滋賀県大津市 西教寺
Saikyoji,Otsu city,Shiga
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西教寺御膳 |
大津市坂本5-13-1 西教寺客殿 重文 近世以前/住宅 桃山 慶長2(1597) 桁行27.1m、梁間15.3m、一重、南面入母屋造、北面切妻造、こけら葺 19020731
大津市坂本5-13-1 西教寺本堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 元文4(1739) "本堂 桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺 裏堂 桁行一間、梁間一間、一重、背面入母屋造、正面本堂に接続、本瓦葺、背面及び両側もこし付、もこし桟瓦葺" 旧こけら板2枚、出面板1枚、旧獅子口1個 19860524
Nov.22,2020 瀧山幸伸
September 5,2020 大野木康夫
source movie
山門付近
拝観受付
参道
禅明坊光秀館
参道
大玄関
本堂(重文)
客殿(重文)
書院庭園
明智一族の墓
大師殿、唐門へ
大師殿
唐門、琵琶湖の眺め
April 20, 2019 野崎順次 source movie
滋賀県大津市坂本5丁目13-1
天台真盛宗総本山
戒光山 西教寺
パンフレットと現地説明板
大本坊と本坊庭園(江戸時代三尊石組枯山水)
渡り廊下を進む。
国重文 客殿 桃山時代 慶長三年(1598)
桁行十二間、梁間八間、?葺入母屋造、北面切妻、大谷吉継の母らの寄進
国登文 客殿通用門 大正
建物外部
内部、狩野派襖絵は撮影禁止。
西教寺客殿庭園
江戸中期 池泉鑑賞式
本庭はこの客殿の裏庭(西庭)となっていて、面積は約百三十坪ほどある。西部の山畔を利用し、上部から数段の小刈込をあしらい、下部に池泉を設けているが、その北部のところが大きく出島となっていて、いかにも江戸中期元文前後の様式を示している。
そして中央南寄りに石橋を架け、池中に三個の岩島を夜泊式に用いてある。全庭の池畔護岸石組も江戸中期らしい手法であり、小刈込も、いかにも江戸中期としての典型的なものである。
なお本庭には石燈籠が二基あるが、中央のものは無銘ながら室町期の作品で、中台以下が室町である。また上部のものは万治の銘があるし、下部手前の石燈籠には
文化二年十月奉造建立石燈籠長谷川立之長運院殿松月居士
銘があって、江戸末期ながら参考になる。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」西教寺客殿庭園より)
国重文 本堂 江戸時代 元文四年(1739)
桁行七間、梁間六間、総欅入母屋造
国登文 書院(大正) と 書院庭園(明治初期)
阿弥陀如来二十五菩薩石像 天正十二年(1584)造立供養
市文 鐘楼 天保二年(1831)
境内の石碑群
明智(妻木)一族供養塔
明智光秀の妻 煕子の墓
明智光秀とその一族の墓、辞世の句碑
聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像その他
下り道、琵琶湖対岸に三上山
国登文 勅使門
国登文 宗祖大師殿 明治
国登文 宗祖大師殿唐門 大正など
西教寺の紅葉
訪問日は11月22日、盛りでした。
参道
参道両脇の宿坊などの塔頭(国登録文化財)付近の紅葉
勅使門付近の紅葉
宗祖大師殿付近の紅葉 琵琶湖はよく見えなかった。
紅葉越しに見る琵琶湖
大師殿付近の紅葉
大師殿水屋(国登録文化財)付近
いよいよ境内に入る。
本堂周辺
鐘楼周辺
紅葉アチコチ
紅葉狩りの西教寺は「菊御膳」が有名
菊御膳は、お料理全部に菊をあしらった精進料理。
