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滋賀県大津市 大津祭り

Otsu matsuri , Otsu city,Shiga

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October 7-8, 2017 大野木康夫 source movie

大津祭の曳山行事(重要無形民俗文化財)

大津祭の曳山行事は、近江大津の総鎮守である天孫神社(四宮大明神)を中心とする例祭で行われる曳山行事である。大津祭は別に四宮祭と呼ばれることもあるが、その曳山行事は、からくり人形を載せた13基の曳山を旧町内より曳き出すもので、市内をはじめ湖南地方一円や京都方面からも多くの参詣客が訪れ、賑わいをみせている。

近江大津は、滋賀県大津市の南西部、琵琶湖の南に位置し、西に比叡山を挟んで京都と隣接する。古くより琵琶湖水運の港(津)として発達し、近世においては東海道の宿場町としてさらなる発展をみせ、大いに繁栄した。大津祭は、こうした水陸両運の要衝の地で発生し、その経済基盤を背景に成立していった都市型の祭礼である。この祭礼のはじまりは定かでないが、当初はその都度、趣向を凝らした練物が中心だったところへ、からくりの仕様や曳山の形式が徐々に取り入れられ、やがて固定化していったとされている。

寛永12年(1635)の「牽山由来覚書」によれば、慶長年間(1596〜1615)に鍛冶屋町の治兵衛なる者が祭りで狸面を被って踊ったのをきっかけに、元和8年(1622)にはそれを腹鼓を打つ狸のからくりとして舁屋台に載せるようになり、寛文12年(1635)にはさらに地車を付して曳屋台としたとあり、この段階ではこれらはまだ練物における舁物、曳物とみるべき簡素な造りのものであったと考えられるが、より今日に近い曳山となったのは寛永15年(1638)のことである。文化10年(1813)にまとめられた『四宮祭礼牽山永代伝記』によると、この年より京都祗園祭の山鉾を参考に三輪車の曳山を造って巡行したとあって、以後安永5年(1776)までの間に、それぞれ町内ごとに順次曳山を誂えていったことが記されている。日程としては、通常9月9・10日であったが、明治の改暦以後、10月9・10日に改められ、平成12年からは10月第二月曜日(体育の日)前の土・日曜日とし、現在に至る。

 行事の運営は、曳山町といって、曳山を所有する旧町内が中心となって行っているが、文化9年(1812)に当番町制度が発足し、文政8年(1825)以降はそれが2町受け持ちとなって、今日でも毎年、当番町・副当番町と称し、2町が実務的な運用面を担うことになっている。これら当番は輪番制であり、副当番町を経験した翌年、主たる当番町を任されるため、2か年続けてということになる。現在では、山を曳かず居祭りを行う町内も含め、これらを包括した形で大津祭保存会が組織され、保存・継承を図っている。町内の内訳は、鍛治屋町・猟師町・玉屋町・太間町・柳町・中京町・上京町・丸屋町・中堀町・湊町・白玉町・南保町・後在家町・下小唐崎町・堅田町・新町・下百石町である。

 祭日は、前日を宵宮、当日を本祭という。本祭の一週間前になると、山建てといって、曳山の組立作業がはじめられ、いよいよ祭り間近となる。宵宮では、町家とも称する各町内ごとにある会所で、からくり人形や懸装品などの宵宮飾りが披露され、飲食に興じつつ夜半に及ぶまで、付設した曳山上で囃子を奏し続ける。本祭では、早朝より準備が進められ、それぞれ町内から出立した曳山一三基がいったん天孫神社に集結する。なかには茶弁当と呼ぶ台車を引き連れる曳山もあって、古風を留める。しばらくしたのち、あらかじめ籤引きによって定められた順に、次々と市街地へと巡行していくが、この際には籤改めといって、籤の確認をする儀式がある。籤は、前月の9月16日に籤取り式と称し、前もって順番を決めておくことになっているが、例外として鍛治屋町の曳山(西行桜狸山)のみ、籤取らずといって、籤は引かずに第一番目と定められている。巡行には所定の経路があり、まずは天孫神社から北に向かい、浜通りまで出ると西に進み、国道161号線に至って南下、そして中町通りを東に進んで中央通りまで出る。その途次では所望といって、所定の箇所でからくり人形の操りや粽(ちまき)撒(ま)きなどがある。所望の箇所は、その年によって若干の増減があるが、約30ヶ所ほどあって見物人で賑わう。こうして昼頃、いったん曳山は中央通りに全基を揃えて休憩に入ったのち、再び同様にして巡行をはじめる。午後からは、中町通りを東に進んで南下し、京町通りまで出ると西に向かい、やはり国道まで至って南下、松屋通りから寺町通りを抜け、終着地点に至ったところで曳き別れと称し、各町内へと帰っていく。この頃はすでに夕暮れ時で、帰着後はそれぞれ直会となって、祭りは終了する。

