた正和元年(1312)に創立された。その後1595(文禄4)年、秀吉に破却されたが、1600(慶長5)年に再建された。

大門をくぐり、金堂の正面に至る参道を左手に進むと、右手に唐院唐門への参道が見え、すぐ前の村雲橋にさしかかる。

その右手は勧学院の石垣である。この一帯は、さくらや紅葉が何とも美しい景観を呈している。

     

周囲は結構高いも石垣が取囲み、院内の様子は屋根しか見えない。

     

山門から庫裏へ

塀に沿って参道をめぐる。白砂が敷かれた参道周辺はキッチリと手入れされている。風格のある庫裏が目立つ。

     

白壁の塀越しに?葺きの客殿(国宝)の優雅な屋根が見える。狐格子の美しい入母屋造である。

軒唐破風の玄関正面

  

中門

桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、総こけら葺。奥が国宝の客殿である。

    

院内は撮影が許可されていないため、院内の写真・他は参考資料を引用する。

国宝・勧学院客殿

桃山時代(慶長五年 1600) 毛利元輝の寄進による。

軒唐破風の玄関から内部に入ると、大小八ツの部屋に分かれる。

奥の十二畳が一之間で、大きな床と華麗な帳台構が設けられ、建築の細部に技巧が施されている。正面の池庭に向かって広縁がある。

正面図・南面図・北面図・背面図

   

正面・南面・西側・北側写真

     

概要は、正面七間 側面七間 一重 入母屋造・妻入 正面軒唐破風付 総柿葺 近世初期書院造の典型である。

光浄院客殿と外観はほぼ同じだが規模はやや大きく、平面は光浄院の二列七室に対して三列九室である。

外観は車寄せ部分の妻戸、唐破風さらに中門があって寝殿造以来の伝統的な形式が残っている。

南側広縁と東側広縁

  

正面の池庭にむかってあり、平安朝の上流住宅にあった中門廊の名残をとどめる。東側広縁は光浄院客殿と異なっている。

中門廊と取付部

  

中門廊の軒はねじれあがって広縁の桁に取付き実に軽快な構成美である。光浄院客殿は上長押と梁を入れ板蟇股で棟木を受けている

のに比べ、ここは簡素な構成である。

大棟獅子口正面

  

客殿妻大板蟇股 形は拙いが梅鉢懸御の形がややよいとされる。

 

客殿長押釘隠二種 5種類の釘隠が使われている。

 

客殿平面図及び障壁画配置図

 

客殿一之間 正面大床

主室(上段の間)には正面に大きな床を取り、内部は華やかな障壁画で彩られる桃山書院造の代表的建築である。

その北隣の室に床と付書院を設けている。

 

一之間西側(三之間境)襖

 

一之間と二之間境(一之間側)

 

一之間と二之間境(二之間側)

 

二之間西境

 

二之間三之間(鞘の間)境(二之間側)

 

三之間付書院及び床

 

六之間正面の押入と床 左方の出っ張りは三之間の床

 

障壁画

狩野光信筆の花鳥草木の金画碧画と着彩画をまじえた桃山時代の秀作である。

内部は南北を大きく三列に分け、南列の一之間と広い二之間には、狩野光信による華麗な障壁画が部屋を飾っている。

基本的に全ての部屋は襖で仕切られ、襖をはらえば広い空間となる。これは学問所として多人数での使用を考えた上での機能とされる。

  

勧学院客殿一之間

一之間の床には貼付の瀑布図がある。これに向かって右手に二間半に四枚の襖があり、梅、杉等が描かれている。左手は庭に面する桟唐戸で

その裏に松、杉、あやめなどがあり、床に相対する二間に四枚の襖には桜が主要な題材になっている。下地はすべて金地である。

一之間の障壁画は、金箔地に濃密な色彩で描かれているが、瀑布図はすでにデジタル化されている。金地処理に明らかな差異がみられる。

今後は順にデジタル化されると聞くが、本物の味より若干落ちるのは残念である。

 

客殿一之間 「四季花木図襖」 重要文化財

この障壁画は狩野光信筆とされる。これは一之間の金地極彩色四季花木図の春景の部分で、立ち木を奥へ奥へと重ねる光信独自の構成法

が最もよく示されているとされる。光の入る具合で変化する絵の表情を楽しんだとされる。

    

客殿一之間 「四季花木図襖」 重要文化財

同じ襖絵の早春の景の一部で、光信独特の立ち木による奥行き表現、岩法、樹法および巧みな金雲の配置を鑑賞するのに適するとされる。

曲折する梅樹は大きな金空間を超えて右方の檜樹に働きかける。全体として優美な趣を感じる。

 

客殿一之間 「四季花木図襖」 重要文化財

一之間の春景から夏景へ移る部分。下辺の金雲から上へ、岩、池、岩、土坡、樹草(石楠花・笹)、金雲、樹梢、金雲を慎重に配する構成や

優美な樹枝の曲線はまさに光信画の特色とされる。

 

客殿二之間 花鳥図襖 重要文化財

 

二之間の四周を飾る素地淡彩の花鳥図の一部。一之間と異なり、巨松が左右に長く枝を伸ばす永徳的な大構図法をとるが、緻密な鳥や草花

の描法、岩の皴法からみて、一之間と同じく光信の筆とされる。

庭園

 

