滋賀県大津市 下坂本
Shimosakamoto,Otsu city,Shiga
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下坂本全体を評価。聖衆来迎寺・酒井神社・両社神社・東南寺が中心 |
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June 2011 中山辰夫
下阪本の寺院と景観
下阪本一丁目〜比叡辻二丁目、一部苗鹿地区含む 『聖衆来迎寺と酒井神社・両社神社・東南寺は除く』
この地区の寺院は、旧北国海道沿いに並んでいる。この通りには古い民家も残り、かつての風情が感じられる。
唐崎神社から国道161号線を進むと四ツ谷の交差点で、ここで161号線と旧北国海道に分岐する。
四ツ谷町に入るとみこしの松が並び、ここが古くから栄えていたことが分かる。
志津若宮神社と志津ケ池
下阪本一丁目
国道161号線の四ツ谷交差点を過ぎた左側に、小さな祠が祀ってあって、水溜りが設けてある。
志津雄の池と志津女(め)の池の跡であろう。その昔、神託で志津女の池のそばに社を建て、両池の男女二柱の水神を祀ったという志津若神社の開創伝承が残る。明智光秀が茶会用の水を汲み上げた伝もある。
志津若宮寺院
祭神:大山昨神(おおやまくいのかみ)と菊理姫神(きくりひめのかみ) 日吉大社の社外百八社の一つ。
創建は弘仁7年(816)に陰陽(おんみよう)の神を歓請したことに始まるともまた、近隣の志津男之池、志津女之池という池からそれぞれ現れた二柱の神を祀ったことにはじまるともいわれる。
正法寺
下阪本一丁目 天台真盛派 西教寺の末寺 伝教大師の開基と伝える
長善寺
下阪本一丁目 真宗大谷派 蓮如法王の道場に使われた
立専寺(りゅうせんじ)
下阪本三丁目 真宗大谷派
順昭寺
下阪本三丁目 浄土真宗本願寺派 石州の浪士証安が開基
東南寺
下阪本三丁目
蓮聖寺
下阪本三丁目 「田中の高祖さん」として有名な日蓮宗の寺院 門前に由緒ある石灯籠がある
慶長10年(1605)、下阪本村の豪農松田宗也という者が、田の中で読経の声がするのを聞き、掘起したところ法華宗『日蓮宗』の開祖、日蓮上人の木造が見つかった。実はこの地は比叡山修学中の日蓮の里坊の旧跡で、弘安10年(1287)高弟華光院日卿(にっけい)が日蓮自作の御影像を安置して一寺を建立した。それが、元亀の兵乱で焼失し、高祖日蓮の像も土中に埋もれていたという。さて、尊像は掘り出されたが、三日三晩「イノオ、イノオ(帰ろう」といい続けたので、松田氏に返され、松田氏は田一反を寄進し、僧日禅を迎えて、一寺を再建した。これが蓮聖寺で、出土地は後、井戸となり、霊験あらたかな霊水として珍重された。
蓮瑞寺
下阪本三丁目 真宗大谷派 園教が開基 天台宗浄願寺が元号
酒井神社・両社神社
下阪本三丁目
幸神神社(さいのみや)
下阪本三丁目 祭神:天照大神 一間社流造
幸神の「さい」は「境」や「塞」に通じ、境内の北側を藤ノ木川が流れる集落のはずれに位置していることからも、禍が集落に入るのを防ぐ神であったとされる。
鳥居の両側にある二基の石燈は、江戸時代の鉱物学者・奇石収集家で有名な木内石亭の寄進による。(文化2年(1805))
写真24〜26
下阪本四丁目 坂本の街角では至るところで地蔵堂を見かける。
信長による焼き討ちの時や、神仏分離の際に日吉神社から流出したものとされる。
西光寺
下阪本四丁目 天台真盛派 西教寺末寺 本尊阿弥陀如来像は恵心僧都作と伝える
誓了寺
下阪本四丁目 浄土真宗本願寺派 坂本念仏総道場の開基の寺
真光寺
下阪本四丁目 聖衆来迎寺の末寺 霊験あらたかな日本三体アヤメ地蔵尊の一つが祀られている。
木造地蔵菩薩半跏像
国重要文化財
木造、彩色、玉眼、像高:49.1cm、彩色像
左手には宝珠をささげて、左足を踏み下げている。右手は錫杖をもつ。鎌倉時代以降は錫杖を持つのが普通となった。
これは地蔵菩薩が六道の辻を徘徊して往生者を済度(救済)することに由来している。
