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滋賀県大津市田上 オランダ堰堤と鎧堰堤 

Tanakami entei,Otsu city,Shiga

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June 2011 中山辰夫

オランダ堰堤と鎧堰堤、ほか

大津市上田上桐生町・田上森町若女谷オランダ堰堤・鎧堰堤ともに田上山系の砂防を目的に構築されたものである。 ■■■田上山系のあらまし

田上山は大津市の南部、甲賀市信楽町と栗東市に接する田上地区の産地の総称である。「信楽・栗東(金勝)〜大津(田上)」

特に田上は標高600mの太神山(たなかみやま、別称不動山)を主峰に堂山(384m)、矢筈ケ岳(562m)、笹間ケ岳(433m)、猪脊山(553m)など500m級の山々が連なり、随所に風化した花こう岩が露出する。

この山系は古来より木材や鉱物に恵まれ、農耕信仰や山岳信仰の対象となるとともに、万葉集を始め多くの歌にも詠まれている。

最近は独特の景観と京阪神からの足場の良さから「湖南アルプス」(大正末期に京都の山岳愛好家に命名されたのが始まり)の名でハイカーに親しまれている。 ■■この山系には、日本における自然破壊第1号であるという別の「顔」がある。 

この田上山山系の豊かな山の樹木は、奈良時代に始まる伐採が以後も続き、江戸時代には「ハゲ山」として広く知られるまでに荒廃した。

明治に入ってほぼ全山ハゲ山となった。

昔の林相は、太神山「不動寺」の立木に僅か見られる。

明治の田上山と岩肌

■その結果、荒廃した山の土砂が流出し、流域の河川を埋め、土砂は瀬田川にまで達して再々洪水の原因となった。本格的な砂防工事に着手されたのは明治に入ってからである。

■1878(明治11)年から2013(平成25)年迄、135年間にわたる自然との「百年戦争」で、緑も復元しつつあり、砂防施設が国から地方自治体へ移管される段階に来た。

現在の緑の山並みからは想像もできない破壊から復元への歴史をもつ。 ■■現在の遠景

砂防工事は、山間の事業の為その内容を目にする機会が少ない。現場で延々と繰り返された事業は、長期間にわたる目立たない地道な、辛苦の内容であった。今後も継続されるその内容の一旦に触れる。先ず初めに田上山関連と砂防関連の情報をまとめる。

■■■荒廃と砂防の経過

■■荒廃の経過

■花崗岩から形成される田上丘陵は、土質がもろく、それゆえに押し出される土砂によって、南部地域としては珍しく広く沖積地が作られた。丘陵地帯一帯には、深い森林があって動物資源にも恵まれ、早くから人々の活動がみられた。旧石器時代には狩猟が営まれていた。縄文・弥生時代も残された遺跡から順調に発展していたことが分かる。古墳時代も古墳が多く残されている。

■6世紀末から7世紀にかけての藤原宮や平城京の造営の時、大量のヒノキ・スギ・カシなどの木材が田上の美林から切り出され、瀬田川−宇治川−木津川を経て奈良の都に運ばれた。その後も、東大寺(745年)、石山寺(762年)、延暦寺(788年)、と大寺院建設の度ごとに山の木が伐採された。

田上山が選ばれた理由として、ヒノキの材質が緻密で良質、かつ豊富であったこと、大和に比較的近かったこと、水運の便が良かったことがあげられる。

こうした田上山系(金勝・信楽を含む)一帯の「杣」設定による森林の乱伐は、後に大量の土砂の流出を許し、大戸川・瀬田川の度々の氾濫を導く原因となった。

■信楽町・信楽の陶業が興隆したことも一因となって、薪材用に松が刈り取られ、ハゲ山化を促した。

■江戸時代には燃料採取、採鉱、採石等が繰り返された。燃料や灯り用として小柴や松の根までが掘り起して採取され、近江八幡の畳表の夜なべ仕事に使われた記録が残る。江戸時代に早くも、「田上の禿(はげ)」として全国的に知られたハゲ山地帯なった。

山から大量の土砂が流れ出し、水害に苦しんだ地元では、集落をあげて移転せざるを得なかったほどであった。

■瀬田川筋の水運は全国市場との係わりもあって重要であった。その瀬田川が、山から押し流される土砂で、大洪水・運行中止など度々強いられた。

大戸川より流出する土砂により瀬田川の疎通を阻害した。

■■砂防の動き

砂防とは「山地・海岸・河岸などで土砂の崩壊・流出・移動などを防止すること。植林,護岸,水制,ダムなどによる(「広辞苑」)」とある。

山からの不安定な土砂の発生を抑え,下流河川の河床への堆積などを防ぐ事業である。 ■1683(天和3)年、瀬田川流域を含む淀川上流域に大水害が発生したことから、水源治水策が建議され、1684(貞享元)年、徳川綱吉の時代に「川上之山々開畑山畑停止仕立候事」の覚えを出し、土砂留工事が創工された。これが砂防工事のはじまりとされる。