坂本では、『菊を食べないと秋を迎えた気にならない』と言われるほど「菊」が松茸や栗より身近な秋の味覚の一つとされている。
西教寺では、40〜50年前から鮮やかな色目と香り・シャキとした触感の(坂本菊)を使った菊御膳をこの時節のみ提供している。
この時期この地でしか味わえない菊料理のフルコース。食前酒からデザートまですべてに菊が顔を出す。
境内の紅葉をめでた後に戴くのも洒落たもの、紅葉狩と併せた秋の行楽を満喫できると宣伝し、集める客人は毎年4000人程にもなるという。
比叡山延暦寺の門前町として栄え多くの寺院をかかえる坂本では、古くから各家の庭や畑の片隅に食用菊を栽培していたようで、芭蕉の句には
堅田で「菊なます」を食した際に詠まれた句も見られ、江戸時代にはすでに栽培されていたことが伺われる。食用菊で有名な東北地方とは違い
関西では、食用菊といえば普通刺身のつまなどに一輪添えるだけだが、坂本では、東北地方と同じように、小菊や中輪の菊をおひたしや酢の物
にして食べる。
坂本の食用菊は、東北地方で栽培されている「阿房宮」や「もってのほか」のように品種の名前はないが、品種はいくつかある。今では栽培する農家
が少なくなったが、9月下旬より花が咲く早生から11月下旬に花が咲く晩生まで、また、花の形も小菊から中輪まで地域によって多々あるとされ
食用菊は主に畑で作るため病気が出やすく、連作を嫌い、最低4〜5年間はあけないと出荷できる花には育たない。
坂本の食用菊は、鮮やかな色、味、季節感、そして花を食べるという華やかさなど、現代にも受け入れられる多くの良い点もあり、歴史ある坂本の町が
育て守らなければならない滋賀の貴重な伝統野菜といえる。
西教寺
所在地 滋賀県大津市坂本5丁目13-1
2011.8.27 撮影 大野木康夫
夏のよく晴れた日、西教寺に行きました。
総門から石段を登っていきますが、参道両側の宿坊や諸堂のほとんどが登録有形文化財です。
宗祖大師殿の南から琵琶湖がよく見えます。
本堂前の水屋も登録有形文化財です。
本堂(重要文化財)
大きな建物で、全景を撮影する場所に工夫が必要です。
水屋の近くがお勧めです。
本堂は無料で参拝できますが、内部撮影は禁止されています。
客殿(重要文化財)
西教寺最古の建築物です。
拝観は、本堂裏の本坊で受け付けています。
May.2011 中山辰夫
西教寺
大津市坂本5丁目
天台真盛宗
京阪坂本駅から生源寺の前を進むと手前の右側に、石の道標が二本建っている。一方には「横川元三大師道」 もう一方には「右盛門本山西教寺道」と筆太に彫ってある。この道標の通り、右に折れてまっすぐ北へ進んで大宮川を渡り直進すると、山裾の傾斜地に西教寺の大きな屋根が見えてくる。少し上り坂が続く。
西教寺は天台真盛宗の総本山。堂々たる風格、境内約10万㎡、総門をくぐると山内寺院が並び、奥に勅使門や国指定の重要文化財である本堂・客殿、書院などの大堂宇が立っている。
宗祖の真盛上人は嘉吉3年(1443)伊勢で生まれ、叡山に20年間こもった後、応仁の乱で苦しむ民衆を救うため、この寺を再興して布教に努めた。
現在も滋賀、福井、三重県下を主に、末寺430、信徒10万といわれている。
ご本尊は阿弥陀如来像「国重要文化財」である。
総門
西教寺と刻まれた石碑が建つ傍の門は総門と呼ばれるだけあって、堂々として風格がある。
瓦にある「大窪山」の号は、聖徳太子から賜った山号とか。西教寺の号は天智天皇より賜ったとか。
この総門は坂本城の一つとされ、城門によく見られる高麗門に近い形式である。正面から左右に袖のように直角に控柱が出て、その上に屋根がある。
門をくぐると一直線の長い参道となり、その先に伽藍が並び建つ。
西教寺は天台真盛派の総本山。西教寺の歴史は古く、約1000年になる。
聖徳太子の創建で、不断念仏の道場として、文明18年(1486)真盛上人が入寺して復興した。再興、不断念仏の道場とした。
