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滋賀県大津市 坂本城跡

Sakamoto castle,Otsu city,Shiga

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坂本・下阪本全体を含めて評価した
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June 2011 中山辰夫

大津市下阪本三丁目

坂本城は、元亀2年(15719明智光秀が築城した。

城主明智光秀に織田信長から命じられたものは、琵琶湖の湖上交通・交易の確保と下阪本と比叡山延暦寺とのつながりを断ち切ることだった。

琵琶湖の交易は琵琶湖→坂本→志賀越・山中越(今道越)→京都白川で、坂本の三港は三津(御津)-今津、志津、戸津であった。

坂本城は初めての瓦葺で、天主をもつ水城であった。

天正10年(1583)、本能寺の変後焼け落ち、丹羽長秀により再建されたが、天正14年(1587)、廃城となり、大津城に移転。

大阪城・伏見城築城に伴い、交易は、琵琶湖→浜大津→逢坂越→京都・大阪へのルートに移って行った。

下阪本概略図

坂本城の石碑は二ケ所に見られる。

坂本城址−その1

下阪本三丁目

東南寺から西へ50mほどの住宅地に立つ石碑。写真奥の突き当たりに見える寺院が東南寺である。

住宅地の中に石碑のみが建っている。当時、このあたりは二の丸だったという。

坂本城址碑−その二

国道161号と「北大津湖岸緑地公園」の境に石碑が建つ。

明智光秀像 

下阪本三丁目

平成7年、公園内に「ふるさと創生事業」で建立された。この像の北側に明智光秀が築城した坂本城本丸があった。

業績碑

明智光秀の命日の6月14日には西教寺で法要が行われる。地元の復興に尽力したとして今も多数の人が参加する。

坂本城

東南寺川河口の三角州に位置し、琵琶湖に突き出した水城と推定される。

宣教師ルイス・フロイスは「日本史」の中で、明智光秀を「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主」と評し『かの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。』

光秀が精魂傾けて造った城であった。天正10年(1582)坂本城での茶会のあと安土に向った津田宗及は『御座船ヲ城ノ内ヨリ乗り候テ、安土ヘ参リ申シ候』と記し、当城と安土城は水路で結ばれていた。

坂本城湖中石垣

下阪本三丁目

城郭部分の大半は下阪本に重なると推定され、昭和54年(1979)以降、発掘調査が継続的に行われつつある。

その成果として、琵琶湖の渇水時期に城の遺構の石垣を見ることができ、戦国時代の面影を彷彿とさせるものがある。

本丸の石垣 天主の位置は不明である。

 

発掘調査で五期に及ぶ遺構と二層の焼土が確認されている。

五期の遺構は、①坂本城築城以前の遺構(焼失)②明智光秀時代の遺構③羽柴秀吉時代の遺構 ④一部改築時の遺構⑤廃城後の遺構である。光秀および秀吉時代を中心に多くの遺構が存在する。

明智塚

下阪本三丁目

別名タカタカ山といい、坂本城で戦死した将兵を祀る。

光秀の墓所ともいわれる。光秀の刀である名刀郷義弘の脇差し埋葬の伝承あり。

6月15日地主の手でひっそりと法要が行われる。そのときに光秀愛用の甲冑が展示される。個人の所有地である。

棄城後の下阪本

湖南の要地として大津が浮上したことと、秀吉が山門に対し監視から保護へと政策を変更した。

下阪本の地は、浅野長政の所領として維持しつつも、大津城への移転に伴って、城下の町民も大津へ移ったとされ、城下町の坂本は農村へと変貌していった。

坂本城関連の資料

坂本城跡公園 

下阪本三丁目

正式名は「北大津湖岸緑地公園」。

東南寺川と信教寺川の間にある。坂本城の南限は信教寺川とされるため、坂本城の最南部といえる。

公園の南側にはヨットハーバーもあり、ヨットが行き交う。

行願塔 

下阪本三丁目

公園の光秀像にむかって右側、家屋の隣の湖辺に建つ。

比叡山無道寺の北嶺回峰行者であった正井観順師が大正2年(1913)、出身地青森で起きた船の事故で亡くなった人や水難者の霊を慰める為に建てたといわれる塔です。(参考:下阪本学区まちづくり推進協議会設置看板)

今も四季を通じて琵琶湖を行き交う船を見守っている。

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