妙典千部供養塔
専念寺
下阪本四丁目 真宗木辺派 慈養が開基
厳島神社(いつくしま)
下阪本五丁目祭神:市杵島姫命
境内にある弁財天は伝教大師の作と伝えられ竹生島(既報)から勧請された近江三弁天の一つである。
イチョウと地蔵堂
幹周り3m以上、高さ20m以上、樹齢約300年のイチョウの木がある。この木は、昭和52年に大津市指定の保護樹木に指定された。
磯成神社(いそなりじんじゃ)
下阪本六丁目 本尊:磯成大神 一間社流造
この社の周辺は富崎(とがさき)と呼ばれ、中世には馬借・車借が集住する地でもあった。新唐松は近隣である。
新唐待松は近隣で、唐崎の松の種子から芽吹いた松が枝を伸ばし、磯成神社のお旅所の霊松として崇敬されている。
新唐崎公園
下阪本六丁目
風光明媚な公園で、市民の安らぎの場所となっている。夏には水浴場として賑わう。
石碑にある名勝の松は見当たらない。数本の松が湖辺近くにある。
新たな松が地元自治会の手で、4〜5年前に植えられた新しい松が育ちつつある。根もまだ細い。これからが楽しみだ。
芭蕉の句碑
平成3年ふるさと創生事業で建立された。俳句は「海晴れて 比叡降り残す 五月かな」
1688年の夏に芭蕉は琵琶湖の岸辺を訪れ作った。
「海」は琵琶湖、後方に比叡山が見え、雨上がりの湖と山の雄大な様子が詠まれている。
観福寺(かんぷくじ)
下阪本六丁目 天台宗 無漏堂とも呼ばれていた。市殿神社の妙徳婦人ゆかりの寺
坂本六体地蔵の一体・比叡辻地蔵を祀る。
比叡辻地蔵尊
下阪本六丁目 元来、北国海道の街道沿いにあったものを観福寺の境内に移した。
地蔵尊は、信長の比叡山焼討ちの際、胴体に損傷を受けた。
この地域は北国海道の辻にあたり旅の安全を守る地蔵尊としてあがめられる。
坂本六体地蔵
坂本・下阪本・唐崎・雄琴の各地区に点在する六体の地蔵は、すべて最澄の作で、その後円仁が人々に得を授けるため六カ所に分けたといわれる。日吉大社鳥居前の早尾地蔵は、西教寺の僧・真盛にうまれかわったという伝えがあるなど、
六地蔵の各々に伝説や功徳がある。
早尾地蔵・阿波羅屋地蔵(あばらや)・苗鹿地蔵(のうか)・比叡辻地蔵穴太地蔵(あのう)・明長地蔵(あきら)
若宮神社
下阪本六丁目 祭神:大山祗神 菊理姫神 一間社流造
足利氏、織田氏の兵燹に罹り社殿を焼失したが天正年間に浅野長政が再興した。
近くに「還御場」と呼ばれる日吉七社の船着場がある。毎年4月に行われる山王祭では、7本柳を出発し、唐崎までの船渡御を終えた神輿が、若宮神社を下船場とし、ここから大宮の神輿は真直ぐに日吉大社へ戻る。
天正15年(1587)銘が刻まれた太鼓を所蔵している。山王祭の船渡御で使われたもの。
阿波羅屋(あばらや)地蔵尊
下阪本七丁目 坂本平和堂のすぐ近くに立つ。
九条の地にあたり、「あばらや」という名は、大日如来の真言のうち「あらはしやな」からきたという。その語義は、仏が人々の 親しみやすい姿に変身して幸せをもたらすという意味である。
花崗岩に浮き彫りしたもので、像高約1・3m、両手で蓮華を持った姿である。
経文の一説から名づけられたこの地蔵は、体の下半身の病に霊験がありまた、子どもの夜泣きやカンの虫、夜尿症を取除く地蔵として名高い。
尊勝庵(そんしょうあん)
比叡辻一丁目 天台宗 本尊:地蔵菩薩像
別名千体地蔵尊といい、聖衆来迎寺の末寺で慈眼大師(天海)が寛永14年(1637)早創という。
大崎神社
比叡辻一丁目
祭神:祝部茂正 一間社流造
大宮川河口付近にある。大崎・供所・磯成は、いずれも日吉社社家の祖霊を祭神としていた。これは、以前このあたりの富崎(とがさき 下坂本6丁目)から和田(比叡辻1丁目)付近にかけて、日吉社社家が居を構えており、自らの祖霊を祀っていたことに始まる。
社家が上坂本に移った時期は、平安時代末から鎌倉時代にかけてとされ、成仲は樹下家の、行言は生源寺家の祖となった。
供所神社(くしょ)
比叡辻一丁目 祭神:祝部成遠 一間社流造
日吉社家の祝部成遠を祀る。慶長9年(1604)に社殿が大破し、片桐主繕正貞隆が再興したと伝わる。
