滋賀県大津市 小野道風神社
Ononotofujinja,Otsu city,Shiga
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Feb 16,2013 大野木康夫 source movie
小野神社の飛地境内社道風神社は、小野神社や篁神社のいちから400mほど南に行った山の斜面に鎮座しています。
本殿(重要文化財)
暦応4(1341)年の建築
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺
天皇神社本殿、篁神社本殿同様、切妻造の本殿です。
前庇が向拝分だけ長く感じますが、流造ではありません。
大津市小野
祭神:小野道風命
小野の集落は西近江路沿いに形成され、真ん中あたりの左側に道風神社がある。
小野神社の南方400m、生い茂る孟宗竹林の繁みの中、石段を登ったところにある。小野神社の飛地境内摂社である。
祭神は、醍醐・朱雀・村上の三朝に仕え、正4位下内蔵頭にまでのぼった小野道風(894〜966)である。
祭神道風は、小野篁「小野篁神社」の孫にあたる。
道風の書は、生存中から高い価値が認められ、宮廷で愛好された。中世以降は「野蹟」と呼ばれ、三蹟の一人として
今日までその崇敬は続いている。
石段を上るとさほど広くない境内。本殿と境内社が建つ。
本殿の北側から西側にかけて、狭い面積ながら、コジイを主体とする林がひろがる。
本殿
国重要文化財 暦応4年(1341頃の造立。社伝では、佐々木氏頼が、篁・道風の両社殿を創建したとされる。
詳細説明と図面
小野篁神社本堂と同じ建築様式・手法で、規準も同じである。
切妻造の本殿は全国的にも類例が少なく、小野篁神社・天皇神社本殿とともに、この地域に集中していることが注目される。
向拝全景
柱上連三斗で手挟みのみ当初財である。手挟は唐草彫刻。木鼻や蟇股は建築当時の形式でない。
平面は母屋の前方一間は外陣、後方一間を内陣と内々陣としいずれも三室に区切る。
母屋の正面は中段に敷居を入れ、上方は粗い間隔の格子戸、下方菱欄間嵌殺の他は板壁である。
側面中央柱上の肘方は南北朝時代の建築彫刻を残している。
妻飾は大紅梁上豕扠首組(だいこうりょううえいのこさす)、舟肘木を載せ、切妻破風に蕪懸魚をつける。
高欄部分と基礎・土台部
檜皮葺屋根の流線
社殿は、室町中期の応永29年(1422)から江戸時代末期の慶応元年(1865)の間に、10回余りの屋根葺き替えなどの修理が行われた。
境内社:文珠神社
境内の御輿蔵の北隣にある。明治34年(1910)に移された。
燈籠
本殿前右手に建つ 高さ165cm 竿正面に銘文あり
燈籠
石段下右傍鳥居前に建つ。銘文(竿正面) 道風大明神 天宝13年(1842) 高さ229.5cm
由緒
小野道風神社は小野氏の祀った小野神社の飛び地にある境外末社です。
平安時代の書家、小野道風(894〜966)を祀ります。
小野道風は、参議小野篁の孫で、73歳で没したときに正四位下内蔵権頭という中流貴族でしたが、書の大家として名を馳せました。
平安時代に活躍した書の達人、藤原佐理、藤原行成とともに日本三蹟の一人。
道風は三蹟の中でも時代的に先行した人物で、中国書を手本としていたそれまでの日本書を、漢字仮名交じり文に最適な和風の
書体に改良した和書の先駆け的存在であるとされています。
道風の名は「源氏物語」にも登場、道風の手を「今風」であると褒め、以降の日本における書の手本ともされました。
現在、東京国立博物館所蔵の「智証大師諡号勅書」などに道風の自筆が残っています。
奈良〜室町時代の大般若経を所蔵し、五年ごとに観音堂で転読が行われる。
書家・小野道風の資料
道風の書は「野蹟」と呼ばれ、藤原佐理(すけまさ)の「佐蹟」、権大納言藤原行成の「権蹟」とともに、中世以後三蹟と呼ばれ尊重された。
三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)の時代は、晋の王義之の書を規範としたが、それを根幹としつも自主的な創造性を加えた新様式が成立
した。道風は創始者で、藤原行成が大成者とされる。
祖父の篁は草書・楷書に巧みで、自宅で書道を教授していたとのこと。道風も祖父篁の遺墨の影響下に修練を積んだであろう。
醍醐・朱雀・村上の三朝に仕え、正四位下内蔵頭にまでのぼった。書だけで奉職してこの地位まで昇進した人は他に例がない。
内裏の清涼殿・紫宸殿の壁や障子、大嘗会の屏風に揮毫するなど当時から「小野道風は能書の絶妙なり。義之(王義之)の再生、
仲将(韋誕)の独歩」と称賛された。道風の真蹟として「三体白氏詩巻」など国宝もある。
道風も伝説的存在となった人物である。
