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滋賀県大津市 小野神社

Onojinja ,Otsu city,Shiga

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大津市小野1961 小野神社境内社篁神社本殿 重文 近世以前/神社 室町前期 室町前期 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺 19070828

大津市小野1213 小野神社飛地境内社道風神社本殿 重文 近世以前/神社 室町前期 暦応4(1341) 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺 19070828


Sep.2011 中山辰夫

小野神社

大津市小野1961

祭神:天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと) ・米餅搗大使主命(たかねつきおおおみ) ・小野妹子命

旧道に接した上品寺の塀角に小野神社の石碑が建っている。その横は小野篁神社へ向う幅広い参道である。

参道右脇に生育するムクロジは、胸高周囲4・19mもの大樹で県下最大である。樹勢もあり、秋には多くの実をつける。

参道左脇にある川溝には、山から染み出した清らかで、指がきれそうな冷たい水が流れ、昔から生活用水として使われている。

鳥居をくぐりさらにすすむと、途中、左側に小野神社へ向う細い参道があらわれる。右側には石塔が建つ。

鳥居をくぐると本殿が正面に見える。狛犬と燈籠が建つのみである。横には小野篁神社の本殿が建つ。

小野神社は、古代氏族である小野一族の始祖を祀り、飛鳥時代の創建と伝わる。

小野妹子・篁(たかむら 歌人)・道風(書家)・などを生んだ古代の名族小野氏の氏神である。

推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。

境内に小野篁神社(本殿:重文)がある。また近くの飛地境内に道風神社(本殿:重文)がある。

平安時代には、小野氏同族の氏神として春秋に祭祀が行われており、平安京内に住む小野氏や一族がこの神社に参向していた。

境内から石段で高くなった本殿前の空いたスペースに、この神社の祭神・米餅搗大使主命にちなんで、お餅が飾られている。

毎年10月20日には、全国から餅や菓子の製造業者が自慢の製品を持って神社に集まり「ひとぎ祭」が行われる。

米餅搗大使主命は応神天皇の頃、わが国で最初に餅をついた餅造りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。

参道入口に「餅祖神 小野神社」と刻まれた道標がある。これにちなんだ祭りが行われる。

中門・幣殿

本殿

神明造 間口一間二尺 奥行一間一尺

本殿の南側に、コジイトツクバネガシを交えた林がみられる。本殿の裏には県下でも珍しいタマミズキの大樹が生育する。

境内社

小野篁神社(重文) 八幡神社 松尾神社

石造宝塔

参道の上り口に建つ。大津市指定文化財

小野篁が般若経を埋納した所とも、小野小町が調度を埋納した所とも伝える。

銘文には「康永22年・・」とある。(1363)

