滋賀県大津市 逢坂 安養寺
Anyoji,Ousaka,Otsu city,Shiga
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July.2011 中山辰夫
大津市逢坂一丁目
浄土真宗本願寺派
本尊:阿弥陀如来坐像(国重要文化財)
関蝉丸神社上社の南、国道1号線と国道161号線の交差点に近い高台にある。
貞観3年(861) 円珍の開基と伝え、初めは天台宗寺門派に属した。のち現宗派に改められ、蓮如の難を救ったとされる。
“身代わり石”の旧跡地として、真宗の人々の信仰を集めている。
本堂、観音堂。茶所、山門などの建物がある。
本尊の阿弥陀如来坐像(行基、作)は国指定重要文化財に指定される。
蓮如が身代わりに彫ったという蓮如上人や蓮如が身を隠したと伝わる石などがある。
阿弥陀如来坐像
国重要文化財
像高:134.1cm、寄木造、内刳り(うちぐり) 彫眼像 漆箔 平安時代後期の作
来迎の印を結ぶ阿弥陀像である。温雅な彫刻でもある。
均整の取れた螺髪(らはつ)を掘り出し、顔の表情は温和で、右肩を脱いだ形の納衣(のうえ)の衣のしわも穏やかに整えている。
本堂に安置されているが、もと関寺にあったとも伝えられる。
聖観音立像
「身代わり名号石」
本殿に安置されている。
寛政6年(1465)、蓮如上人は、真宗布教の拠点であった京都大谷の本願寺を山門の手で焼き討ちされ、大津へ逃れた。
蓮如の一行が、逢坂山を越え、安養寺の辺りまで来た時、追っ手の僧に襲われ、長刀で切りつけられた。なすすべも無く、門前にあった石の後ろに身を隠すと、不思議にも、振り下ろされる長刀にあわせて、右左と傾き、蓮如を守った。後に、蓮如が「無礙光如来 むげこうにょらい」の5文字を自ら刻んだといわれる。
「立聞観音 たちぎきかんのん」
観音堂に安置されている。
蝉丸の奏でる琵琶を立ち聞きしていた僧侶が姿を替えたとされる観音菩薩像
管弦の道を究めた源博雅は毎夜蝉丸の庵で、蝉丸の奏でる琵琶に聞きほれていた。ある夜のこと、博雅は、琵琶を弾く蝉丸の後ろに墨染めの衣を着た僧が立っているのに気づいた。
それからというもの、毎夜その僧は現れ、蝉丸の琵琶に耳をかたむけているのである。
そこである夜、僧の跡をつけていくと、安養寺(逢坂一丁目)の観音堂に姿を消してしまった。
安養寺立聞観音の名は、この故事に由来している。『蓮如上人旧跡安養寺誌』
なお、観音堂は、元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちのとき焼失。
後に、伊達政宗が「有名な立聞観音仮堂安置されているのでは・・」と悲しみ、御堂を建てて扁額を掲げた。
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