滋賀県大津市 融神社
Torujinja,Otsu City,Shigan
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May 30,2017 中山辰夫
融神社 (とおるじんじゃ)
大津市伊香立南庄町
源融(みなもとのとおる)公を祀る唯一の神社とされる。祭神:源融公(みなもとのとおる)、御神紋:十六葉菊
源融(みなもとのとおる)公は、紫式部が石山寺に籠って構想を練ったとされる「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とされる。(パンフレットより引用)
融神社のある仰木〜伊香立の集落は約1200年以上の歴史をもつ穀倉地帯でもあった。
仰木から伊香立方面に抜ける県道47号線沿線には今も美しい棚田の風景が残り、滋賀の豊かな自然を代表する里山の風景が広がっている。
その中でも、特に有名なのは「馬蹄形の棚田」で、仰木の里山の中で、とりわけ美しい景観といわれる
当地は源融公の荘園で、現在の社地は融公が宇多天皇寛平年間(889〜898)に南庄村牟礼の岡山に閑居された旧跡である。
後世の為、山上に埋められた神鏡一面を、朱雀天皇天慶八年(945)に伊香立庄管領平群三河公懐昌が掘り出して、旧地に祠を建てこれを神璽として融公を祀られた。これが当社の創祀である。
986(寛和2年)春花山法皇が近江御巡幸の際、社殿を造営し正一位融大明神と祟称せられた。また一条天皇が水田百町歩を神領とせられた。
以後御歴代奉幣の例があったが、鎌倉時代以後衰微して遂に廃絶した。後南庄・家田・谷口三村の氏神となったが、元亀の変で焼亡した。
当時の神主山本若狭という人が神璽を奉持して山間に避難し、1579(天正7)年に至って社殿を再興し、神璽を奉遷した。後世この神領の地は武家の所領となっていた。この地区と源融との関りは、小椋神社をはじめ多く見られる。
写ってないが、朱塗りの欄干が掛かる融川を渡ると美しいヒノキ並木の参道となる。源融は神社以外に川の名にもその存在を誇示している。
石の鳥居に続いて、木の明神鳥居が並ぶ。
参道
社務所、手水舎、ほか
拝殿
入母屋造 間口三間 奥行三間
舞踏家が風流人・光源氏のモデルを偲んでか、創作舞踏「源氏舞」を融の命日の8月25日に奉納する。
本殿 源融公を祀る
一間社流造 間口一間二尺 奥行一間
左側は融の母、大原全子(おおはらのぜんし)—嵯峨天皇の寵愛を受け、源融、源勤、源盈姫(みつひめ)の母
その他
神庫 神輿庫 神饌所 社務所
境内社
八幡神社 諏訪神社 多賀神社 松尾神社 春日神社 稚姫神社 愛宕神社 神明神社 稲荷神社 若宮神社 大己貴神社
参考資料≪源融≫
源融(みなもと の とおる)は、嵯峨天皇の皇子で、臣下となって源氏姓を賜った。
極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。死後正一位を追贈されている。
嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。
陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。
また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。
渉成園・清涼寺・平等院
融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見える。
今に残る遺蹟—「河原院の址」の榎の大樹と石碑
場所は下京区木屋町通五条下ル
嵯峨天皇皇子左大臣源融は,摂政藤原基経(836〜91)の台頭によりこの地に隠棲した。
その邸宅は河原院と称され、北は現在の五条通、南は正面通、西は柳馬場通、東は鴨川を範囲とする八町におよぶ広大な敷地をもち,苑池を備えた景勝地として知られる。
融没後は宇多上皇(867〜931)の御所となり東六条院とも呼ばれた。この石碑は河原院跡を示すものである。
榎の大樹は、もと河原院の邸宅内の庭の中の島「籬(まがき)ノ島」が、鴨川の氾濫によって埋没して森「籬(まがき)の森」として残り、その最後の一本の木であると伝えられている。「引用:京都市HP」
融流嵯峨源氏は源融の流れを汲み、地方に下りて武家となり子孫を長く伝えた。
その代表が摂津(大阪)の渡邊氏や肥前の松浦氏、筑後(福岡県柳川)の蒲池氏等である。
歌手の松田聖子は蒲池氏の末裔であるため、源融の子孫ともいえるとされる。(ウィキペデイアより抜粋)
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