本殿周りの彫刻
下阪本でみた風情
聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)
比叡辻二丁目
明良地蔵尊(あきら)
坂本三丁目 六体地蔵尊の一つ 旧北国海道より一筋下がったところ。小学校の近くにある。
花崗岩に浮き彫りしたもので、像高0.9m。
六地蔵の中心に位置し、胸や胃腸の病に霊験があるとされる。
木の岡古墳群(このおか)
木の岡町
住宅に囲まれた、比叡山系から琵琶湖にむかってのびる木の岡丘陵および大宮川北方の平野部に分散してある。
前方後編墳の発掘調査では周溝や墓石を検出。この古墳群は5世紀の築造とされる。
皇室とゆかりがあるとされ、明治27年(1894)陵墓参考地に指定された。
和邇氏の同族で坂本村付近一帯に勢力を持っていたといわれる近淡海国造の墳墓でないかとする説がある
苗鹿(のうか)とは、年老いた天太玉命(あめのふとたまのみこと)が稲を背負った鹿に導かれたところから地名の名がおこったとさえる。
苗鹿常夜燈
苗鹿一丁目
国道161号線から北国海道へ入る角に石造大常夜燈がある。これは江戸時代の弘化4年(1847)に、伊勢講の一つ「苗鹿講」が呼びかけ人となって寄進者を募り建立したもの。当時の伊勢信仰の深さを物語る。
那波加神社(なばかじんじゃ)
苗鹿(のうか)一丁目 祭神:天太玉命
境内は大木で囲まれる
鳥居、拝殿、幣殿と続く。本殿は一間社流造
延喜式内滋賀郡八座の一である。元亀2年兵火の為焼失、慶長12年再興された。
ケヤキ
市指定天然記念物
那波荒魂神社
苗鹿一丁目 那波加神社隣りに建つ
平城天皇大同2年に斎部宿禰広成が祭神の荒魂社を創建し那波加神宮の境内社とした。
苗鹿地蔵尊
苗鹿一丁目 六体地蔵尊の一つ
元来は北国海道沿いの地蔵川付近(現、湯元館辺)にあったが、再移転されて、今は法光寺の境内に立つ。
花崗岩に浮き彫りしたもので、像高1.3mほど。合掌する姿を現し、室町時代の作とされる。
「すべり地蔵」の異名がある。伝承では、大名といえどもこの地蔵堂前では下馬したと伝えられる。足・腰の健康を守る地蔵として知られる。
法光寺(ほうこうじ)
苗鹿二丁目 天台宗 本尊:阿弥陀如来 釈迦如来 薬師如来
苗鹿の旧北国海道より少し山手に位置する。途中に柚子の里の案内がある。
寺前に立つだけで歴史を感じるほどのスケールの大きな寺域で、中に立派な社殿が立ち並んでいる。
寺伝によると、開創は伝教大師最澄で、裏山を霊山と想念し、一宇の堂を建て、自刻の薬師如来を安置した。
のち貞観5年(863)壬生家の祖・勘解由次官小槻宿禰壬生今雄(おづきのすくねみぶのいまお)が当地を受領し薬師如来の霊験を信じ、氏寺として堂塔を建立。境内4町余、堂宇24、僧房30余を数える大寺で、宿禰の子孫が代々法光寺を管領した。
元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで焼失した後、延亨3年(1746)に再興された。
本堂は5年(1916)に完工。
当寺には大きな「紙本著色法光絵図」があり、かつての盛時の堂舎の姿をみることができる。
境内には、小槻宿禰の供養塔である石造宝塔がある。
鎮守社の天満宮には、男神・女神像(市指定文化財)を安置。像底の墨書銘からともに苗鹿大明神の神木をもって、応永3年(1396)に作られたことが明らかである。
坂本六体地蔵尊の一つ、苗鹿地蔵尊が境内に建つ。
男女神像二体
市指定文化財
鎮守社に安置されている。一木造・彩色で、彫刻としての作風は稚拙であるが、像底に苗鹿大明神の森の木を用いて応永3年(1396)に造られたことを伝える墨書名があり、銘文から男神像は天満大自在天神であることがわかる。
霊木でもって神像や仏像をつくる霊木信仰に由来するものとして貴重とされる。
男神像:44cm、女神像:33.3cm
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