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滋賀県大津市 関蝉丸神社

Sekisemimarujinja ,Otsu city,Shiga

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July.2011 中山辰夫

 

関蝉丸神社上社 旧称関大明神蝉丸宮

大津市逢坂一丁目

祭神:猿田彦命 蝉丸

逢坂山関跡から国道1号線の歩道を歩く。国道はうねうねして、カーブが多い。車の量も多い。車であれば瞬間に過ぎてしまう距離である。歩道の山側の擁壁には大津名物が一定間隔に描かれていた。車の運転中に気付くだろうか?

関蝉丸神社は、上下社をもって一社とする。

上社は、下社から約300mは離れて建ち、逢坂峠近くの旧片原町(逢坂町一丁目)の高い石段の上に社殿がある。

祭神は、上社が猿田彦命に琵琶の名手の蝉丸霊を合祀する。

東海道、東山道が通る逢坂峠の関の鎮守・道祖神として、往来する人々の安全を守る道祖神的性格を持っていた。

琵琶の名手蝉丸が合祀されたことにより、音曲芸道の祖神として信仰を集めるにもなった。

神社は国道1号線に面してある。横断して、拝殿まで約60段のかなり勾配のある石段をのぼる。

拝殿は、入母屋造 間口二間二尺 奥行二間二尺

幣殿・本殿まで約25段の石段を登る。

幣殿の彫刻がすばらしい

本殿、一間社流造正面千鳥破風唐破風付 間口一間二尺 奥行一間三尺 よく見えない。

東海名所図会より引用

和琴

文政9年(1826)京都の公卿・平松家から和琴一張が寄進された。これは、平松時門が禁裏から拝領したものといわれ、以後、上社の社宝とされた。上社が、公家の間でも音曲芸道の神として信仰されていたことが分かる。

大和琴 、神楽などに用いる日本古来の六弦琴。この和琴は、かつては5月の例祭の神幸列に加わっていたという。

五代横綱・小野川喜三郎

関蝉丸神社のある逢坂一丁目は、旧上・下片原町であった。

五代横綱小野川関は、本名河村喜三郎で、安永8年(1779)江戸へ出て、八場所土つかずの谷風梶之助をやぶり、

蜀山人の「谷風は負けた負けたと小野川やかつをよりねの言いとり沙汰」の狂歌で評判となった。

幕内成績144勝13負の成績で、寛政元年(1789)谷風とともに横綱土俵入りの免許を受けている。

関蝉丸神社下社 「旧称:関清水大明神蝉丸宮」

大津市逢坂一丁目

祭神:(主神)豊玉姫命、 (合祀)蝉丸

旧東海道逢坂峠の登り口には2つの関蝉丸神社がある。 

1つは旧関清水町にある関蝉丸神社下社、もう1つは峠近くの旧上片原町にある関蝉丸神社上社である。

峠西側には蝉丸神社(大谷町)があり、蝉丸の名称を持つ神社が3つ鎮座している。

旧逢坂山トンネルに立ち寄った後、少し歩く。上社からは300mほどの距離である。京阪電鉄上栄町からは400mほどに距離にある。

国道1号線に出て、国道161号線に入り、右折して山手に向い京阪電鉄の線路を渡った所にある。 鳥居の前は踏み切り。

境内の入口のところに「関蝉丸神社」と「音曲芸道祖神」の石碑と石燈が並ぶ。

祭神は逢坂山の守護神で、旅人の安全をつかさどる。

琴の名手・「蝉丸」が合祀されたことで、平家物語、謡曲「蝉丸」などにもその名が見え、音曲芸道の祖神として信仰を集めることとなった。

境内には紀貫之の歌で有名な「関の清水」や国重要文化財の「石灯籠」、「小町塚」がある。

由緒

社伝によれば、弘仁13年(822)、小野朝臣峯守が逢坂山の坂の守護神として山上・山下の創祀し、貞観17年(875)に官社になったという。

逢坂峠は、東海道や東山道など主要街道が通る平安京の東の入口にあたり、都を守る逢坂関がおかれていた。

関蝉丸神社は関の鎮守、また道中の安全を守る道祖神として創建された。この両社に天慶9年(946)、琵琶法師の祖蝉丸が合祀された。

蝉丸は盲目の琵琶の名手で伝説が多い。蝉丸の合祀あやかり、両社は音曲芸能の神として芸能に携わる人々の信仰を得た。

江戸時代には、諸国の説教芸人「音曲・舞踊・曲芸などの雑芸人」に免状を与え、同社の縁起を説く者として各地での興行権を保証した。

境内に入るとすぐ右側に歌碑がある。紀貫之の歌である。

「あふさかの 関のし水に影見えて 今やひくらん もち月のこま」

蝉丸の歌碑

これやこの ゆくもかえるも 別れては しるもしらぬも あふ坂の関

その先に「関の清水」の石組がある。歌枕として知られる。今は水が枯れている。

「古今集」(君が世に あふさか山のいはし水 こがくれたりと 思ひけるかも)壬生忠岑 など多くの歌に詠まれている。

その先は社殿が並ぶ。

拝殿と狛犬 拝殿は入母屋造 間口二間三尺 奥行二間三尺

幣殿・本殿 本殿は一間社流造 間口一間三尺 奥行二間

本殿を囲む廻廊

手水舎

境内社「貴船神社」

時雨燈籠

国重要文化財 鎌倉時代

六角形 基礎は単弁と蓮華座が彫られている

竿の中ほどにある蓮華と珠紋帯

中台には花入単弁の蓮華

火袋は簡素で、火口1ケ所と小さな窓

壁面は上部にだけ連子を彫る

六角形の笠は薄く、蕨「わらび」手がよく古式を留めている。宝珠と請花は後補である

小町塚

”逢坂の流れは清し 初桜 蝉丸の学びの宮ぞ 春の風””

”平安時代の歌人で六歌仙のひとりである小野小町の塚といわれている。

平安時代の美貌の歌人で知られるが、その生涯は謎が多く、さまざまな伝説が残る。その中には、小町が晩年逢坂山の関寺の近くに隠れ住んだという伝え画あり、「鸚鵡小町」や「関寺小町」に語られる。

下社の裏手には、小町塚がひっそりたち、石面に刻まれた「はなのいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしに」

の歌が老女になった小町の姿をいまにつたえる。

東海道名所図会の小野小町

「都路に出でて物を乞ふ。乞ひ得ぬ時は涙の関寺へ帰る」という悲しい姿に描かれている。

蝉丸

蝉丸は天暦5年(951)の勅撰和歌集『後撰集』にみえる、

 これやこの ゆくもかえるも 別れてはしるもしらぬも あふ(逢)坂の関

の作者としても知られるが、生没年・出自等は不詳である。

この蝉丸と関明神が同一視された結果、関蝉丸明神社は「音曲諸芸道の祖神」としてあがめられることになった。

中性・近世を通じて同社の高名は広がり、芸道を志すものは必ず参詣したという。

【謡曲『蝉丸』】

延喜帝(えんぎてい)の皇子であった蝉丸は、幼少の頃から盲目で、逢坂山に捨てられました。

一方、蝉丸の姉である逆髪(さかがみ)も前世の業が深く、狂女となり徘徊していた。

逢坂山で孤独の身を琵琶を弾じて慰めていた蝉丸は、偶然琵琶の音を聞いてやってきた逆髪と再会。

お互いの運命を嘆き合いつつも、逆髪は心を残しながら別れていく。

 

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