広縁の向こうに広がる庭園は、正面中央に造られた築山に大きな樹が植えられ山腹にはサツキなどが植えられている。

緑あふれる庭は学問所としてつくられた寺院に合うよう趣向が凝らしてあり、学問での疲れを癒すのに効果的であったと思われる。

光浄院

大津市園城寺町246

勧学院と並び、山内で最も格式の高い子院である。客殿と庭園が素晴らしい。

大門をくぐり右への道を行くと、国宝金堂の背後に周囲を石垣と白壁の塀に囲まれた光浄院がある。外郭の石垣は城郭を思わせる。

    

1601(慶長6)年に第6代住持、山岡道阿弥によって、再興された桃山時代の作風を伝える中門の遺構(国宝)とされる。

客殿には狩野派による豪華な障壁画(重要文化財)が遺され、桃山時代における書院の代表的建築として極めて重要とされる。

周囲も石垣が高く囲み、院内の様子は見えない。屋根のみが見える。

    

山門から庫裏へ

塀に沿って参道を進む。右側に中門があり、客殿前景である。参道はこざっぱりと手入れが行き届いている。

風格のある庫裏の前に出る。

     

いよいよ客殿の境内へ向かう

  

参道の中ほどに建つ中門 

桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、総こけら葺。奥が国宝の客殿である。

客殿の優雅な屋根が見える。狐格子の美しい切妻造である。ここが客殿への出入り口となる。格子越しに見る意匠がいい。

     

光浄院は、室町時代の1460(寛正元)年に美作守の山岡資広が建立したと伝える。その後、山岡道阿弥が秀吉による文禄の闕所で

荒廃した三井寺を復興すべく奔走し、現在の国宝光浄院客殿を1601(慶長6)に復興したと伝える。

山岡道阿弥は三井寺復興の大恩人とされる。

もともと山岡家は、瀬田の唐橋で有名な瀬田城の城主をつとめた家で、三井寺との縁が出来てからは道阿弥の弟暹実をはじめ

江戸時代を通じ一族のなかから三井寺に入寺する者が続いた。

いよいよ客殿に向かう。院内は撮影が許可されていないため、院内の写真・他は参考資料を引用する。

国宝・光浄院客殿

桃山時代(慶長6年 1601)

正面図・南面図・北面図・背面図

     

正面・南面・西面・北側写真

         

概要

正面七間 側面六間 一重 入母屋造 妻入 正面軒唐破風付 総柿葺

外観は勧学院客殿によく似ているが、間取りは二列に配されている。

南側の広縁に続く上座一之間の見付には二間巾の大床と違棚を並べ、北側の納戸境には帳台構を設ける。

南側広縁

正面の池庭にむかってあり、平安朝の上流住宅にあった中門廊の名残をとどめる。

    

中門廊とその取付部及び蔀戸

舞良戸の間より杉戸の間が広く、従って中門の棟木は柱真と一致しない。勧学院客殿は柱上舟肘木で中門廊の棟木を受けている。

    

鞘の間杉戸の外側と内側

  

正面破風の懸魚、唐破風兎毛通、唐破風妻飾蟇股、獅子口

       

客殿平面図及び障壁画配置図

 

一之間 広間

南側の奥の間に押板と棚があり、向って左に上段がつく。その南側には付書院が、又棚の右側には帳台構がある。この構成は書院造の

基本的な形である。外観は勧学院とほぼ同様で、蔀部を使っている点が異なる。

正面・大床・違棚・帳台場

       

上段の間

主室(上段の間)には正面に大きな床を取り、内部は華やかな障壁画で彩られる桃山書院造の代表的建築である。

その北隣の室に床と付書院を設けている。

南側の広縁幅いっぱいに張りだした二畳の上段の間。床と付書院を設ける。

    

床や南面小障子

    

障壁画

  

客殿一之間障壁画 一之間床貼付絵 重要文化財

  

松の大木を描いた豪壮な絵である。 白の岩絵具の盛り上がりが素晴らしい。レプリカされるとこの味が無くなる。

客殿二之間 四季花木花鳥図襖 国重要文化財

  

二之間三方十二面の襖に描かれた四季花木花鳥図(素地着彩)の春から夏への部分。奥行きのある構図など狩野光信の画風に近いが

おそらく弟子の作とされる。

一之間・広間と二之間境襖(広間側)と(二之間側)

  

二之間北境襖(二之間側)と二之間・三之間(鞘之間)境襖(二之間側)

  

庭園 国名勝・史跡

 

客殿の各部屋は庭が見渡せるよう設計されている。

  

庭園は国宝の客殿と一体となって、その奥深さが実にうまく表現されているといわれる。決して広くないが、敷地に池を低く堀り、背後の大木を

植えるなどして興趣ある庭となっている。

 

豪華な建築で知られる客殿の南にあり、小池には珍しい夜泊石と亀石を配する。書院の真下から池になっており、水が満ち溢れた、趣のある

雰囲気になっている。

  

池周辺を固める石組はいずれも豪壮な自然石が選ばれ使われている。池は東西に長く続き、広縁下の石組と、象徴的な二つの石が池中に

浮かんでいる。

 

庭園については≪近江の名園 渡部 巌著 光村推古書院≫より引用させて頂きました。

参考資料≪国宝光浄院・国宝勧学院客殿修理工事報告書、全集日本の古寺・園城寺の研究・三井寺祈想、ほか≫

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