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滋賀県大津市 大津宿 

Otsushuku,Otsu city,Shiga

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中山道第69大津宿(東海道第53)

江戸の日本橋から京の三条大橋までの往き来には二通りの街道が用意されていました。
東海道は53次で全長487.8㎞。太平洋側を通るなだらかな道が多いものの、江戸を守る政治的異図から大きな川に橋は架けられず、富士川、天竜川などは舟での渡り、大井川などは人足による徒歩渡しと決められていました。しかも大雨による川留めも多く、予定が立てづらい街道でした。

他方の中山道は道程534㎞と東海道よりも長いのですが、川越えはほぼなく、難所といえば和田峠や碓氷峠など。あとは小さな峠越えや木曽路など山深い道が続きます。が、ひたすら歩いて行けば予定が立てやすい街道でした。姫君のお輿入れや女性たちが歩くには中山道を選ぶことが多かったため、別名姫街道とも呼ばれていました。

大津宿の一つ前の草津宿で中山道は終了とのことで修了証明書をいただいています。
草津宿を過ぎると私自身が中山道を歩き始めて7年間なじんだ「中山道」の表示は消えて「旧東海道」の表示に変わります。中山道を歩く感覚も消えて、東海道を歩いているという不思議な気持ちになります。

大津宿は奈良時代頃から天智天皇による近江大津宮の遷都があり「古津」または「御津」と称されて栄えます。1500年代の秀吉の時代に大津城が築かれ城下町となりますが、関ケ原の合戦以後は徳川の時代になり、城は膳所(ぜぜ)に移され、街道整備がなされて宿が敷かれるようになって城下町の時代は終わります。その後は幕府の直轄領として京都奉行、所司代、代官所などが置かれます。

大津宿内では東海道が更に伸びて大阪に行く街道がありますし、また北国街道の分岐点も有しているところから、近江商人による物流、琵琶湖舟運が集散する湊、加えて比叡山延暦寺や石山寺、三井寺、日吉大社、建部大社など有力社寺が点在していることもあり、門前町としても多くの参拝者が大津を利用するので、東海道最大の宿として栄えていきます。

江戸時代に入って12年後の徳川二代将軍秀忠のころ、明の時代の中国から長崎にそろばんが伝来して、大津宿追分に住む片岡庄兵衛が長崎でそろばんの使用方法を習い、それを日本流に上玉二つ下玉五つの工夫をして、大津算盤が出来上がります。算盤玉を作る人々も大津追分近辺に寄り集まり、職人たちが多くの技を競い合い、江戸三百年間は大津の算盤が全国の算盤製造を一手に引き受ける勢いでした。

しかし、明治期になって鉄道や国道が算盤業者の密集地帯を通ることになり、一帯は住める状態ではなくなり立ち退きで技術者たちはバラバラになってしまいます(職人の一部が兵庫県小野市に流れ、現在の製造全国一である播州算盤の祖になっています)。

大津宿でのもう一つ特筆は車石です。
別名「車道」「輪通り石」「輪石」「輪型石」などと呼ばれるもので、大津の湊に荷揚げされた物資は牛の引く車によって京に運ばれていきますが、京までは逢坂の関と日ノ峠と二つの山道を登って下って行かなければなりません。当時は土の道で雨が降れば泥道となり車輪が埋まってしまい前進できません。
それなので牛車を動きやすくするために牛車の車輪巾に合わせて左右二列の石を敷き、牛車の通るレールを作ります。
大津から京都の12㎞の間に敷石したのですから、大土木工事であったようです。
現在でも街道の所々にすり減った車石として残り、また撤去したものですと注釈をつけて町中で残っていたりします。
天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると大津宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠71軒、家屋3650軒、宿場の長さは東西16町51間(約1838m)、南北1里19間(約3962m)となっています。


1,粟津中学校~大養寺

草津宿を過ぎてから、大津宿の行かれるところまで行こうという本日の日程です。
大津宿は中山道で京に向かう最終宿ではありますが、一応中山道の最後は草津宿になっていて、その先は「旧東海道」に合流ということで「旧東海道」の標識の中を行くことになります。
「急がば廻れ」の語源になった(詳細は草津宿に)瀨田の唐橋を渡ったところから、大津宿という区切りでまとめていきます。

