滋賀県大津市 園城寺(三井寺)
Onjoji(Miidera),Otsu city,Shiga
以下、wikipediaより
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
歴史
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。
伽藍
大門(重文)−仁王門とも呼ばれる。入母屋造の楼門(2階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出を造らないもの)。もと近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を慶長6年(1601年)、徳川家康が寄進したもの。墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451年)の建立と推定される。
釈迦堂(重文)−大門を入って金堂に至る道の右側にある。天正年間(16世紀末)造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝える。
金堂(国宝)−三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599年)に再建した。入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂である。なお、移築された旧金堂が延暦寺に現存する。
鐘楼(重文)−金堂の左手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。この梵鐘は慶長7年(1602年)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。
閼伽井屋(あかいや、重文)−金堂の西に接して建つ小堂で、慶長5年(1600年)、金堂と同じく北政所によって建立された。堂内には三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。
一切経蔵(重文)−室町時代の建築。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵を移築したものという。輪蔵。
三重塔(重文)−鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたもの。
唐院−灌頂堂(重文)、唐門(重文)、大師堂(重文)、長日護摩堂などがある。智証大師円珍が唐から帰国後、請来した経巻法具などを納めたところとされる。現在は、宗祖円珍の廟所ならびに灌頂(密教の儀式)の道場として寺内でも最も重視されている区域である。
観音堂−寺域の南側、琵琶湖を望む高台に位置し、西国三十三所観音霊場の第14番札所として知られる。観音堂は元禄2年(1689年)に再建されたもの。
毘沙門堂(重文)−観音堂の近くにある小堂。元和2年(1616年)の建立と伝える。
文化財収蔵庫 - 2014年10月開館。仏像、仏画、仏具などのほか、勧学院客殿障壁画のオリジナルを収蔵し、一部を展示する。
護法善神堂(千団子社)−三井寺の守護神である護法善神(鬼子母神)像を祀る。
新羅善神堂(しんらぜんじんどう、国宝)−三井寺の中心伽藍から北へ500メートルほど離れた場所にある。三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る。「堂」と名が付くが、建築様式的には流造(ながれづくり)の神社本殿である。現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進によるもの。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。
勧学院客殿(国宝)−唐院の南隣に位置する。慶長5年(1600年)の建立。桃山時代の書院造建築の代表作とされる。障壁画は狩野光信を中心とする狩野派一門の作である。
光浄院客殿(国宝)−金堂の北方に位置する。勧学院客殿より1年あとの慶長6年(1601年)建立。規模、意匠など勧学院客殿と似る。障壁画はやはり狩野一門の作である。
円満院−大門の北方(右)に位置する。円満院門跡とも称し、寛和3年(987年)村上天皇の第三皇子・悟円法親王によって創建された。江戸時代の画家円山応挙ゆかりの寺としても知られる。宸殿(重文)は、慶長年間造営の御所のうち、東福門院の御局といわれる建物を移築したもので、仁和寺の金堂などと共に江戸時代初期の寝殿造宮廷建築の遺作として重要なものである。宸殿にあった障壁画の「住吉社頭図」6面(重文)と「風俗図」4面(重文)は1974〜1975年に文部省買上げとなり、現在は京都国立博物館に所蔵されている。その他、円満院には円山応挙の「七難七福図」を始め7件の重要文化財が所蔵されていたが、現在はいずれも寺外に流出している。
法明院−境内最北にある子院。明治時代に日本美術の普及啓蒙に功績のあったアメリカ人アーネスト・フェノロサが長く滞在し、その墓があることで知られる。書院には円山応挙、池大雅らによる障壁画がある。
文化財
三井寺の秘仏
黄不動像(絹本著色不動明王像、国宝)をはじめ、三井寺の仏像には平素公開されない秘仏が多い。唐院大師堂の木造智証大師像2躯(中尊大師・御骨大師、ともに国宝)、唐院大師堂の木造黄不動立像(重要文化財)、新羅善神堂の木造新羅明神坐像(国宝)、観音堂の木造如意輪観音坐像(重要文化財)、護法善神堂の木造護法善神立像(重要文化財)などはいずれも秘仏である。これら秘仏は下記の行事等の機会に公開されたことがある。
「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」(1989年10月から1990年9月まで東京国立博物館など4会場で開催)及び「智証大師一千百年御遠忌大法会」(1990年10月から11月に寺内で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
