滋賀県大津市 膳所城跡
Zeze castle,Otsu city,Shiga
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近辺には重要文化財指定の遺構が多くある。 | |
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Apr.2011 中山辰夫
大津市本丸町
現在膳所城跡地は本丸・二の丸にあたる部分が膳所城跡公園として保存されている。
現在の公園には当初の建物が何一つなく、松林の中に点在する高台や石垣に往時を想う事となる。
1955年と1982年(航空写真)撮影の全景と現在の公園
湖岸道路から湖へ突き出た地形から水城であった証を今に伝えている。
慶長6年(1601)徳川家康が、天下の覇権を確立してはじめて築城させた城である。
縄張りは、藤堂高虎が担当した。大津城の城門や石垣を転用したと伝える。
湖中に突き出た本丸に天主が聳え立つ城であったとされる。
最大7万石の所領を統治した膳所藩の政庁。膳所は城下町、大津は商業・宿場町と分かれた。
本丸・二の丸などが琵琶湖中に突出した典型的な水城で、戸田氏・本多氏・菅沼氏・石川氏らいずれも三河以来の徳川家譜代の大名が在庁し、明治維新に至った。
畿内を押さえる軍事上の要地であるため、勢田橋の管理および架替え、瀬田川筋供御瀬の管理に当たるとともに、上洛する将軍を京都に送り出す最後の関門、将軍宿所の役割を有した。
最後の藩主本田康穣は明治2年(1869)版籍奉還を願い出て藩知事となり、翌年に全国で最初に膳所城の廃城願を出した。
公園内の城郭跡は何一つない。わずか復興されたものが雰囲気を感じさせるだけである。
膳所城の復興模擬城門と掘・塀や石垣(いづれも遺構ではない)
城址碑と天守閣の碑
大津市生涯学習センターの屋上(天守閣とほぼ同じ高さ)より見た湖上
石碑付近や湖辺に残る石垣の名残り
復元された石垣と多聞櫓と本丸跡の遠望
石鹿地蔵尊
城址内に祀られている約60体の石地蔵尊
資料−1 滋賀県教育委員会発行
資料—2 文献より引用
膳所城図
膳所総絵図(部分)元禄15年作成(1702)
湖上より見た膳所城(前方の山は三上山)
近江名所図会
膳所城修覆願ケ所絵図「県指定文化財」
寛文2年(1662)5月1日、滋賀県湖西を震源地とするM7.6の大地震が発生。この際に膳所城天守閣は西北に傾き、本丸内の三重矢倉は土台もろとも湖中に落ちた。
本絵図は、下半分に地震以前の城郭を描き、上半分に修築後の完成予想図を描いている。創建期の膳所城の姿を知る上で、数少ない貴重な資料とされる。修築後は本丸と二の丸を合体させ新たに本丸とする計画であったことが分かるとともに、絵画資料で見る膳所城が修築後のものと分かる。
移築された膳所城本丸東正面の二重櫓(にじゅうやぐら)
明治に入り、膳所城が廃された際、城郭は解体されて移築された。本丸本丸東正面二重櫓は、膳所城下の料亭坂本屋に移築、その後大津市秋葉台の芭蕉会館に移築された。本画像は絵葉書(湖畔膳所 坂本屋飛龍の間)と記されている。
本多家家紋
遺構
城郭は破却されたが、藩主ゆかりの史跡や膳所城の城門遺構が各所に存在している。
城門は膳所神社「既報」、篠津神社「既報」、鞭崎神社「既報」、和田神社「既報」若宮八幡宮「既報」などに移建された。
資料 膳所城と徳川家康
寛文大地震
寛文2年(1662)5月1日昼前、志賀町付近を震源とするマグニチュード7.6という大地震が発生した。
被害は震源地の近江は勿論、山城(京都府)・若狭(福井県)・美濃(岐阜県)など十三カ国に及び、幕府は京都に巡視の使者を派遣している。
大溝(高島)・彦根では千戸以上が潰屋(つぶれや)となり、朽木谷では領主の父朽木貞綱が圧死、葛川では山崩れによって町居・榎(梅ノ木)両村が埋没、坊村では田畑が水没、明王院では建物・石垣が崩壊している。
大津では代官所の蔵が潰れ、膳所城でも被害があった。
城跡とさくら
参考資料《城下町膳所の今昔、近江城郭探訪、王の湖・武士の湖、大津市史、大津の歴史、他》
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