大津市立粟津中学校を過ぎると『晴嵐』の交差点に。木曽義仲が討ち死にした粟津ヶ原の松原だそうですが近辺には見当たりません。進行方向右手が琵琶湖でそれに添ってしばらく北上しますので、湖の近くかも知れません。
少し行くと道は枡形に。この先何度か道は枡形になっています。城下町として馬で攻め入られたときの力を弱めるための枡形道路です。

一般住宅の前に「膳所城(ゼゼジョウ)勢多口総門跡」と書かれた石碑があります。
秀吉の時代に大津城が作られますが、家康の時代になって城は「膳所(ゼゼ)」に移されて西国の守りとして瀨田の唐橋を監視するために膳所城となり、歴代の譜代大名が城主となります。その城下町である江戸口を示しています。勢多とありますが、瀨田と同じことでしょうか。

枡形を抜けて行くと『若宮神社(旧名:粟津の森八幡)』。
ここには1870(明治3)年に膳所城が廃城になった折に城の犬走り門が移築されています。
江戸時代からの町家も多く見られ街道の雰囲気が伝わってきます。
軒下に『ばったり床几(しょうぎ)』があります。ばったり!と降ろして商品を陳列したり、腰を掛けたりする台で、「揚見世(あげみせ)」または「揚げ店」とも呼ばれるものです。必要に応じて上げ下げされる台で室町時代の文献にも載っています。昭和の時代だったら夕涼みかたがた将棋などもさすのでしょうか。

篠津神社を越えると道は左に枡形にまがります。しばらく行ってまた枡形。今度は右に曲がります。左側に大養寺が見えてきます。門は山門で武家屋敷の長屋門を移築したと説明があります。膳所六門の一つとのこと。このお寺のちょうど反対側の琵琶湖に面したところが膳所城のあったところ。現在は城址公園になっていますが琵琶湖に突き出て「膳所の浮城」と言われたきれいなお城であったそうです。お城があったところなのでこの辺りの住所名は「本丸町」です。

                                               

2,膳所神社

そのまま道を直進して左側に『膳所神社』。
創建は飛鳥時代の677年。天武天皇の時代。その後天智天皇が大津に御所を遷都する際にこの地を御厨と定め大膳職の御厨神として食物の神様である豊受比売命の分霊を勧請したのが始まりです。平安時代にもこの一帯が天皇の食事としての琵琶湖の魚介類を献上する場所に指定されて、社殿は御所に準ずる格式を得ていたといいます。
武将たちの信仰も篤く、豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納した記録が残っているそうです。膳所とはお膳を整える所という意味なのですね。

膳所神社の表門は国指定の重要文化財になっています。折しも満開の桜。小さい門ながら気品があふれています。
構造は本柱間隔3.35m、大扉両開き、向かって左側の脇柱までの間隔1.62m、潜り戸付、後ろの控え柱までの間隔1.95m。妻面は真壁造り白漆喰仕上げ。江戸時代初期の城門建築の遺構として大変貴重な城門です。「明暦元年十一月廿五日」の銘札と「承応四年十一月吉日、明暦元年十一月廿五日」の銘を有しています。
以下説明版。
『この表門は、旧膳所城の2の丸より本丸へ入り口にあった城門で、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。門は、棟筋と扉筋とが同一の垂直面にない薬医門で城門として多く用いられています。屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられ、桃山時代の建築として貴重なものです。脇には潜り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫禄を持っています。大正13年(1924)4月に重要文化財に指定されました。大津市教育委員会』。