しどき祭

11月2日

7代目米餅揚大使主命(たがねつきおおみかみのみこと)は餅つくりの始祖とされ、毎年秋に全国の菓子製造業者が集まり、餅を形作った

御輿を巡幸する。

境内の神田で穫れた新穀の餅米を前日から水に浸して、生のまま木臼で搗き固める。それを藁のツトに包み入れる。

納豆のように包まれたこれを「しとぎ」と呼んでいる。そして他の神饌とともに神前に供える。

祭典が終わると、注連縄を張り渡した青竹を捧げ持ち、小野地区(神座)を北、中、南の順で廻り、各地点で「しとぎ」を

吊り下げて礼拝し、五穀豊穣・天下泰平を祈念する。

由緒

明細書では創立年代不詳であるが、社記によると当社は延喜式名神大社で、御祭神天足彦国押人命は孝昭天皇の第一皇子で、

近江国造の祖である。

また米餅搗大使主命はその七世の孫でもとの名を日布礼大使主命と呼んだ。応神天皇の時代にはじめて餅を作ったことから、

日本餅造の始祖とされる。

推古天皇の時代に小野朝臣妹子がこの地に住んで氏神社として奉祀したと伝えられる。

小野神社の文献上の初見は、「続日本書紀」宝亀3年(772)で、大和国の西大寺の西塔が震えたので占ったところ、近江国

滋賀郡小野社の木を伐採して塔を構えたことによる祟りであることがわかったとある。

鎌倉時代にも小野氏の末裔が歴代奉仕し、古来の神領を守り続けたが、建部3年(1336)神主小野好行が南朝側に加担した

ため、家職を奪われ、小野氏は衰退し、神領も大半没収された。

延元2年(1337)近江国守護佐々木高頼が新たに摂社を設けて篁・道風を祀ることにした。

境内社の小野篁神社は平安初期の漢学者で詩人、歌人としても名の高かった小野篁を祀った神社で社殿は暦応三年に佐々木

六角により建立されたと伝えられる、三間社流造で重文である。

また飛地境内社の小野道風神社は小野道風を祀り、社殿は同じく三間社流造であり興国二年鎮座と伝えられる。

小野?(たかむら)神社も小野神社の摂社で、祭神は平安時代に官僚・学者・歌人として活躍した小野?。

社殿は、暦応4年(1341頃の造立で、三間社流造・切妻造平入、桧皮葺である。

小野妹子と小野一族

5世紀代になって朝鮮半島から多くの移住民が西日本の各地に移住してきた。が大半は一般の庶民であった。6世紀後半になると

その当時の東アジア世界でも最先端の知識人が志賀津に移住してきた。

その人々を一括して「志賀の漢人」という。

漢人は中国系の人という意味であるが、百済の聖明王から倭国の欽明天皇に提供された移住民で、国家と国家との間で行われた移住である。

百済王は、倭王の要請にこたえて国家の形成を指導する人材を派遣した。数年間滞在した後に帰国する学術・技術の専門家や「漢人」のよう

に倭国に定住した人々である。

近江は天皇(大王)家の成立と深く関わっている。後に「継体天皇」とよばれる人物がこの近江から誕生する。ここでは省略する。

継体天皇崩御後の混乱を欽明天皇が収拾したが、欽明の末子の代に至り、崇峻天皇が暗殺される(592)という大事件が起こった。

その後を受けて即位した推古天皇の摂政となった聖徳太子は、天皇を中心とする中央集権国家建設の必要性を痛感し、範を大陸に

求め隋の統治技術と文物を導入すべく図った。

「日出づるの処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書を携えて入隋したのが小野妹子であり、607年であった。

翌年、隋の答礼使・裴世清(はいせいせい)とともに帰国した。聖徳太子は同年、再び妹子を隋に派遣した。

その後帰国して大徳冠(第一階)に昇進した。これは遣使・妹子が高く評価された証といえる。

官位十二階の制定は、この遣隋使による文物導入の成果の一つであった。

妹子を出した小野氏は、本拠地の小野が和邇と接することもあって、大和の豪族・和邇氏の一族かとも推測される。

「新撰姓氏録」には妹子が「近江滋賀郡小野村」に住したため小野臣を称したとある。

しかし、「延喜式」神名帳の滋賀郡八座に、日吉社(ひえ)と並んで小野神社も名神大社とされており、「続日本後紀」承和元年(834)の

条には、小野社春秋の祭礼に、五位以上の小野氏は官府を持たずに往還することを許されている。

これらの点から、小野氏は和邇氏といちおう別個に、小野を本貫(ほんがん 本拠地)とする土豪とみるのが有力な説とされる。

奈良時代から平安時代にかけて、小野妹子・毛人・毛野の子孫の中から、歴史に名を残すような人物が排出し、特徴ある4つの分野で

すなわち第一に対外交渉、第二に太宰府の政治、第三に東北地方支配、第四に学術・芸術の分野で活躍している。

第一分野

小野馬養(うまかい) 年号の由来となった慶雲の発見者、平城京造営官司の次官、718年遣新羅大使

小野田守(たもり ) 太宰府の官人として長い。753年に遣新羅大使、758年遣渤海大使

小野石根(いわね ) 776年遣唐副使 帰路難破で死去

小野滋野(しげの ) 遣唐使

第二分野

小野老 (おゆ ) 神亀年間(724〜729)にはすでに太宰府に赴任。遣唐使の南島路を整備。万葉歌人としても知られる。

小野岑守(みねもり) 陸奥国守、学者・詩人、太宰府 管内九国に国家の公営田を立案・建議した。

小野恒柯(つねえ) 名筆家 844年から太宰府 円仁の「入唐求法巡礼行記」にある「小野少弐」は恒柯、「小野宰相」は小野?である 

小野好古(よしふる) 藤原純友の乱の際、「追捕山陽南海凶賊使」に任命され純友の軍を破った。大宰大弐として太宰府勤務

第三分野

東北地方支配に貢献した人が多い。都から派遣され武将として征服した人、陸奥国・出羽国の国司となった人が多い。

小野牛養・竹良・永見(以上は奈良時代)岑守・石雄・?・興道・春枝・春風・滝雄・宗成・千株・恒柯・春泉(以上は平安時代)