11世紀末に大江匡房(まさふさ)により著されたとされる「本朝神仙伝」には、空海が応天門の額を書き、額をあげた後、筆を投げて
「応」の字の第一画の点を書いた話「弘法の投げ書」と、空海筆の朱雀門の額を、道風が「朱」の字はまるで「米」の字のようだと非難して
額の精霊から仕返しをうけた話がある。13世にでた「古今著聞記」によると、道風はそのため中風になったとしている(道風のふるえ筆)
柳に飛びつく蛙をみて書道に励んだという有名な逸話は江戸時代以後しか確認できない。
小野道風古墳
真野・小野・和邇地域には4世紀頃から築造された古墳が多く存在している。
古墳からは、この地域が古くから開け、有力な豪族を中心に形成された政治的社会の様子や古墳構造の変遷からも歴史が読み取れる。
近江における最古の前方後円墳は、弥生時代が終わった直後に築かれた小野の不ケ谷古墳で、この古墳は日本でも最古級のものである。
不ケ谷古墳の位置は、小野神社が鎮座し、南側の丘陵には石神神社が位置する場所にも近かったとされる。
不ケ谷古墳の後に、和邇大塚古墳が築かれた。
資料 滋賀県教育委員会発行資料
写真さらにあい前後して、春日山古墳が築かれた。
小野道風古墳は、5世紀末から6世紀にかけて築造された。
神社脇にあって、1号墳は径28m、全長34m、 高さ4mの円墳である。2号墳は変形した前方後円様の古墳で、注目されている。
以降もこの裏山に後続して古墳が築かれているが、その規模は縮小し、一般の有力家族の家族墓であった。
この頃に小野神社古墳群も形成され始めたとされる。
唐臼山古墳は、7世紀前半の築造とされている。丘陵屋根筋の上に築かれており、その眺望は素晴しかったと思われる。
小野妹子の墓とする伝承は残ってないが、妹子時代のしかも限られた有力な人物の墓所であったことは事実である。
資料 滋賀県教育委員会発行
和邇大塚古墳をはじめとする最大規模の曼陀羅山古墳群については、真野川下流域の堅田平野を基盤とする勢力に関わるものとすべき
であり、小野氏に関わるのはそれ以北の古墳群である。
その場合、規模や内容は極めて貧弱なものであって、妹子以前の小野氏が、堅田平野を中心とした勢力に従属する、弱小な豪族であった
と憶測できる。
ただ小野氏が基盤とした和邇川流域は交通・軍事上の要衝であったことが、その後の発展の基盤となったといえる。
こうした地理的条件を背景に、早い段階で和邇氏の系列化に食い込まあれ、大和政権による北国進出の一翼を担うようになったと思われる。
さらに、湖上交通や滋賀郡南部に集住する志賀漢人など渡来系氏族との交流で得られた経験や能力を活かして、小野氏も登用されるように
なった。
妹子の中央政界での活躍により、その政治的地位が急速に高まり、和邇氏同族にも加わるようになった。
そして、妹子—毛人—毛野三代の功績により、天武・持統朝頃には粟田臣と並んで、和邇氏同族の「氏上」的な地位にまで上昇し、議政官
補任氏族となった。
石神古墳群
大津市小野
小野神社と小野道風神社に挟まれた丘陵地、標高100m強の地点にある。
小野道風神社傍に立つ案内板に従って歩く。山間の小道をすすむが、両脇は竹林が続く。
程なく石神古墳の案内にたどり着いた。
4基の円墳からなり、横穴式石室を有する6世紀半ばから7世紀にかけて、4世代にわたって継続的に築造された有力家族の家父長
の墓であったとされる。石神1号墳の石棺の蓋石と底石らしい石が置かれている。石神神社の域でもある。
たまたま通りがかった地元の方に、他の古墳を案内してもらった。深い竹やぶの中に放置されて残っていた。「4号墳のようだ」
さらに別の箇所に行く。文献からは3号墳とおもわれるが、竹やぶの囲いを越えて近づく。私有地のような所で、お茶室があり、民家の庭内
であったと思われる。
横穴式石室は羨道の一部を除き、ほぼ完存。玄室は4.62×2.57×2.95m、羨道は幅1.57mの両袖式で、奥壁と玄門から天井石を迫り出
して、中高式天井のようになっている。花崗岩の割石で築かれた大型石室です。石棺の材質は播磨の竜山石(高砂市)とされる。
比良山花達院
道風神社のすぐ近くに建つ。
向って左が観音堂、右が毘沙門堂である。
堂内の聖観音菩薩立像と毘沙門天立像は、いずれも平安時代の造像とされる。
観音堂については、比良山花達院と称し、縁起によれば、もとは「比良山根本院トナシ給フ」寺院であったが、「元亀年中ノ兵火ニカカリ
一時ニ灰燼トナリ」その後、小野村に草堂を建立して観音を安置したとある。
燈籠と地蔵堂
観音堂左手に建つ。火袋は後補で、宝珠でなく宝篋印塔の笠を載せている。
地蔵堂は境内北側にあって、切妻入り瓦葺 一石に地蔵菩薩一躯を刻む。
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