しばし盛大を誇っていたが、元亀2年(1571の信長の焼討ちで46に及ぶ殿舎僧房も全滅、廃墟と化した。
坂本城を築いた明智光秀は、西教寺の檀家となって町の再興に乗り出し、本坊・他を寄進し保護し、菩提寺とした。
現在の伽藍は近世のもの。
「資料 大津市教育委員会・他発行」
総門前に建つ碑
参道
総門をくぐると一直線に延びる参道である。塔頭が両側に並ぶ。地方の信者はここに泊まる。
手入れされた桜や楓の木々がシーズンにはトンネルをつくる。各塔頭の庭には静寂な雰囲気が漂う。
参道左側の「禅林坊」を過ぎると石段がある。そこには「宗祖大師殿」が建つ。
参道を突き当たりは「勅使門」である。
勅使門
屋根瓦や丁寧な彫刻も映える。
近辺の景観
いよいよ伽藍の並ぶ境内へ進む。
石段を登ることから始まる。
広い境内と大きな伽藍 本堂からは、「不断念仏」の鉦(かね)の音がたえず聞こえてくる。
国重要文化財を含む伽藍、本坊・書院・本堂・客殿・他が居並ぶ。建屋の中には、彫像・絵画など指定された文化財が22点ある。
境内には開祖真盛上人の御廟をはじめ、明智光秀一族の墓、六地蔵石仏、他が見られる。
日吉から30分ほど離れた距離にあるため境内はいつも静寂で、研修道場や老人ホームなどもあり、俗塵にまみれた近代人の心身を洗うに最もふさわしい寺という寺側の言い分もうなずける。
羅漢さんと説法石
西盛寺ご自慢 "菊御膳“
これより各社殿を個別に巡る。
宗祖大師殿「開山堂」 写真は《宗祖大師殿》
塔頭を拝観しながら暫らく参道を進むと左側に石段が現れる。そこを登ると「宗祖大師殿 開山堂」がある。
開山堂は天正9年(1581)に西教寺九代真知上人の発願で造立された。
宗祖大師殿唐門
国登録文化財:大師殿の正面、東向きに建つ。
木造四脚門・瓦葺・間口4.2m・左右袖塀全長3m・及び築地塀全長3.8m ここから見る琵琶湖は美しい。
一間1戸の四脚門。屋根は檜皮葺で前後軒
組物は三斗組と簡単だが、紅梁上の竜や獅子など多彩な彫刻、彫物欄間、精緻な飾金具など華やかな造形である。
宗祖大師殿 国登録文化財 本堂南の一段低いところに建設された。
入母屋造,桟瓦葺、正面軒唐破風付で、丸柱・舟肘木の軸部・疎垂木・木舞打の軒廻り・擬宝珠高欄付など格式高い
真盛上人像
木造 像高:73.9cm
像は天正9年(1581)に西教寺九代真知上人の発願で造立された。
宗祖大師殿通用門
国登録文化財 大師殿の西側に建つ。
基壇上に建つ一間一戸の平唐門で、両側に折曲がりの築地塀が延びる
屋根は桧皮葺、軒は大疎垂木。簡素なつりであるが規模が大きく、大柄な蟇股が意匠の核になっている。
大師殿水屋
国登録文化財 通用門と対面した位置に建つ。 写真は「水屋・納骨堂。正教蔵
唐門とともに大正期の伽藍整備で建設された。桟瓦葺屋根で宝珠をのせる
大師殿伽藍の景観上欠かせない存在となっている。長押しで固めた6本柱で、6組に汲んだ桁を支える。
六角形平面で円形花型の水盤を覆う。
石段を登ると広い境内が広がる。整備された伽藍が並ぶ。
水屋
国登録文化財 本堂南に建つ。長方形平面で、中央に細長い水盤を置く。
写真は「水屋・納骨堂。正教蔵」を使用
屋根は入母屋造、本瓦葺軸部は角材を建てて、斜材で補強し、三斗を組んで桁を受け、天井は格天井とする。
納骨堂
国登録文化財 本堂の東南に建ち、棟を直交させた動きのある外観となっている。
入母屋造、桟瓦葺の本屋を高くして、周囲に庇を廻す。軒は本屋・庇とも一軒疎垂木・木舞打で軽快につくる。
正教蔵
国登録文化財 本堂の東側にある二階建ての土蔵
切妻造、桟瓦葺で西面には切妻造・起こり屋根の庇を設け蔵前とする。外壁は上部白漆喰、下部縦板張り。
鐘楼
本堂の東に西向いて建つ。 写真は「鐘楼」