 大津祭の曳山は、すべての曳山上に異なったからくり人形を備えていること、曳山の形態が二層吹抜屋形の三輪構造となっており古態を留めていること、京都祇園祭に比肩する懸装品を有していること、などがその特色としてあげられる。特に、からくりの仕様は京都に端を発したとされ、のちに中京圏で飛躍的に発展することとなるが、それ以前の京様に近いものとされている。そして、三輪構造の曳山は、二輪から四輪へと展開する中間形態を留めたものと考えられ、曳山形態の変遷を考える上で注目される。また、代表的な懸装品としては、上京町(月宮殿山)と太間町(龍門滝山)の曳山では、16世紀ヨーロッパのブラバン・ブリュッセル製のトロイア陥落図に係るタぺストリーの一部が見送幕として使われており、これは京都祇園祭の白楽天町(白楽天山)の前懸と同じく一片をなすものでもある。

 山・鉾・屋台の出る行事は、日本の各地において地域的な特色をもって伝承されている。大津祭の曳山行事は、祭事記録を書き継いできたこともあって、その歴史的経緯が比較的明瞭であり、また、他の地域ですでに失われた祭礼の様式や形態を今日によく伝えている。特に、曳山の特色として、すべての曳山上に異なったからくり人形を備えていること、曳山の形態が古態を留めた三輪構造となっていること、「京都祇園祭」に比肩する懸装品を有していることなどが指摘できるが、これらは、京都の発生とされるからくり人形の仕様や、曳山そのものの形態的変遷、あるいは舶来品その他による染織技術に与えた影響やその後の進展などを考える上で欠くことのできないものである。

 大津祭の曳山行事は、交通の要衝の地であった近江大津において、京都の影響を受けつつも、独自の祭礼文化を形成し継承してきた祭礼行事で、近世都市祭礼の性格をよく伝えており、我が国の山・鉾・屋台行事の伝播のあり方や変遷を理解する上で重要である。

(国指定文化財等データベースより)

JR大津駅前で配られていたパンフレット

    

宵宮(10月7日 土曜日)

西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)

天孫神社に最も近い鍛治屋町の曳山で、大津祭最初の曳山であるため、本祭の巡行の際はくじ取らずで先頭を巡行します。

からくりは西行法師と桜の精です。

              

湯立山(ゆたてやま)

玉屋町の曳山で、からくりは天孫神社の湯立神事です。

         

神功皇后山(じんぐうこうごうやま)

猟師町の曳山で、からくりは神功皇后が岩に弓で文字を書くものです。

           

猩々山(しょうじょうやま)

南保町の曳山で、からくりは能の「猩々」です。

          

龍門滝山(りゅうもんたきやま)

太間町の曳山で、からくりは鯉の滝登りです。

提灯は「鯉山」となっています。

      

西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)

白玉町の曳山で、からくりは恵比寿様の鯛釣です。

    

殺生石山(せっしょうせきざん)

柳町の曳山で、からくりは能の「殺生石」です。

            

西王母山(せいおうぼざん)

丸屋町の曳山で、からくりは謡曲の「東方朔」です。

ちょうちんは西王母の仙桃にちなんで「桃山」となっています。

           

孔明祈水山(こうめいきすいざん)

中堀町の曳山で、からくりは三国志蜀の諸葛孔明と趙雲です。

            

石橋山(しゃっきょうざん)

湊町の曳山で、からくりは謡曲の「石橋」です。

                

月宮殿山(げっきゅうでんざん)

上京町の曳山で、からくりは謡曲の「月宮殿」です。

            

源氏山(げんじやま)

中京町の曳山で、からくりは紫式部が石山寺で源氏物語を構想しているところです。

              

郭巨山(かっきょやま)

後在家町、下小唐崎町の曳山で、からくりは二十四孝の郭巨です。

                 

本祭(10月8日 日曜日)

午前中に巡行を見に行きました。

JR大津駅前から中央大通を北に向かい、天孫神社前の百石町通の交差点付近で、天孫神社前に集合する拡張の曳山を見ました。

源氏山

       

月宮殿山

     

湯立山

            

石橋山

            

神功皇后山

                        

西宮蛭子山

                     

孔明祈水山

            

天孫神社前に集まる曳山

             