「智証大師帰朝1150年記念国宝三井寺展」(2008年11月から2009年5月まで大阪市立美術館など3会場で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
「天台寺門宗宗祖智証大師生誕1200年慶讃大法会」(2014年10月から11月に寺内で開催) - 大師堂で智証大師像2躯と木造黄不動像、観音堂で如意輪観音像を開扉。
なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明である。
国宝
金堂(附:厨子)
新羅善神堂(附:須弥壇及び厨子)
勧学院客殿
光浄院客殿
絹本著色不動明王像(黄不動)(既述)
木造智証大師坐像(中尊大師) - 唐院大師堂の中央の厨子に安置。秘仏で、毎年10月29日の円珍の命日にのみ開扉される。卵形の頭の形と細い眼が特徴の独特の風貌は、各地に残る円珍の肖像に共通のものである。この像はもと比叡山内の山王院(千手院)にあったと言われ、円仁(慈覚大師)門徒と円珍門徒の抗争激化のため、円珍門徒が比叡山を下りた正暦4年(993年)に三井寺に移されたものと言われている。ただし、作風的には10世紀後半頃のものと見られ、正暦4年頃に三井寺で新たに造像されたとの見方もある。「三井寺の秘仏」の節で紹介した行事等で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
木造智証大師坐像(御骨大師) - 唐院大師堂内、中尊大師像の向かって左の厨子内に安置する。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。荼毘に付した円珍の遺骨を納めるところから「御骨大師」と呼ばれて寺内で尊崇され、出版物への写真掲載は制限されている。中尊大師像より古く、9世紀末、円珍没後まもない頃の作と思われる。
木造新羅明神坐像 - 新羅善神堂に安置。非公開。円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされる。長いあごひげを蓄え、目尻の下がった異様な相貌、異様に細く長い指など、極めて特殊な像容を示し、日本彫刻史の中でも異彩を放っている。平安時代後期、11世紀頃の制作と推定される。「三井寺の秘仏」の節で紹介した展覧会で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
五部心観2巻−両界曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の諸尊を表した白描(はくびょう)図像の巻物である(白描とは、陰影や肥痩のない、均質な墨の線だけで表した絵画のこと)。2巻のうち1巻は完本で唐時代に制作され、円珍が師の法全(はっせん)から授かったもの。もう1巻の残欠本は11世紀平安時代に日本で写されたものである。ただ、最近では残欠本の方を請来本とする意見もある。
智証大師関係文書典籍 - 円珍に関わる資料46種が一括して国宝に指定されている。主なものとしては、円珍の系図、唐への渡航関係文書、円珍自筆本、唐から請来した経典などがある。京都国立博物館・奈良国立博物館に寄託。(文書典籍の明細は別記)
重要文化財
木造不動明王立像−木像彩色、玉眼。唐院大師堂の向かって右の厨子に安置される。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。原本である黄不動の画像をもとに、鎌倉時代に彫像として慶派の中心仏師によって造られた像と見られる。
木造如意輪観音坐像−木造漆箔。10世紀末頃の作。西国観音霊場14番札所の観音堂の本尊である。秘仏で、開扉は33年に一度とされている。
梵鐘(弁慶の引き摺り鐘)−金堂近くの霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太こと藤原秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。
以下は園城寺所有の重要文化財の一覧である(上に解説したものも重出している)。
(建造物)
大門(仁王門)
閼伽井屋
一切経蔵
三重塔
食堂(釈迦堂)
毘沙門堂
唐院4棟(大師堂・唐門・灌頂堂・四脚門)
鐘楼
(絵画)
絹本著色新羅明神像
絹本著色天台大師像 2幅
絹本著色不動明王像
絹本著色不動明王二童子像
絹本著色不動明王八大童子像
絹本著色釈迦十六善神像
絹本著色涅槃像
絹本著色尊星王像
絹本著色多聞天像
絹本著色閻魔天像
絹本著色水天像
絹本著色黄金剛童子像
絹本著色両界曼荼羅図
絹本著色尊勝曼荼羅図
絹本著色八大仏頂曼荼羅図
光浄院客殿障壁画 25面 紙本金地著色松に滝図(床間貼付1)、紙本金地著色菊花図(上段床間1、同障子腰4)、紙本墨画列仙図(襖4、帳台構3)(以上広間)、紙本著色花鳥図(襖12)(次の間)附:著色杉戸絵4面(唐獅子図2、松梅図2)
勧学院客殿障壁画 15面 金地著色滝図(床間壁3)、梅、檜及花卉図(襖4)、桜、杉及花卉図4面(襖4)、檜及花卉図(戸襖4)(一の間)
勧学院客殿障壁画 24面 紙本著色松に山鳥、鴨、鴛鴦図及竹に雀図(襖16)、竹に雀及芦に鷺図(戸襖8)(二の間)
(彫刻)
木造如意輪観音坐像(観音堂安置)
木造愛染明王坐像(観音堂安置)
木造護法善神立像(護法善神堂安置)
木造黄不動尊立像(唐院安置)
木造吉祥天立像
木造十一面観音立像
木造千手観音立像
木造智証大師坐像
木造不動明王坐像
木造訶梨帝母倚像
(工芸品)
金銅孔雀文磬
銅鐘 大平年間(遼)銘
梵鐘 奈良時代
(書跡、歴史資料)
大蔵経(文和三年正月廿三日足利尊氏願経) 592帖
紙本著色園城寺境内古図 5幅
園城寺尺 2枚
* 唐院預竹計 応永三十一年四月十九日香実房領納(附 包紙(長禄二年四月二十七日授与記))
* 唐院預尺 応永三十三年三月十五日写
大門(仁王門)
食堂(釈迦堂)
金堂
鐘楼
閼伽井屋
Akaiya
熊野権現社
弁慶鐘
一切経蔵(経堂)
塔婆(三重塔)
唐院 灌頂堂、護摩堂
唐院 大師堂、唐門
唐院 四脚門
唐院
勧学院付近
微妙寺、文化財収蔵庫付近
毘沙門堂
観音堂
十八明神社
総門
護法善神堂
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