三間二間、袴腰付き、入母屋造、本瓦葺で全体として均整の取れた美しい姿の建築。
棟札より天保2年(1831)再建
細部彫刻もすぐれる。前部に優秀な本堂があり、これを建てた棟梁の流派の中で出来たのであろう。
4面に彫られた猿の彫刻が面白い
その他、細部にわたって彫刻、飾金具が施されている。サルについては資料室の展示がある。
大本坊
写真は「本坊」
昭和35年(1960)篤志家の尽力で改築された。約150人が宿泊できる。
本坊は庫裏のこと。当初は、明智光秀から坂本城の陣屋を寄進されてなった。
現建物は昭和33年(1958)に完成した。昭和の木造建築としては県下で最大のもの。
玄関周りの装飾
本坊の縁と各部屋
本坊庭園
客室、書院への廊下
国登録文化財
本堂
国重要文化財 写真は「本堂」
本尊は2.8mの阿弥陀如来坐像(重文) 本堂に安置する。
桁裄七間 梁間六間 一重 入母屋造、本瓦葺 豪壮な建物である。
現本堂は、元文4年(1739)上棟の江戸時代の代表的な本堂建築。
外陣は畳を敷き詰め広い。正面の長押しに飾られた大欄間には豪華な彫刻が、各所に精巧な彫り物が見える(引用)
正面は両脇の間が蔀(しとみ)、その他は桟唐。正面三間の向拝は蟇股をいれ、組物は絵様を彫った出組で装飾彫刻が多い。
本堂全体は各部分に装飾彫刻を多分に用いた傑作仏堂で、優秀な棟梁、彫師の手によって出来上がったといえる。
外陣の迫力ある欄間(引用)
本坊・書院・客殿への連絡路—廊下
国登録文化財
懸魚
入母屋屋根の切妻は何の変哲もない二等辺三角形の壁面に過ぎない。この横顔をいかに美しく飾るか意匠が凝らされた。
西教寺の懸魚破、雄大な建物にふさわしい華麗な三つ花(クローバ形)懸魚である。華やかさと力強さに溢れている。
身代わりの猿
本堂からは今も不断念仏の鐘の音が絶えない。貞盛上人の教えをひたすらまもっていることによる。
本堂の外陣に二体の像が安置されている。東側には十六羅漢の一つ賓頭盧像(びんずるぞう)、西側に猿の常念仏姿の木像がある。撞木(しゅもく)をもって鉦をたたく手白の猿については秘められた物語があるようだ。
叡山では、西教寺を復興した貞盛上人の出現を心良からず思って、明応2年(1493)早朝に僧兵を使って、真盛上人を追い出そうとした。その時、真盛上人は越前に逃げていたが、本堂で「手白の猿」が不断念仏の鉦を叩いていたという。
「手白の猿」の像は今も本堂に置いてあり、不断念仏の鉦の音もしじまを破って境内に響いている。
客殿
国重要文化財 本堂から廊下で繋がって客殿が東向きに建つ。 写真は「客殿」
こけら葺の大きな書院造である。天正17年(1589)の建立
桁裄27.1m、梁間15.3m 一重 伏見城にあった御殿を移したとされる。北面切妻造、?葺。
?葺の屋根の線が美しい。
客殿は、桃山御殿とも呼ばれ、慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなり、その菩提を供養するため、敦賀城主 大谷刑部少輔吉隆の母と、秀吉の家臣山中山城守橘長俊の令室が壇越となり建立したもので、伏見城の遺構を 移築したもの。
優美な建造物であるが、装飾の少ない全体的に簡素なつくりである。
客殿の配置としては、上座の間を最高に、東から北へ並ぶ花鳥・賢人・猿喉(えんこう)・鶴の諸室は上坐に対して次、次の間であろう。
襖や壁、腰障子などには17世紀初期、狩野派により描かれた襖絵が並ぶ。
茶室や展示に使われている部屋
客殿通用門
国登録文化財:客殿の何面を区切る板塀の間に設けられた平唐門。
屋根は桧皮葺、妻に彫物懸魚をつける。簡素な意匠であるが全体の比例が良い。
本堂と客殿の間にある造形
庭園
池泉式刈込庭園
書院 国登録文化財 客殿北側に対面して建てられた。本坊と廊下で繋がっている。写真は「書院」