膳所神社を過ぎると『和田神社』。本殿は国の指定重要文化財。
どの神社の本殿も透かした板囲いの中にあって、外から拝む事が多いのですが、ここは中に入って間近に見ることが出来るので驚きます。
脇の戸口があけてあるので、厳かな本殿に足を踏み入れて良いものか迷いながら、見学させていただきました。
社殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)。ひわだ葺の屋根は安土・桃山時代に改築。正面に長く突出した丸い造り(唐破風造(からはふう))の向拝(こうはい)(ひさしのようなもの)が特色。建築は鎌倉時代後期と考えられているそうです。
しっかり拝んで退出。
境内に大銀杏があり、樹齢は650年。関ヶ原合戦で敗れて捕らえられた石田三成は、京都に護送される途中にこの大銀杏につながれたという伝説があるそうです(説明版要約)。

                                         

3,石坐神社~義仲寺

道の突き当たりの響忍寺の長屋門は元膳所藩家老の村松屋敷跡。前の大養寺の山門同様に膳所六門の一つとのこと。
ゆるやかな曲がり道や枡形を行くと『石坐神社(いわいじんじゃ)』。
鎌倉時代に作られたとされる狛犬は昭和初期の作。笑い顔がちょっと独特です。本殿狛犬は江戸時代のもの。
昔、干害にあったこの地の人々が雨乞いをしたら、祈りが通じて雨が降り、里人の信仰が深かった神社だそうです。
枡形を行くと角の一般住宅の前に「膳所城北総門跡」の石碑が地面に小さく建っています。西口ですから江戸口との反対側にある京口ということですね。過ぎて『義仲寺』。

1184(元暦元)年、平家討伐の軍を上げた木曽義仲は源頼朝軍勢に追われて近江の粟津ヶ原(現在の石山駅近辺)で討ち死にします。葬られた場所(元義仲寺)には石塚と脇には柿の木が植えられていたそうです。木曽義仲の愛妾である巴御前がここに名を明かさず、名もなき女性として庵(無名庵・むみょうあん)を結んで菩提を弔います。
お寺というほどの大がかりなものでは無く、現在でもこじんまりとした義仲寺です。

木曽義仲に敬愛の念をいだいて芭蕉は、死後は「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言をしたので、大阪で客死したのちに義仲寺にお墓が建てられます。お二人のお墓は仲良く並んであります。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」との句碑は芭蕉の弟子の又玄が詠んだもの。
小さな池の前には芭蕉堂もあり24家仙の絵柄が飾られていて天井絵もあります。

                                            

4,此附近露国皇太子遭難之地~本陣跡

義中寺より石場駅近辺を通りYの字道を右に。現在でも県庁や警察署、大津駅などがある中心地ですが、江戸時代もこの辺りは大津百町として商家が立ち並ぶ中心地でした。現在でも街道筋の景観として町屋や商家が整えられています。

明治時代の建築ですが、登録有形文化財に指定されている『魚忠』の家があります。
当初は呉服商でしたが、現在は料亭。2階建,切妻造,平入,桟瓦葺で,正面1階は格子,2階は虫籠窓を設け,深い軒を腕木と出桁で受けています。軒高が高く,木割の細い繊細な構えは,明治後期の商家の姿を良く留めています(文化庁登録遺産要約)。お隣のすだれ屋さんもお菓子屋さんも趣のある町家です。

家の角に石柱。『此附近露国皇太子遭難之地』と書いてあります。
1819(明治24)年、来日中のロシア国皇太子(後のロシア最後の皇帝ニコライ2世)が警備中の警察官、津田三蔵巡査にサーベルで切りつけられた暗殺未遂事件(大津事件)が起きた近辺です。当時ロシアは大国で日本は近代国家として歩み始めたばかりの小国。この事件によってロシアが攻めてくると当地でも混乱があったそうです。司法的にはロシアを恐れて政府は大逆罪の死刑に持って行こうとしますが、地裁は謀殺未遂罪の無期懲役。結果的に無期徒刑の判決。「司法権の独立」を貫ぬいた、と法のあり方でも注目を引いた場所でもあります。

九品寺を過ぎて交差点を左折して京阪京津線線路を越えると札の辻跡(高札場)、そして大塚本陣跡。これだけの大きな大津宿ですが二軒あった本陣は残念ですがその遺構はありません。当時の建物は三楼(三階建て)で琵琶湖が見渡せたそうです。