河村瑞賢が瀬田川本浚渫を行った際の「瀬田川浚古絵図」 大戸川が運んだ土砂で八つの島が形成され、疎通を最大に阻害した地点となった)

所がここは、幕府の軍事上の秘密の徒渉地でもあった。従い、土砂の島を取り除く大々的な瀬田川浚渫は、幕藩体制下では難しかった。 ■明治維新の頃の田上山一帯は一面のハゲ山であった。

1868(明治元)年、淀川水域が再び大水害に見舞われた。

水源山地からの土砂流出が主要因であったことから「淀川水源砂防法」が1873(明治6)年に制定され、内務省直轄工事として本格的な砂防工事が始まった。

砂防年表

■■土砂を運ぶ河川 (注 草津川は廃川となった旧河川で、新草津川と区別のこと)

■田上山系の露出した山々から流出する土砂を運び出す河川が大戸川(おおど)と草津川である。

信楽山地の高旗山(710m)を源とする大戸川は、金勝と田上の山系を分断して横切り、平野に出て瀬田川に合流する。流域面積190k㎡、河川延長37㎞の一級河川である。

金勝から流れ出す草津川は、流域面積48k㎡、河川延長13kmの一級河川で琵琶湖に注ぐ。下流部が天井川で知られ、河床下を国道一号線やJRが通る。

■■淀川水源砂防法

■明治政府は、我が国の近代化を図るため、欧米諸国から先進技術の導入を図った。

当時の砂防工事の目的が、水害を防ぐこと以上に河川航路の維持に重点が置かれていたことから、この種の低水工事を得意とすらヨハネス・デ・レーケ等のオランダ技術者が政府により招聘聘された。1873(明治6)年から1901(明治34)年迄日本に滞在し、日本各地の土木・水利工事を指導し治山技術の基礎を築いた。

■■田上山一帯への本格的な取り組みは、1877(明治10)年からで、まず砂防工事に着手、ヨハネス・デ・レーケの指導で一帯に砂防ダムを造った。

■これらの一部は現在も残っており、その代表が1889(明治22)年に竣工した「オランダ堰堤」と「鎧堰堤」である。

■次いで20年後半から植林が始まった。松の苗木と混植しているヒメシャブは成長が早く、落葉が肥料になる。このやせ地に絶好の植樹を発見したのは、秦荘の篤農家西川作平であった。

■また、積苗工と呼ばれる、山腹植樹の工夫をしたのが京都府職員の市川義方である。

■地元民も、1890(明治23)年、小柴同盟規約を結んで、刈り取る小柴は15cm以下のものに限るなどとし、山を荒らさないようにした。 ■■明治・大正・昭和と先人の努力が続き、ようやく田上山に緑が回復しつつある。まだまだであるが、1300年以上にわたる負債を返しつつある。

世界からも注目されている田上山の広域山腹砂防を今後も継続することが我々に課せられたテーマとして残る。

■砂防に尽力した7人衆

■■■砂防工事の概説

段階的に、総合的に事業は進められる。 ■■■先ず草津川からスタートする。

■■草津川

草津川は、大津市上田上桐生地先の金勝山にその源を発し、途仲美濃郷川や金勝川を合わせ、草津市北山田町地先で琵琶湖に注ぐ、全長13㎞余りの河川である。常は水量少なく、河口付近になると水はほとんどなくなり上流から運ばれてきたと土砂が厚く堆積して、江戸時代にはすでに天井川を形成していた。

