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滋賀県近江八幡市 福寿寺
Oumihachiman Fukujuji

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September 9, 2018 野崎順次

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滋賀県近江八幡市馬淵町469
黄檗宗 岩蔵山 福寿寺
(Fukujuji Temple, Omihachiman City, Shiga Pref.)

829年(天長6年)淳和天皇の勅願により開創されたと伝わる。1680年(延宝8年)梅嶺禅師により黄檗宗として中興。近江商人の本拠地である近江八幡の商人の支援を受け再興したと云われる。以来、八幡商人の崇敬を集めたという。本尊・千手観音立像は木札の銘から1170年(嘉応2)の造像、仏師・僧長順作とされる。岩倉山は良質な石が採れ秀吉の大阪城築城には多くの石材が運ばれたという。県指定名勝の庭園にも多くの石が使われている。
(古寺探訪コラムウェブサイトより)

急坂を上ると、本堂が見えてきた。

         

県名勝 福寿寺庭園 江戸初期
本庭は本堂の北庭に当たり、旧書院の南東庭、すなわち前庭となっていて、その面積は約百九十坪ほどあって、細長い池泉鑑賞式となっている。本庭が大体に南北に細長い池泉としての様式をもつことは、寛文・延宝期の特色であって、その作例は多い。
そしてまた、池中に亀島を一島設け、その向かって左手に巨石による岩島一石を入れて、これを鶴島的に見せている。亀島には北東部に亀頭石を用い、切石橋二橋を架け、亀島の東部に軽く出島を見せるあたりが、江戸中期への先駆的様式である。南部にも切石橋一橋を架け、特に北東部山畔には巨石の石組が多く、この地の山上には花崗岩が豊富であるから、数多の庭石を用いて豪華な石組みを全庭の上に見せている。山畔には小刈込が多く、これはやや後になって植栽されてものであって、多くの石組が隠れることが惜しい。
本庭は全体的には蓬莱式の池庭であるが、これは領主坂井家の関係もあって、武運長久を祈る意味でもある。そしてさらに中島から山畔に登ると、その中央右手に枯滝石組があるが、この石組は池庭の護岸を兼用する手法であって、これは多くの池庭に見る常習手法である。
あるいはまた右手山畔に近く蓬莱石組が見られ、桃山期以来の伝統をもつ剛健な手法がよく本庭の作庭年代を語っている。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」福寿寺庭園より)

                                        

その他境内

       

展望

      

周辺と福寿寺のある山の遠望

     


Nov.2009 撮影/文:中山辰夫


近江八幡市馬渕町
黄檗宗

椿神社門前から東の方向に福寿寺山のなだらかな姿が見える。
この山で産する花崗岩は「長福寺みかげ」と呼んで、古くから使われた。
山腹の松林の中に福寿寺の大きな屋根が見える。
向かって左下には冷泉寺の建物が見える。

福寿寺山西側の街道に、岩倉の福寿寺の大きな標石が建っている。
山に向かって登ってゆくと石垣があちこちに見える。
僧房跡であろうか。しっかりとした石積に見受ける。かなり広い範囲にある。
石がふんだんに使われた趣のある境内と瞬時に感じた。
自然石の石段に導かれて登る。
本堂と庫裏の間の山裾に石を組み、池をうがった清楚な庭園が、しっとりとした雰囲気を感じさせてくれる。
江戸初期の造庭とされる。

天長6年(829)の創立で、淳和天皇の勅願寺と伝わる。
山中には古墳があり、山麓には馬見岡神社が鎮座する。
元亀の兵火が古刹を灰燼にし、以後小堂を結んでいた。
延砲7年(1679)黄檗宗の僧梅嶺土田が正宗寺を開き、さらに当寺を再興した。
八幡町の豪商伴庄右衛門、伴伝兵衛及び勝見西川川端などが浄財を喜捨し造営を助けた。
以後黄檗宗の浄刹として今に至る。
大正9年(1920)修理の際、胎内より古鏡一面と木札と佛像を紙に捺印したもの多数と籾などが発見された。
鏡背には松雀の模様があった。
木札には嘉応2年(1170)庚寅の銘があり、仏像彫刻の年代が明らかとなった。

            

開山堂
   

渡り廊下(通幽橋)
    

本堂
          

石燈籠
本堂前南方に立つ。
竿と基礎だけが鎌倉の六角形のもので、竿に正中2年(1325)の刻銘がある。
  

福寿寺庭園

県指定名勝
延宝8年(1680)、黄檗宗の梅嶺禅師が寺を最高するとき、庭も作られたとされる。
寺は岩倉山中にあって、庭園はその山側、開山堂と本堂とこれらをつなぐ渡り廊下(通幽橋)とで限られ、中央の池が橋の下まで広がっている。
池の北寄りに中島を設け、二つの切石橋で対岸の山裾へ導く。
橋を渡ったところに亀甲石と称する上面のふくらんだ大石を据える。
池の浮石をはじめ、池の護岸などに巨石をふんだんに用い、山腹には岩が累々とあり、岩倉山中にふさわしい自然と人口の融和が見られる。(案内掲示)

        

千手観音立像
国重要文化財:彫刻:藤原時代
厨子に安置される。
像高:1.07m、一木内ぐり、前後二つに割れる、胎内一杯に多くの墨書あり。
嘉応2年(1170)願主中原貞俊、仏師僧長順による造仏と知れる。
仏像自体は豊満の中に強さのあるお顔や、浅い彫りながらにぎやかな法文線が、藤原末期の様式をよく示しているとされる。
 

胎内撮影(大正10年)したもの
 

岩倉山
岩倉山からは近世初め、御影石が砕石された。
馬渕の石工たちは、大阪城築城の際にも活躍し、それを示す桃山から江戸時代にかけての 「石工文書」が地元の恵比須講で保存され、供養塚古墳出土の短甲・刀剣も千僧供町で保管されている。
 

参考資料《近江蒲生郡史、歴史と文化近江》






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