桁裄十三間、梁間九間、入母屋造、桟瓦葺で、内部は南側4室の表書院と北側6室の裏書院からなる。
伝統的な書院造を踏襲しながら、全体に木太く、端正で力強い造形となっている。
書院庭園
慶長3年(1598)秀吉の桃山旧殿を移したもの。その前庭は50坪程と狭い所だが、生垣、庭門、石橋、石籠などがあって、鑑賞式枯山水の美を見せている。
裏書院庭園
阿弥陀二十五菩薩石像
屋外に設置されていたが、平成16年から書院庭園を望む廊下に奉遷供養されている。県下で最も優れた佳作とされる。
天正12年(1584)作でかなり古いものである。それぞれの手に楽器を持っている。
臨終に当たって阿弥陀仏が、二十五菩薩を従えて音楽を奏し、来迎されるという教説に従ってつくられた。
可憐な表情の中に肉親との断ち切れぬ思いがある。
石造は中世まで少なかった。乾漆像や木彫像が主流。貴族にとって仏像は自分たちにとって密やかに祀っておくものとされた。中世以降庶民信仰の隆盛とともに、身の廻りの石材を使って自ら仏を刻み、大量の石仏が作られた。
観瀾亭(かんらんてい)
国重要文化財:伽藍の西側、重文の客殿と新書院の間の背後に建つ。
南側入母屋造・北側寄棟構造で桟瓦葺、平屋建、2室。
内外とも朱の砂壁で、波をあしらった板欄間など数奇屋風の瀟洒な建築である。
客殿庭園を臨む
本堂横の石段を約90段登る。 写真は「御廟」
真盛上人御廟
国登録文化財:天保13年(1842)建立 伽藍の南西、本堂の西の高台にある。写真は「御廟」
四半敷の基壇に建ち、平面は桁裄一間・梁間二間、方形で正面に向拝を設ける。
屋根は宝形造で、軒は二間繁垂木、組物が二手先で先端に絵様をつけた尾垂木を組む。
蟇股や手狭など彫刻が豊か。
御廟の左手の山肌には墓石がたくさんならんでいる。延暦寺と異なる浄土教の寺と分かる。
高台にあるため見晴らしが素晴しい。三上山も正面に見える。
石段を登る途中に無名の五輪塔がある。
明智光秀と西教寺 写真あり
本堂に奉安されている御木像と光秀寄進の坂本城陣鐘。
光秀の墓
明智一族の墓近くに立つ芭蕉の句碑 「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」 写真あり
文化財の紹介(一部) 写真は「文化財」
国重要文化財を含む鎌倉時代の彫像・絵画など指定された文化財が22点ある。いずれも見るべきものばかりである。
代表的なものを列挙する。
木造阿弥陀如来坐像 国重要文化財本尊 本堂中央に安置されている。
像高:278.8cm 丈六の巨像で寄木内刳り、漆箔、彫眼、納衣を身に付け定印を結び、結跏趺坐する
木造薬師如来坐像 国重要文化財 客殿内の仏殿に安置され秘仏、年に一度、節分の日にだけ開扉される。
像高:8.5cm 寄木内刳り、漆箔、彫眼の像で、納衣を身に付け右足を外にして結跏趺坐する
聖観音立像 国重要文化財 本堂後陣、位牌安置所に祀られる。
像高:168.3cm 一木内刳り、漆箔像であるが箔は剥落している。洗練されたのびやかさを感じる。
木造薬師如来立像 本堂左方脇壇のうえに安置されている。
像高:160.7cm 一木内刳り、漆箔像 背板がはめられている。
阿弥陀如来像 国重要文化財 絹本著色 画面いっぱいに踏割蓮坐に立つ阿弥陀独尊像を真正面にむきにあらわしている。
縦212.0cm、横80.0cm
阿弥陀如来像 国重要文化財 絹本著色 寺で「迅雲弥陀如来」と呼ばれる画像で、正しくは「阿弥陀二十五菩薩来迎図。
縦98.5cm、横47.3cm
釈迦如来像 国重要文化財 絹本著色 寺では「持蜂釈迦如来」と呼ぶ。立像の釈迦が鉄鉢を捧げて、少し前鏡で前方に歩む姿を描く。
縦110.6cm、横49.5cm
山王諸神像 国重要文化財 絹本著色 延暦寺の護法神である日吉大社の諸神をえがいたもの。礼拝画像の一種。
縦133.0cm、横40.4cm