江戸時代中期膳所藩の儒臣であった寒川辰清が記した「近江輿地志略」に天井川の状況が記され、「近江名所図会」や浮世絵版画にも登場している。

明治以降も草津川流域は度々水害に見舞われ、昭和に入っても台風による被害が大きかった。

そこで新川掘削工事が計画され、平成14年から新草津川の通水が始まっている。

新河川の完成で草津川は廃川となり、跡地の開発計画が検討されている。

草津川への土砂の流出を防ぐ目的で造られたのがオランダ堰堤である。 ■■■オランダ堰堤

大津市上田上桐生町「日本の産業遺産300選」・「土木学会選奨土木遺産」

オランダ堰堤は、人々の住まう草津川流域を山中でひっそりと守ってきた砂防堰堤(ダム)である。

上桐生バス停より500m奥に施工されている。

■堰堤は、草津川の上流にあたる大津市上田上・桐生(きりゅう)にある砂防堰堤であり、その一端が一丈野国有林にかかっている。

この堰堤は、築造以来120年余の年月に耐え、砂を貯める機能を現役で果たしている。

■規模 直高:7m 天端幅5.8m 堤長34m 形式;石積み砂防堰堤 設計:田辺義三郎

■現地で採掘された自然石が正確な割石技術で積み上げられた堰堤は、放水路面をアーチ型にすることで水流を中心に集め、両袖の浸食を巧みに防いでいる。鎧を思わせる石積みは、切石の奥行きを水流と平行にした牛蒡積を採用した。内部を粘土でつき固め,貯砂だけでなく貯水も可能なように造られている。形状が鎧に似ていることから「鎧型堰堤」とも呼ばれる。オランダ堰堤は、国内で施工された明治期の石積み堰堤の中でも最も古いものの一つである。

■堰堤上流側には堰き止められた土砂

■■副堰堤

堰堤の約60m下流には花崗岩切石積みの副堰堤を設け、河床勾配を保っている。

こちらは,直高1.37m,堤長18.2m,高さ約300mm,幅約500mm,5段の階段構造で,幅4.5mの水叩きを有し,河床の低下を防ぐ。

■■堰堤下流側

■■その他の施設

堰堤の上流、下流各々300m以内の所に、施設が構築されている。野面石積治山ダム、空積治山ダム、床固工、水質浄化施設、などの施設である。

使節は300mを越える、上下にも数多く造られている。

■■一丈野(いちじょうや)の治山工事

土砂の流出防止と共に荒れた山をもとの森林に復旧する工事は並行して進められる。その一例である。

1897(明治30)年頃〜1992(平成4)年頃の状況

■植栽の移り変わり 1955(昭和30)年〜1990(平成2)年 (1913(大正3)年〜2000(平成12)年 現在

■■デ・レーケの功績

「治山を重視した砂防工事の重要性を説き、上流(治山)と下流(治水)の工事を同時に考える「河川一体観の治水思想」を徹底させたのが、デ・レーケの最大の功績」と強調する人がいる。

今、日本の砂防技術は世界でも評価が高く「SABO」は国際語になっている。その典型的な成功例とされる田上山系において、オランダ堰堤は、明治前期の近代砂防工事を現代に伝える生きた記念碑である。 ■■近江アルプス自然休養林

一丈野地区の国有林は森林レクエ—ションの場として一般に利用されている。堰堤付近も親水公園として親しまれている。

厳しい山の復元を理解する若者は少ない。 ≪天井川・草津川の資料≫ 新草津川の開通で、旧草津川はその役目を終え廃川となった。その跡地利用は今後検討されるが、旧草津川における自然と人間の攻防の歴史が消えないように望みたい。ここでは手近にある関連資料をまとめえ、記憶に一端としたい。鉄道や道路が河床の下をトンネルで抜けるという特異な景観である草津は、旧中山道・旧東海道の分岐点で、江戸時代は大宿場町として大いに栄えた。

その分岐点は草津追分と称され、草津トンネル近くに今も「大石柱常夜灯」が建つ。この常夜燈は、永代灯明代金と共に日野町出身の豪商中井正治右衛門橘武成が草津宿住民の懇願を入れ寄贈したものである。(中井正治は瀬田唐橋架け替え費用三千両も寄付した) 国史跡草津本陣も近い。

草津トンネルからは国史跡草津本陣もすぐ近くである。 ■江戸時代。

江戸幕府は、軍事上の目的から各地の大中河川への橋脚架設を認めなかった。草津川も例外でなかった。但し要人の通行に対しては例外処置がとられた。

草津川には橋は無く、旅人は川越賃を払って徒(かち)渡りを余儀無くされ、水がなくても橋銭は三文取られた。従い草津は交通の難所、一つの関門であった。

草津川の川越賃((近江の浮世絵版画より引用)

草津川に関する時代順の広重画・その他資料

草津市教育委員会の調査で、旧草津川の堤防は江戸中期(18世紀前半)からこれまでに、土を盛る工事が六回行われたと発表した。

順不同の資料

■明治時代

1886(明治19年)に川底の下をクグルトンネルが出来た時に、新しい東海道が作られ、東海道と中山道の分岐点がトンネルの北東側に映った。その後、妖怪同本線や国道1号を通すためのトンネルも造られた。昭和時代