天孫神社鳥居前の所望(しょうもん)場所(からくりを演じる場所)で巡行を見ました。

西行桜狸山

               

猩々山

     

郭巨山

     

西王母山

        

殺生石山

   

浜通の所望場所に場所を変えて巡行を見物しました。曳山からちまきが盛んに投げられます。

西王母山

    

殺生石山

       

龍門滝山

           

源氏山

              

月宮殿山

                     

湯立山

           

石橋山

                

神功皇后山

                

西宮蛭子山

                    

孔明祈水山

                           

好天の中、巡行を堪能しました。

午後は所望も多くなり、盛り上がるのですが、一通り見たので帰りました。


Oct.11,2014 中山辰夫

平成26年度開催の大津祭 現在国の重要文化財の指定に向けて調査が最終段階に来ている。

今年の大津祭は好天下で行われた。「ちまき投げ」や「からくり」を披露しながら、華麗な曳山が大津市中心部を巡行した。突然の雨から懸装品を守るためにビニールで屋根を覆う山もあった。大勢の人が山から放たれるちまきや手ぬぐいに手を延ばして掴み祭を楽しんだ。

大津祭曳山の特徴である「からくり」を中心にまとめた。

    中央通理に集合した曳山13基

        曳山巡行開始

      西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)

        

天孫神社に近接する鍛冶屋町は、大津曳山発祥の地である。今も宵宮に『曳山元祖』として飾られる。からくりを狸の腹鼓から西行桜としている。

からくり

    

古木から桜の精が現れ、枝の先端まで進み、底で舞を舞い、奥の西行と問答を行う。高さ2.5cmの桜の精が廻ったり、立ったり座ったりする仕草が愛くるしい。湯立山(ゆたてやま)

        

途中から孟宗から湯立に替わったとされる。湯立は、湯立神事を表す。天孫神社に湯を捧げる形で、曳山の構造も神社の廻廊を模し、屋根も入母屋型である。

からくり

    

正面中央に巫女が笹葉の束を両手に持って立つ。右には禰宜が、左には鉦をもった飛屋が立つ。禰宜のお祓いの後、巫女が笹を上下して釜の湯をたて、飛屋は鉦を打ちながら左右に首を振る。湯をたてた巫女の手がはげしく上下され、最後に囃子方が湯に見立てた紙吹雪を舞わせ終わる。西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)

        

「宇治橋姫山」として成立するも、西宮蛭子に代わる。恵比寿は商買・漁業の神様として広く信仰される。

からくり

    

夷が鯛を釣るからくりである。曳山中央に恵比須顔の夷が座る。所望がはじまると、波がたち、二匹の鯉が上下に泳ぐ。この動きに合わせて恵比寿の頭が左右に動く。やがて一匹の鯉が釣りあげられ、対面の太郎冠者がタイミングよく、魚籠を捧げると釣り上げた魚がその中にはいる、に月宮殿山(げっきゅうでんざん)

        

王宮新年節会の場面。皇帝が玉座に着き、廷臣が居並ぶ宮殿は金銀珠玉に飾られる。そこに鶴と亀が舞を舞い、千年万年の寿命を御門に捧げると帝も舞う。

からくり

    

曳山中央に皇帝。正面右手が亀の冠を付けた舞人、左手に鶴の舞人が扇を持って立つ。鶴亀は正面で両手を上下させて廻りながら向い合う。優雅さが漂う。石橋山(しゃつきょうざん)

        

謡曲「石橋」に取材したもの。法師が唐天竺に渡り仏跡を巡歴。石橋の傍らで樵夫に出合う。容易に渡れぬと知る。やがて文殊の愛獣の唐獅子があらわれる。

からくり

          

曳山の中央に大岩があり。右手に奉仕が立つ。カラクリが始まると下から唐獅子が現れ、後ろ脚をはねたり、回転したりして、牡丹花に舞尉戯れる。郭巨山(かつきょやま)

        

由来は「二十四孝」の一つ。郭巨は貧しい中母を養っていた。妻が子を産むと老母は大層可愛がった。子はまた出来る、子を埋めて母を養おうと、妻を説得し土を掘ると黄金の壺が出てきた。そこには「天賜孝子郭巨」などの文字がかかれてあり、孝行な郭巨を点が助けた話。

からくり

     

曳山の奥に郭巨が鍬を持って立ち、その前に盛り上がった土。右手に子を抱いた妻。地面を掘ると仲から黄金の窯が出る仕掛け。郭巨や妻の表情がみもの。

殺生石山(せっしょうせきざん)

        