熊野曼荼羅図 県指定文化財 絹本著色 熊野三山十二所権現を描いた熊野本地仏曼荼羅である。
縦83.0cm、横42.0cm
後土御門天皇宸翰真盛上人号 国重要文化財
縦93.2cm、横30.6cm
真盛上人の自戒の法語と名号を記した宸翰である。真盛上人に帰依した後土御門天皇が大書されたもの。
「無欲清浄」「専勤念仏」を主唱し、室町時代の宗教界に新風を吹き込んだ真盛上人と宮中の関係を示す資料。
扇面古写経 国重要文化財 紙本著色 扇面の美しい料紙に彩色の風俗画を下絵にして法華経の経文を書写している。
辺25.0cm、上弦49.4cm、下弦18.9cm
石灯籠 国重要文化財 客殿背後の庭に建つ。
基礎・竿石・中台・火袋・笠・請花・宝珠とすべての形が整った鎌倉時代の様式を持つ優品である。
六角形の基礎石側面の格挟間には、三茎蓮と開花蓮とが交互に掘り出されている。
銅造鰐口国重要文化財 本来寺院の本堂などの軒下に吊るされる金属性楽器の一種。その表面を参拝者が太紐で打ち鳴らすもの。
面経49.0cm 文永10年(1739)に製作されたもので、滋賀県では一番古い。大型の鰐口である。
梵鐘 国重要文化財本堂の東側に江戸時代建立の均整の取れた袴腰付鐘楼があり、その中に納められた鋳銅製の梵鐘
総高:115.5cm、口径73.5cm 明智光秀の坂本城の陣鐘といわれる。
石造六地蔵立像
本堂前広場から広大な面積をもつ西教寺墓地への入口にある。六体の地蔵菩薩が左右三体に分けて安置されている。
保存良好で形態も整っている。石造阿弥陀如来二十五菩薩群像と同様に、青みかかった笏谷石で作られている。
明智一族の墓
墓は苔むして詣でる人も少なくなったようだが、信長から秀吉の時代に移したポイントの明智光秀を偲ぶ。
光秀が坂本城主であった頃に西教寺に帰依したことからここに墓があるのだろう。
西教寺塔頭 写真は「塔頭」
西教寺の参道の両側に並び建つ。
宿坊は本堂再建時に参道筋に移った。この時は10坊あって5坊ずつ並んでいたが、現在は6坊である。
各宿坊の創建年代は未詳であるが、恐らく天正〜文禄期とされる。
各房はそれぞれの県の参拝者の宿泊所となるが、普段は静寂な中にある。
禅明坊(ぜんみょうぼう)
参道右側の東端にあって、参道らしい連続性を保っている。
門が国登録文化財 建築:明治初期 構造:木造、瓦葺、間口2.7m 基準:国土の歴史的景観に寄与している。
1間1戸高麗門の形式で,親柱を上部に延ばして直接棟木を受け,軒は疎垂木,屋根は桟瓦葺とする。
親柱を結ぶ内法虹梁と木鼻に施した絵様や,親柱足元の八艘飾などが,意匠の見所となっている。
禅智坊(ぜんちぼう)
禅明寺の向かいに建つ。
徳乗坊(とくじょうぼう)
参道の右側,實成坊と禅明坊の間にあって、参道空間に欠かせない存在。
形式は一間一戸の薬医門であるが,軒は疎垂木・木舞打で,起りのある桟瓦葺の屋根を架け,冠木を丸太状の材とするなど,数寄屋風の意匠が取り込まれており,近代和風の造形と思われる。
聞證坊(もんしょうぼう)
実成坊(じつじょうぼう)
門は国登録文化財 建築:江戸時代 構造:木造、瓦葺、間口2.3m 基準:国土の歴史的景観に寄与している。
一間一戸の薬医門で、軒が疎垂木、屋根が桟瓦葺。組物は簡素な絵様肘木であるが、妻の紅梁・大瓶束架構を見所とする。
禅林坊(ぜんりんぼう)
門は国登録文化財 建築:江戸末期 構造:木造、瓦葺、間口2.3m 基準:国土の歴史的景観に寄与している。
一間一戸の薬医門で、軒は疎垂木、屋根は桟瓦葺、妻飾は蟇股とする。木鼻や蟇股などの絵様細部に江戸末期らしい造形がある。
参考資料《国文化財データーベース、大津の歴史、西教寺、滋賀県の地名、ほか》
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