第四分野

学者・詩人としては、小野永見・岑守・?らが有名。特に岑守は嵯峨天皇の信任厚く、「凌雲集」や最古の宮中儀式書「内裏式」の編纂者

である。最澄も「外護(げご)の檀越(だんおつ)」27人の一人に岑守を揚げている。小野美材(よしき)は文華抜群とされる。

名筆家として、小野?・恒柯・道風・美材が著名。歌人には小野小町・美材・好古らがいる。

小野小町は、仁明・文徳朝(833〜858)ころ活躍した王朝女流歌人の先駆者で、六歌仙・三十六歌仙の一人。

『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』は百人一首に選ばれている。

すでに平安時代から、絶世の美女小町の老衰零落伝説があり、謡曲の「七小町」が小町の虚像を確立した。

しかし経歴は未詳で、小野?の孫で美材・道風の従妹とする説や、出羽国出羽郡の郡司小野良真の娘とする説、仁明天皇の更衣小野吉子

に比定する説などがある。

小野神社とその祭神

官撰のひとつ「続日本後記」(承和元年834)によると

★ 小野氏の氏神の社は近江国の滋賀郡に在り。勅すらく、彼の氏の五位巳上は、春・秋の祭り至らむ毎に、官符を待たずして、永く以って

行き還(かえ)ることを聴す(ゆるす)。とあり、また同4年(837)の条には

★ 勅すらく、大春日・布瑠(ふる)・栗田の三氏の五位巳上は、小野氏の准い(なずらい)、春・秋二祠のときに、官符をまたずして、近江国の

滋賀郡にある氏神の社に向く(おもむく)ことを聴す。とある。

当時の皇族や上流貴族は、「畿内」と「畿外」との境、この場合は逢坂山を越える時は、事前に天皇に奏請し、許可を伝える太政官符を携行

する必要があった。上の二度にわたる勅は、小野氏やその同族に対する適用除外の特例措置である。

上記の勅は、古い和邇氏同族が、当地の小野神社を氏神の社とし、祭礼を行ってきたことを示す。「布瑠」は奈良県天理市石上神宮付近の

豪族で、和邇や柿本の一族と祖先を同じくしていた。「大春日」は「春日」、もっと古くは「和邇」である。

「古事記」孝昭天皇段の和邇氏同族の中心グループで、もとから奈良盆地東北地域を本拠地とした和邇臣(春日臣)・大宅臣・檪井臣(壱比

韋臣)や、京都に起こり奈良盆地東北地域に拠点を持った粟田臣・小野臣など、これらのすべてが小野で氏神を祀っていた。

その理由として

第一に、古い和邇氏同族が、8世紀の初め以来、小野氏同族となったことによる。

遣隋使小野妹子の「大徳冠」という政治的遺産が小野氏繁栄の端緒で、それを継受する孫の毛野の時代に、小野氏の勢いは頂点に達した。

毛野は、父毛人の遺業を顕彰し、それとともに、祖父妹子が誕生し、その墓(唐臼山古墳)もある小野を、小野氏同族(旧和邇氏同族)全体が

よって立つ聖地とした。

第二に、小野神社の本来の祭神であるタガネツキ大使主命(おおおみのみこと)は、「新撰姓氏録」という8世紀末から9世紀初めに編纂された

書物に「米餅搗(春)」と「鏨着」とふたとおりの文字であらわされている。

「米餅搗大使主」の場合は、神事用の「粢(しとぎ 水に浸した米を搗いで粉にし、こね固めた餅)」または丸餅をつくって天皇に仕えた人

餅搗の神で、現在の小野神社の「しとぎ祭」や信仰はこの用字から成立した。

「鏨着」の場合、タガネは金属や石を割ったり彫ったりする道具である。「鏨着タガネツキ」の用字が「鏨衝 たがねつき」に通じるとすれば、神名は

タガネで鉄を断ち切る人の意味になる。ただ、遅くとも平安時代の初めには餅搗の神と思われていたとされる。

タガネツキはもともと鍛冶の神で、和邇部一族の神格化された始祖であって、おそらくは和邇大塚山古墳の被葬者のことであろう。

なお和邇部の首長の娘は古くから宮中に出仕していた。弘仁4年(813)10月28日付で中央政府が伝えた天皇の命令には

★ ?女(さるめ)の養田は近江の和邇村、山城国の小野郷にあり。今、小野臣・和邇部臣等は既に其の氏に非ずして、?女を供らる。(中略)

両氏の?女は永く停廃に従い、?女公氏の女一人を定めて縫殿寮に進め、闕(か)くるに随い即ち補え。以って恒例とせよ。★

とある。「類聚三代格」

8世紀初め以後は、「古事記」「日本書紀」のアメノウズメノミコトの神話を根拠にして、伊勢の?女公(君)から宮廷の?女を出すのが正式なの

である。

ところがその伊勢出身の女官の収入として届けるべき水田が和邇と京都の小野(京都市左京区上高野付近)とにあって、和邇部臣・小野臣が

その経営を管理して、かつ?女を出していた。これは、もともと和邇部氏と小野氏とが宮廷に巫女を出していたことをうかがわせる。

なお、小野の神には、836年従五位下の神階が授けられた。その後も昇進し、862年に正五位上から従四位下になっている。

『延喜式』臨時祭式や神名帳では名神大社に列している式内社である。

式内社は10世紀前半ごろ選ばれて国家的に認定され、神祇官の官社帳に搭載されていた各地の崇敬著しい神社である。

其の中でも特に霊験あらたかで有名、かつ社格も高いものが名神大社である。

湖西では日吉大社、北の水尾大社(高島市)、が小野大社と同格の名神大社である。

参考資料≪志賀町史、他≫

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