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滋賀県大津市 大谷町

Otani ,Otsu city,Shiga

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July.2011 中山辰夫

京都の町を過ぎて追分村に入る。追分村はその名の通り東海道と伏見街道の分岐点である。この追分に来ると京都を離れる気分になる。

追分村から大谷村、逢坂峠までは、長い谷間道が続く。

現在この山間に名神高速道路、国道1号線、京阪電車がひしめきあって走っている。

元禄4年(1692)東海道を江戸へ向ったケンペルは「追分村」にさしかかり、「400戸ばかりの長い町並みをなしていて、錠前師、工芸品のろくろ師や彫刻師、天秤の文堂を売る職人、針金の製造者などが住んでいる。特に絵師や画商や仏具商などが多い」と記している。

追分村の賑わい「伊勢参宮名所図会」と札の辻の賑わい「近江名所図会」

街道の名物になった大津絵は、寛永年間(1624〜44)に町絵師が素朴な仏画を描いて旅人に売ったのがその始まりとされる。

元禄4年(1691)松尾芭蕉が「大津絵の 筆の初めは 何仏」の句を詠んでいる。「東海道名所図会」にも描かれている。

大津そろばんは江戸初期に片岡庄兵衛が明国からその技術を受け、大津が日本最初のそろばんを製造し、幕府御用達の算盤師に至った。

園城寺に建つ碑

大谷村には、街道の整備を手がけていた豊臣秀吉が天正20年(1592)に一里塚を築いた。

一里塚は三十六町(約4km)を一里として、そこには土を盛り、その上に榎(えのき)を植えて旅人に里程を教え、また休憩の場にした。

大谷村は、追分村と同様、街道筋の両側はみやげ物や家が立ち並んだ。

また、大谷村には旅人に親しまれた「走井」があった。今は「月心寺」の玄関先に保存されている。

東海道を往来する多くの旅人の渇きを潤した。そして走井の水でついた餅「走り井餅」もまた有名であった。

創業は、明和元年(1764)、大津追分の地で走井の名水を用いて、井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まる。

形は、三條小鍛治宗近が走井の名水で名剣を鍛えたという故事にちなみ、刀の荒身を表している。

京阪大谷駅

終日無人化。勾配のきつい駅で、ホーム全体が傾斜している。ベンチは脚の長さが左右で異なっている。

写真

大谷の踏切で旧道は国道1号線と合流する。

京阪電鉄石坂線大谷駅で降りて改札をでると「大谷茶屋」と右方向に進むと「かねよ」の店に出くわす。

両店ともに「うなぎ」を得意とする大きな料理屋でびっくり。

「かねよ」は明治5年(1872)の創業。料理もさることながら、奥深くて広い庭園に惹かれる。

蝉丸神社は目の前にある。

縫い針も、街道土産として人気があった。

「逢坂山この辺の町に針を売る所多し、とらやを良しとす」と書いたのは貝原益軒。

大谷の虎屋針は慶長11年(1606)の創業で、良質の針として知られていました。

ほかには大谷みすや針、追分池川針の大黒屋などの名も見られる。

追分池川針は先祖が奈良の人で、中国から舶来の縫い針が大和に伝来し売り始めた最初、天正4年(1576)創業。

万治2年(1659)伏見の池川から追分に移り、池川針と呼ばれました。

製造高は、幕末に450万本、明治4年に186万3600本とあり店頭売りで、販路拡張と製法改良を怠ったことにより、生産数は減少しました。

明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた博覧会商品見本市には大津針が出品された。

追加資料

大津絵

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