                           

5,逢坂山関所~蝉丸神社

東海道本線線路の向こう側に下蝉丸神社。
祭神の蝉丸とは平安初期の歌人で目の見えない琵琶の名手とか。蝉丸がどうして関を守る神社なのかという疑問があり帰宅して調べましたら、そもそもは平安時代の末期より音曲芸道に携わる人々の祖神と仰がれて、蝉丸法師として祀られたもので、一時期は芸能を行う人々はこの神社の免許が必要だった事もあったそうです。その後江戸時代になって1660(万治3)年、現在の神社が建立されたときに、街道筋の安全を守ることから猿田彦命を合祀し、関を守る神社となった様子です。

道はだんだんと上り坂になりこれから逢坂山峠の関所越えとなります。逢坂の名称は山城の国と近江の国とが逢うところなので逢坂の関とのこと。東海道から来た人も中山道から来た人もこの逢坂の関を越えて京に入って行くので交通の要所であった関です。古来の逢坂の関の場所は、先ほど過ぎてきた蝉丸神社の奥にある長安寺の辺りではと推測されていますが、現在ではこの上り坂の上にある『大谷駅』の少し手前の辺りに逢坂の関跡の石碑がおかれています。『これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関』蝉丸法師の有名な句です。
峠から下り坂に。うなぎの『かねよ』の辺りが峠の茶屋があった場所。

                                                     

6,琵琶湖和田の浜

草津宿を過ぎて大津宿の行かれるところまで進んでみようと本日は来ましたが、うなぎの『かねよ』の先は下り坂になると思われ、下って行けば帰路登ってこなければならず……、大谷駅もすぐそこのようですので、本日はここまでにして、琵琶湖を間近に見る道で京阪石場駅に貸し自転車を返して、東京に戻ります。

琵琶湖の冷たい水に足を浸しました。帰路、駅に向かうおじさんと一緒の自転車になり、駅に案内してくださるとのこと。膳所城跡公園を撮りたかったのですが、疲れたことも有りそのまま駅に向かいました。……中山道訪問は60代半ばで始めましたが、もう少し早くはじめればよかったかなぁ、疲れ知らずの時にはじめていたらなぁ、と思いながら自転車を漕ぎました。

            

7,「大谷駅」~月心寺~追分

先回大津宿を訪ねたのは2022年4月12日。本日は二ヶ月後の6月6日。あいにく雨となってしまいましたがホテルも予約済みですので「大谷駅」下車で残りの大津宿を歩いて京の三条大橋に向かいます。

京都からJR東海道本線で一駅先の『山科』まで行き京阪京津線に乗り換えて二つ先の駅「大谷駅」下車。時間にしてわずか20分くらい。駅は傾斜地にあるのでホームの椅子の脚の長さが違う、という面白さがあるそうで、写真を一枚。
雨のお天気はカメラも持つ身としては傘が邪魔ですがしかたありません。

10分ほど歩くと大津算盤の始祖である片岡庄兵衛の家があります。庭に入ることは出来ませんが井戸と江戸時代の地図。雨で濡れて良く読めません。碑の後ろ側には車輪のようなものがありますが、算盤に何か関係があるものなのか牛車の車輪なのか、これもまたよく分りません。
過ぎて月心寺。こちらも入口の戸は開いていましたがその先が閉まっていて、中には入れません。こんこんと湧き出でていた「走井」があったそうで、餅屋でもあったそうです。塀越しに明治天皇がお休みなった場所の記念碑も上部が見えています。

概要でも記しましたが、明治期にこの近辺に鉄道が敷かれて算盤を生業とする人々が立ち退きにあい、大津の算盤は衰退します。そして月心寺の湧き水豊かな池も涸れたのかと想像してしまうくらい、国道に面した寺と算盤の碑は時代の流れに消えていったのだとそれぞれの閉まった門と交通量の多い国道を背に思いました。