現在

新草津川の開通で、旧草津川は廃川となった。その利用法は今後検討されるが、旧草津川における自然と人間の攻防の歴史が消えないように望みたい。

鎧堰堤・迎不動堰堤

大津市田上森町若女谷この二施設は天神川上流に設置された防砂施設である。 ■■瀬田川周辺に位置する「田上山」は、明治初頭より国の直轄砂防事業により裸地から緑地への復元が図られてきた。

田上山は、瀬田川の支川、大戸川に流入する天神川、宮川、吉祥寺川流域を中心とする周辺産地を含む地域の名称で、その範囲は概ね18?である。

これらの流域には多くの砂防施設が構築され、土砂の流出を防ぐとともに、山腹工を施し、それらの成果で裸地が緑に覆われるようになった。 ■■田上山砂防百年

百年余前の田上山と現在 1974(昭和49)年砂防百年記念 鎧堰堤は田上山砂防の記念碑的な存在である。

■■■鎧堰堤

■■二つの堰堤は、土砂の流出防止のために構築されたものである。

鎧堰堤へ行くルートは種々あるが、今回は「若女谷コース」を行く。アルプス登山口〜迎不動〜迎不動堰堤〜鎧堰堤とつながる。

距離は約700mであるが起伏に富み長く感じた。多少のスリルもあって、小気味よい気分で登れた。迎不動堰堤は鎧堰堤へ行く途中にある。

■天神川をさかのぼり、不動越がいよいよ本格的な坂道にかかるやや手前に迎不動がある。ここから北に延びる谷が若女谷(じゃくじょだに)である。

この谷の上流に田辺義三郎が設計し、1888〜9(明治21〜22)年に完成した鎧堰堤が設けられ、土砂を堰き止め出来た広大な阿弥陀河原を形成している。 ■迎不動近くの道路からトビ石を踏んで天神川を渡った向かい岸がスタート地点である。迎不動堰堤までは100m、鎧堰堤までは700mとある。

■細い山道を進むとすぐに迎不動堰堤につく。迎不動堰堤は帰路にゆっくり時間をかけるとして先を急ぐ。

■花崗岩の岩場が川沿いに次々と現れきつい。谷あり山ありで距離を長く感じる。次々と素晴らしい景観に引っ張られてどうにか登れた。

■同じ年輩のハイカーグループに出会う。所々の立板が立ち助かる。無かったら迷子〜。

■若女谷滝 巨石の透間より流れ落ちる。雨後で水量が多かった。

■何か見えてきた。コンクリート製の新鎧堰堤だ。

■新鎧堰堤の天端 途中まで歩ける。 説明板付である。既往案内板の近くに新しい案内板を2基配置。材質は永続性の高い石材製を使用している。

■■新鎧堰堤

新鎧堰堤と旧鎧堰堤の2段構えである。1960(昭和35)年建設された。

■■鎧堰堤

大津市田上森町若女谷

平成元年に「日本の産業遺産300選」に選ばれる。近代土木遺産 大津市史跡 田上砂防工事の記念碑的存在である。天神川の流域に住む住民の生活を、土砂災害から長い間にわたり守り続けている。

■全越流の様子が見える。全国的にも珍しい美しい石積みは鎧積と呼ばれ、文化財的にも価値のある近代化遺産である。1889(明治22)年建設。

深く綺麗に磨かれ、浸食された切石面から建設後の時間経過が分かる。平均32cm×35cm×1.2mの細長い石が縦横に、階段状に並べて積む。

砂防堰堤では珍しく、全国でも他に2例あるのみ。

■建設後120年余経過するも石組に乱れがない。両袖の切石はイギリス積である。上流側には鎧堰堤が堰き止めて出来た砂原が広がる。

■■阿弥陀河原

高さ3.8mと比較的規模の小さい鎧堰堤によって堰き止められた堆砂地。延長約350mと瀬田川砂防の最大規模である。

圧倒される拡がりであり、自然の力の凄さが感じる。

満々と水を堪得る阿弥陀池であったが、堂山や周囲の山からの砂礫と化した土砂が流れ込んで埋めたことから阿弥陀河原と呼ばれる。

どれほどの土砂が堆積しているのか想像もできない。 ■■砂防事業

■治山砂防工事は、荒れた山腹に特定の樹種(クロマツ、ヒメヤシャブシ)を植栽する山腹工、土砂の流出をおさえるために堰を作る渓流工事からなる。

渓流工事は、山内の大小の谷に砂防堰堤が築かれる。

■山腹工は、荒廃した斜面を階段状に切り、その上に肥えた山土を盛って樹苗を植えこみ、盛土の斜面には山芝を張る。

■山腹植栽に用いられる樹種は、ハゲシバリ(ヒメヤシャブシ)、マツ、ヤシャブシ、ヤマハンノキ、ニセアカシア、ヒノキ等であり、割合はハゲシバリが一番多く、次いで松である。