謡曲「殺生」に由来した曳山。玄翁という僧が下野の那須野を通りかかると飛ぶ鳥を落とす巨石があった。そこへ女が現れ石の由来を語る。鳥羽法皇の頃、学芸に優れた玉藻前という美女がいた。が実は狐の化身で、日本に来て帝の命を縮め国を滅ぼそうとしたが、見破られ石となった。

女は自分こそが石塊と語り、夜になると真実の姿を見せるという。玄翁が石を供養すると石は二つに割れ、妖狐が姿を表すが、翁の法力で成仏する。

からくり

   

曳山中央に「殺生石」がある。正面右手に玄翁が座っている。カラクリは、翁が右手に持った法子をサツと動かすと岩が割れ、中から玉藻前が現れる。玉藻前は十二単を着、扇を持って岩の中に坐っている。持っている扇で顔を隠し、下ろすと玉藻前の顔が妖狐に代わる。この繰り返し。孔明祈水山(こうめいきすいやま)

        

孔明祈水は、中国三国時代蜀の丞正、孔明にまつわる伝説である。諸葛亮、字孔明は劉備に三顧の礼をもって迎えられた軍師である。川に臨んだ孔明が、魏との合戦で、押し寄せる大軍を前に、水神に祈った所、大洪水になり、たちまち敵軍は押し流され、大勝利になったという。

からくり

    

曳山中央に、遺車に乗った孔明が座り、右手に羽扇を持つ。正面右に劉備の武将趙雲が鉾を持って立っている。カラクリが始まると波と渦が現れる。趙雲が鉾を下に突くように動かすと、波がくるくると回り、水が湧きあがる様を表現する。孔明はこれを見て大層に喜ぶ。神功皇后山(じんぐうこうごうやま)

        

神功皇后は伝説上野人物。伝説で、身重の体ながら朝鮮半島に渡り帰国後応神天皇を無事出産した話が有名で安産の鴨様として信仰されている。

からくり

    

中央に大岩があり、正面右に甲冑姿で弓を持った神功皇后がたち、左手に武内宿祢が兜を持っている。岩の中から次々と文字が出てくる。文字が架かれるカラクリはここだけである。源氏山(げんじやま)

        

紫式部が石山寺で『源氏物語』を執筆した場面と伝えられる。これに由来した曳山である。

からくり

            

大人形の紫式部が琵琶湖の湖面を眺める風情、右手に筆、左手に巻物を持ち高座に座る。その下に小屋、立木が現れ、岩屋から汐汲みの翁と娘、船尾漕ぐ船頭、牛車の一行が次々と現れ、左から右に消えてゆく。龍門滝山(りゅうもんたきやま)

        

龍門滝は中国の故事に由来する。黄河の上流に魚も登れない程の急流な場所がある。もし鯉がこれを登れば龍となり天に昇るとされ登竜門の言葉が生まれた。

からくり

    

天井に延びる滝を鯉が登ってゆく様を表す。鯉は尾やヒレを動かしつつ登り、滝の上部で翼が左右に拡がり雲の中に消える。金色の鯉が竜と化す瞬間がみもの。西王母山(せいおうぼざん)

        

「西王母」は神話的な仙女。館の武帝が宴を催し、出合った東方朔から西王母の桃を食べると寿命が長遠になったと聞く。その後西王母が現れ、桃の実を帝に奉り、舞を舞って天井に上る。

からくり

          

中央奥に西王母が座り、正面右に東方朔、左に桃の大樹が立ち大きな実がなる。この実が二つに割れ、桃童子が現れ、膝を上下したり、身をひるがえして舞い、最後には桃の中に戻り、桃の実が閉じる。愛らしい仕種である。豬々山(しょうじょうやま)

        

謡曲「豬々」から取材された。夢のお告げで酒を商って豊かになった「高風」なる人が、いくら飲んでも酔わない客がいて名前を聞くと、豬々と答えた。高風は酒を用意して豬々とのみ、唄い舞うった。豬々は高風の人柄を褒め、汲めども尽きない酒壺を授けた。からくり

        

曳山奥に豬々が、正面右に高風が立ち、中央に酒壺が置かれる。カラクリは、高風が手に持った酌で酒を汲み、豬々が左手の持った大杯でそれを受ける。酒が注がれる間、右手に持った扇で顔を仰ぎ、酒が注がれると、豬々はこれを飲み干す。そして杯で顔が隠れ、これを外すと、白かった豬々の顔が真っ赤に変わる。

曳山見物

町中の様子の一部。国登録有形文化財—佐野宅やその他町家から、お互い見つめ見られての見物

           

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