広重が描いた東海道五十三次の大津の絵には井筒から吹き出す水、走井餅の茶店が描かれています。餅屋さんは京都石清水八幡宮前に引き継がれて「やわた走井餅老舗」としてあるそうです。湧き出る水を持つ茶屋はその後日本画家の橋本関雪(1883~1945)が別荘としてしばらく使用。没後に単立寺院、月心寺となったようです。
月心寺の脇に道標があります。この辺りが大谷の一里塚とのこと。

前方に見えてきた名神高速道路をくぐって左に。大日如来堂の左側の道を上ってしまったのですが、間違いで、大日如来堂を左に見て交番との間の道を行くべきでした。間違って進んでしまった先に地元のおじいさまがいらして、旧東海道まで案内してもらい追分に出ることが出来ました。感謝です。
追分は馬子が馬を追い分けるところからそう呼ばれています。ここの近江国追分(別名:髭茶屋追分)には現代の道行きも出ていますが右が京都で左が宇治。右は京に行く道ですから『京道』。左は宇治方面で大阪をめざす東海道五十七次の『奈良街道』となります。
江戸時代の町名である『大津百町 髭茶屋町』も出ています。この辺りに髭をはやした老人が茶店を出していたとか……。追分を右にとって京に向かいます。

                                                    

8,閑栖寺(かんせいじ)~徳林庵~地蔵堂

追分道標のすぐ先右側に『閑栖寺(かんせいじ)』。
室町時代創建のお寺で長屋門の上に太鼓の櫓。地域の人々に刻を知らせていた太鼓です。長屋門の前には東海道の道標と轍の跡ですり減った車石が展示されています。境内には大津宿での大事業であった牛が荷を乗せて運ぶための道路整備『車石道路』が再現されています。車輪の幅に合わせて石が敷かれ、牛の歩く真ん中は砂地です。道路全体で見ると右側を牛車が通り左側が一段高くしてあり人馬道となっているそうです。
境内には大津絵の石碑もあります。大津絵は江戸時代の初期から民間で売られる絵で当初は仏画で東海道を旅する人々がお土産に、また道中安全の護符にしていたようです。ちなみに「藤娘……良縁」、「鬼の寒念仏……子供の夜泣き」、「雷公……雷除け」、「外法大黒……無病長寿」、「鷹匠……五穀成就」、「座頭……倒れない」、「瓢箪鯰……水難除け」、「槍持奴……道中安全」、「弁慶……火難除け」、「矢の根男……悪魔退治」などがあるそうです(ウキィペディアより)
義仲寺に眠っている松尾芭蕉も「大津絵の筆のはじめは何佛」と詠んでいます。

ベンガラ塗りの家や地蔵尊を見ながら国道をまたぐ陸橋へ。越えて東海道の矢印どうりに進んでいくと竹内医院に。その向かい側には牛車が米俵を積んで車石の敷かれた坂道を登って行く絵が鮮やかに描かれています。
少し進んで右側から来る道の角に『小関越道標』。三井観音堂小関越とあります。実は旧東海道大津宿本陣跡のあった札の辻から、大体の人が辿り私も越えてきた逢坂関所峠越えの他に、北側の山越えをして行くもう一つ旧東海道『小関越え(本東街道を大関とみて、小関と命名)』の約4㎞の裏道があります。道はもともと中世以前の北国海道といわれた古道の一部分で、三井寺(園城寺)へ至る最短ルートであったことから、旅人ばかりではなく参拝道で利用も多かったそうです。健脚であればもう一つの旧東海道の小関越えも、きっと味わい深いものでは無かったかと想像します。

『旧三条四の宮』の交差点。右側に入ると四宮の駅。右側に見えてくる六角堂は『徳林庵』の地蔵堂で『六角堂山科地蔵』。京の七口に各六体の地蔵を安置して、京に入り込む悪霊を封じるもので秀吉の時代から。
徳林庵は第54代仁明天王の第四ノ宮(近辺の地名の由来にもなっている)親王の末裔が開祖。親王は琵琶の名手であったことから、盲目の琵琶法師の聖地となったそうで、徳林庵には蝉丸法師の供養塔もあります。赤い涎掛けの六地蔵さんが並んでおいででした。

                                                              