樹種が決まるまでに先人の努力があった。

■黒松とヒメヤシャブシの混植 

ハゲ山になった山腹の植樹も大変な作業、愛知郡秦荘町斧磨の篤農家西川作平さんは、近くのはげ山に黒松を植樹したが、うまく根付かず悩んでいたところ天保13年(1842)3月、夢の中で「黒松を植えるには、ヒメヤシャブシと混植するとよい」というお告げを受け、早速山々をかけ巡ってやっとヒメヤシャブシをみつけ出し、松と松の間に植え込んで、背丈が高くなると延びた部分を切って、松の根に肥料として与えていた。これが見事に成功、のちこの技術を教わった甲賀郡岩根の龍池籐兵衛さんが、本格的に播種培養を行ない、その苗が現在、田上山山系のはげ山地区の山腹工事(植樹)の立役者ともなっている。

山腹工事前・後

植栽〜3年後

■■植樹

■体験学習による山腹工

■■緑化復元の植樹

田上山の植樹については、地元の田上小のほか大石小、青山小など数校が、山腹につくられた段々畑に入り毎年3月卒業記念植樹を行っている。

1974(昭和49)年からの継続である。次世代を担う地区の小学生に、田上山系の理解と緑の復元を通じて自然環境への興味の喚起を期待する。

■この情報を知った橿原市は、平成7年(1995)2月28日、藤原京創都1300年の記念事業「ロマントピア藤原京95」の一環として同市立鴨公(かもきみ)小学校5年生約70人を植樹隊員として田上に派遣した。

隊員たちは「私たちの時代に1300年前の恩返しができれば」との願いを込め、地元の小学生らといっしょに記念植樹に意気を盛り上げた。 ■田上山山系の治水・緑化は明治—大正—昭和へと引き継がれ、田上の山々は見違えるように緑を取り返した。

自然の破壊は容易いが、その復元は並大抵でない。今の姿を見ただけでは、過去は分からない。地道に伝え・体験させることが最上の策であろうか。

植樹活動は、緒団体・グループ・その他により継続的に実施されている。 ■参考

    ■■迎不動堰堤は、日本とオランダの興隆400周年を記念してつくられた砂防堰堤で高さ9m 長さ34mである。 ■■迎不動堰堤

目指すダムは、鎧堰堤・堂山へ向かう途中にあって、鎧堰堤の下流にあたる。

天神川のトビ石を渡って登山道を登る。天神川には橋がない。増水の時は渡れない。

位置図と説明

堰堤本体

説明

オランダとの友好

ヨハネス・デ・レーケ(1843〜1913)

1873(明治6)年政府が港湾・河川事業近代化のため招いたオランダ技術団の一員として来日した。大阪の淀川河口で港湾・河川の改修工事に取組んだが工事が難航した。その原因を調べると「上流の山々から流されてくる土砂が難工事の原因であり、下流の水害の原因である」ことを知り、上流の木津川、瀬田川付近の山々の緑化に努めると共に、日本の各地で治山治水を指導し、1901(明治34)年まで滞在した。日本の新しい治山技術の基礎を築いた人といわれる。 ■■新オランダ堰堤を経た後、川は天神川と合流し下る。田上枝町付近で伏流を始め著しい天井川となる。

大津市田上枝町

公園手前の天神川流路工

■枝町地区には田上鉱物博物館や田上公園がある。公園は天神川の河川敷を用いてつくられた。

公園入口には淀川100年記念事業として砂防百年記念碑「1974(昭和49)年建立」が建つ。

■天神川橋上流、下流

公園そばの天神川橋を境に伏流水となり、、最下部に行くほど表流水は殆ど見られない。端から見た太神山

最後に

■■砂を止め、緑を取り戻す—その為に構築された諸施設は大変な数である。自然に抗した場合の代償・リスクの大きさが分かった。

参考資料≪琵琶湖河川事務所、滋賀県森林管理署、滋賀県砂防協会、滋賀県の地理,大津市史、他≫

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