9、日ノ岡峠~大乗寺

山科駅前の交差点。旧東海道ではありますが、地元では三条通り。江戸時代にあったという奴茶屋跡。町中にも多くの地蔵堂。都会のビルの並ぶ大きな道を進んでいきます。
1707(宝永4)年に建立された道標『五条別れ道標』、右ハ三条通と書かれた追分を過ぎて、ゆるやか曲がる道なりに行き、東海道本線のガードをくぐり交番を右手に見て、左の道に分岐して進んでいきます。歩道も広く住宅地の道ですが、うっかり歩いていると見落としそうな、電柱の上の方に矢印付きの白い「旧東海道」印。入って行くべき細い道の家の垣根にオレンジ色の矢印付き「旧東海道」の印。日ノ岡峠に向かう道案内です。位置は不明とされていますがこの近辺に一里塚もあったとのこと。日ノ岡峠は京に到着する最後の峠越えです。
だんだん細くなる道をやや上り坂で行くと左側に『亀の水不動』。石段があり曲がって行くと亀の水不動様。赤い旗も出ていてわかりやすいので登ってみましたが、お不動様にたどり着くには、草が生い茂っていてどのように進んで良いのか分らずに引き返しました。もう少し下の民家の脇の方から上る道があるのかもしれません。お堂もあるのですが、正面に行かれません。
亀の水不動は木食正禅上人(木食とは五穀を絶って木の実や草などを食べる修行を得た僧)が、道の改修工事と共に井戸を掘って得た湧き水で、亀の形の石から水をタラタラと流して水鉢に溜めて「量救水」と称し、旅人はそれを汲んで喉を潤したそうです。
どのような経緯か分りませんが、その水鉢は現在は東京の椿山荘に所蔵されているそうです(ネットで調べましたら椿山荘の庭園史跡めぐり第11の場所にありました。水鉢とは言え、しっかりとした石の臼のようなもので「量救水」と刻銘されています。牛車の敷石もあるようです)
亀の水不動をしっかり見るのはあきらめて峠に向かう道に戻ります。フェンスの中に石柱。
一つは「右明見道」と書いてあるようですが、もう一つは読めません
更に登っていくと「大乗寺」。しばらく無住寺で荒れていたそうですが、平成になって酔芙蓉を植えて、それが増えて今では酔芙蓉の寺と云われていると掲示板にあります。
ふりかえれば、かなりの急坂を登ってきたことになります。息が荒れますが中山道最後の峠と思うとなぜか愛おしい気持ちにもなります。
地蔵の洞を二つばかり過ぎて、日ノ岡峠の頂上に出たようです。右側に国道が通り車の流れがかなり多いです。
立て看板の説明によると、先ほどの木食上人が道の改修にかかわり、峠に至るまでの道の泥を低い方にも持ってきて峠に至る道をなだらかにし、牛車が通りやすいように車石を敷き、人馬と牛車を通りやすくしたとあります。

                                                                

10、刑場跡~粟田神社

峠を過ぎると道は下り坂。国道と合流します。合流したところに米俵を積んだ大八車のオブジェ。牛車の車輪の跡でへこんだ車石も展示されています。「九条山」のバス停のすぐ先に『粟田口刑場跡』。ここは粟田峠と呼ばれたところですが、土が掘り下げられて、人や牛車を行きやすくしたと書かれています。
刑場跡とは江戸時代からこの場所は磔、獄門、火あぶりの刑などが行われた場所で、明治2年に最後の処刑があったそうです。その後しばらくの間ですが粟田口解剖所となり、近代医学の発展に寄与した場所となっています。ただ、明治時代に起きた運動『廃仏毀釈』によって、この地に有った多数の供養塔はなくなっていますし、国道が通りさらに改良工事も重なり、昭和の時代になると刑場の跡碑のみになっていった、と立て札に書かれています。今ではただの草むらにしか見えません。

雨が時折降り、カメラを持つ手に傘は余分で、広げたりすぼめたりが面倒くさいです。

刑場跡をすぎると道はどんどん下り坂になります。京都の市内に入ってきて道幅はどんどん広くなっています。反対側の通りにトンネルが見えて『ねじりまんぽ』と書かれた説明版があります。カメラで撮影して拡大すると、南禅寺に続く道が作られたときに掘られたトンネルとのこと。まんぽはトンネルの古語で、ねじったトンネルという意味になるそうです。上部に有る物体にそって(鉄道とか)斜めに掘られて支えられたトンネルのことで明治期に土木技術を物語る貴重な遺物、とあります。

蹴上の交差点。まっすぐに行けば南禅寺。三条大橋は左に曲がります。歩道は3倍の巾にもなり京都市内に入っていく実感です。朝から4時間近くも歩き通しで、膝関節が動かなくなり、急いでポカリスエットを二本買って飲み、ひとまず蹴上げ浄水場の植え込みに座り込みました。
三条大橋は目と鼻の先にあるはず。動けなくなることを想定して一泊予定で来ています。もし今日中に三条大橋に到達できれば明日は南禅寺を訪ねてみようと思っています。

20分ばかり休んでいたらどうにか動くようなので出発です。

佛光寺は親鸞聖人の遺骨を安置してる御廟所があります。

しばらく行くと反対側に『合槌稲荷神社』。普通の家の路地の奥にあります。平安時代の刀鍛冶で三条に住まいがあったため「三条小鍛治宗近(さんじょうこかじむねちか)」とも言われた人で、天皇の勅命を受けて守り刀を打とうとしますが、刀鍛冶を手伝う者がいません。宗近は伏見稲荷に祈願し、ある若者と出会います。その若者が手伝ってくれて見事な刀が完成します。のちにその若者が狐であった事が判明して、刀は【小狐丸】という名で呼ばれるようになった、という伝承です。
伝説の名刀として実在していたと言われてはいますが、現在は所在不明です。三条小鍛治宗近は「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」の作者としても有名です。

ちなみに祇園祭の山鉾巡行にて毎年先頭を飾る鉾の上に取り付けられている大長刀は、宗近が娘の病気の回復を祈願して八坂神社に奉納したもので、鉾先で疫病邪悪を払うということで鉾の先頭を行きます。現在の鉾は竹製で飾られていて本物ではありませんが、由来としてはこの合槌稲荷神社が大いにご縁が有る場所です。
鍛冶の手伝いをした狐を祀ってあるところから“火の用心”の効験があり、また合槌のいきさつは謡曲、歌舞伎、能でも演じられているために、演者が興業の無事を祈って参拝に訪れることもあるそうです。

合槌稲荷大明神の向かい側は『粟田神社』
京に繋がる街道の出口に災いを払うために設けられて場所が七ヶ所あり、『京の七口』と言います。旧三条四宮交差点脇の徳林庵の六角堂山科六地蔵もその一つでしたが、この粟田神社もその一つで『旅立ちの神』とも称されて現在でも旅の安全の祈願のお守りなど買う人も多いそうです。一帯は鍛治町といい、合槌稲荷神社があるように鍛冶職人が多かった町でもあります。

                                          

11、明智光秀首塚~三条大橋

いよいよ三条大橋までの最終章となります。雨は降ったり止んだり、強くなったり弱くなったり、足は痛く引きずっています。西町の地蔵様はお一人。お顔はよく見えませんが拝んで過ぎます。
坂本龍馬とおりょうさんの結婚式跡を示す石碑があります。ここは青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡との注意書きですが、結婚式という言葉が現代過ぎて何だかしっくりこない説明です。
説明板を要約すると、1864(元治元)年8月初旬、寺の本堂で、坂本龍馬とおりようが「内祝言」をします。一般的には1866慶応2年1月の伏見寺田屋遭難のあとに夫婦になったといわれていますが、1906(明治39)年まで生きたおりょうへの聞き取りでこちらの方が正しい、と書かれています。おりようの父は青蓮院宮に仕えた医師で金蔵寺住職が仲人であったそうです。
当時は池田屋事件など京都は物騒な町で二人は別居結婚であったとも。

東山駅そばの白川橋を曲がると明智光秀の首塚があるそうで行ってみます。1582年の山崎の合戦で死んだ明智光秀は粟田口で首をさらされた跡に埋葬された場所です。首塚の経緯を記した2020年8月の東都新聞が壁に貼ってあるので要約します。

明智光秀の首が最初に埋葬されたのは蹴上の交差点付近で、祟りがあるので誰も近づかず草むらの中にしばらくあったそうです。ところが1771年頃突然に白川通り三条付近に住む能楽師である光秀の子孫が発見されて(草むらの首塚を引き取らせるためであった事も想像されると歴史家)、敷地ごと首塚を引き取る形にさせます。塚はしばらく能楽師の家にありましたが、明治期に入ってこの能楽師の子孫は明智姓を名乗るようになり、子孫が守ることになった首塚は祟りがないと言うことになり、一転して首から上の安全を守る信仰の対象になります。
1835年に250回忌の法要も行われますが、その後の1871年からの一時期は京都府政を担う槇村が文明開化の時代に怪しげな迷信は良くないと、一時撤去されてしまいます。10年後に槇村が京都から去ったので現在の地に首塚がおかれます。

京の寺院を焼き払うような信長でしたので、京にとって明智光秀は悲劇の英雄とも言えるのかも知れません。

首塚を過ぎると「東山三条」の交差点。その先にゴールの三条大橋が見えています。小雨でも嬉しいです。橋の手前左側に土下座の形の高山彦九郎正之の碑があります。正式には『皇居望拝の像』です。
地元では土下座の像と言われていますが実は尊皇思想家で群馬県出身の高山彦九郎正之。京都にはたびたびおとずれていたそうですが、そのたびに京都の御所に向かって望拝の形を取ったそうです。
高山彦九郎の見つめる目の先に三条大橋。想像していたよりも質素な橋。それでも私は抱きついてしまいました。本当は垂れ幕花吹雪で祝いたかったのですが、小雨で人通りも多く、心の中でじっくりと中山道踏破をかみしめました。
……せめてイケメンの通行人の青年に橋の横に立つ私を撮影してもらいました。そのあと、高校生の修学旅行の一団のイケメン男子にも一枚撮ってもらいました。
三条大橋の下を流れるのは鴨川、橋を渡った向こう側(西詰め)には『高札場跡』。そして反対側には東海道中膝栗毛のやじさんきたさん像があります。過ぎると三条小橋。その下を流れるのは高瀬川です。

雨なのでそして今日は京都泊まりなので明日になって晴れたらもう一度この三条大橋に写真を撮りにきます。五時間歩いてとにかく足が痛い!熱~~いお風呂に肩まで沈みたい思いでいっぱいです。

                                                                      

12、 お・ま・け!快晴の三条大橋と本能寺

中山道踏破の翌日快晴!心も快晴!もう一度三条大橋に抱きつきにきました。
堪能したあとに本能寺に。
現在は京都市役所の近くにある本能寺ですが、以前は四条通阪急大宮駅の近くにあり、本能寺の変で信長が火の中で自刃したところには「本能寺跡」という石碑が建っているそうです。
本能寺は歴史的にも宗教の問題などでも度重なる焼き討ちに遭っているため、ヒは火に通じるとヒの読みを嫌い、今では使われていませんが「能」は特殊な字の形になっています(ただし、作字されたわけではなく古い時代にはよく使われた字)。本能寺跡地の発掘調査で「能」の特殊文字の瓦が出土しているそうです。
京都市役所の近くに移ってきたのは1591(天正19)年、豊臣秀吉の時代。翌年伽藍が落成。江戸時代に入り朱印地40石を与えられて大寺院になります。しかし天明の大火や蛤御門の変などで度々焼け落ちています。また明治期の廃仏毀釈の影響で再建が遅れますが、最終的には1928年(昭和3)年に七つの塔頭とともに本堂が完成しています。

私はこのあと、ホテルの貸し自転車で『南禅寺』と『真如堂』の紫陽花撮影に行き夕刻に東京に戻りました。

                                                             

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