JAPAN GEOGRAPHIC

滋賀県近江八幡市 本願寺八幡別院

Oumihachiman Honganji Betsuin

Category
Rating
Comment
General
 
Nature
 
Water
 
Flower
 
Culture
 
Facility
 
Food
 

Jan.2010 撮影/文:中山辰夫

近江八幡市北元町39-1

浄土宗本願寺派

本願寺八幡別院本堂は、JR近江八幡駅西方の鶴翼山近くに広大な寺域を占めている。小幡町資料館前から朝鮮人街道を西へ約200m進み左折すると、堀と土塀で囲まれた別院が見えてくる。

願成就寺からも近い。市内随一の大寺院である。

ともかく大きい。そして堂々とした風格で、全てを頼もしく感じる。彫刻の装飾が一杯見受けられ、力の入った建造物群である。

寺の草創・沿革については諸説があるが、門前の恭敬寺に伝わる記録によれば、本願寺第八世顕如上人の時に、蒲生野に堂宇が建立されたのがはじまりで、その後、織田信長の安土城築城の際、城下に移された。

更に、文禄元年(1592)豊臣秀次が八幡山(鶴翼山)に築城、町が形成されるに伴い現在地に移された、四ケ町の寺内町とともに栄えたと伝える。

慶長5年(1600)、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、彦根から八幡を通って上洛したが、その途次、ここで宿泊しており、江戸幕府三代将軍徳川家光も上楽に際してこの先例に習っている。

堀に架かる石造反り橋を渡ると表門で、境内は大型の御堂を中心に鐘楼・裏門などが建ち、南方には対面所・書院・庫裏などの諸建築が点在し寺観を形成している。

樹木が少ないため境内は閑散としている。境内の諸堂は大工組頭高木家の手によるものが多いという。 

表門

県重要文化財:構造物:指定 

明和4年(1767)建立(金具銘) 四脚門、切妻造、本瓦葺 

装飾過多な大型の四脚門で、その両脇には背の高い土塀が連なっている。

右側の本柱足元金具には「明和四丁亥十一月江州八幡住御鋳物師高木善四郎光繁作」の銘がある。

本柱は円柱で、参拝者の通行に便利なように蹴放のない形式で、方立が礎石まで伸びている。

柱上組物は平三斗、中備えは棟通り蟇股・大瓶束で、控柱筋は組物・蟇股・蓑束と多様である。

冠木上の桁行に紅梁を架け、妻紅梁で組み更に中央で梁行に海老紅梁を架けている。

妻飾りは大振りの蟇股で、腰折れの浅い破風を架けるため、本瓦葺の箕甲は浅く、規模の割には屋根が軽く感じる。

この門は総欅造りで、棟通りの冠木上・袖の腰長押上には龍・桐・菊を全面に彫刻したものを嵌め、更に各所に銅製の精巧な飾金具を打ち付ける等装飾が多いが、構造材が隠れる程のことはなく、巧みにまとめている。

本堂

県有形文化財:建造物:指定 1973 6 27 享保元年(1716)建立(擬宝珠銘)

桁行24.4m、梁間23,4m、入母屋造、向拝三間、本瓦葺

本堂は本願寺別院の格式を誇示するに足りる大型の建物で、母屋は桁行・梁間とも七面で、その周囲に一間通りの入側を廻すため九間堂となる。

本堂の建立については、高欄擬宝珠に「江洲八幡御坊擬宝珠 享保元年(1716)丙申霜月」の銘があるが、高木家文書には元禄7年(1694)本堂修復の記事が見られるので、この頃より工事計画があり、約20年後に縁廻りの雑作まで終わったのであろうか。

鐘楼

桁行一間、梁間一間、入母屋造、本瓦葺 文政8年(1825)建立(高木家文書) 

彫刻が見事である。

鐘楼は高い切石積基壇の上に建つ。

紅梁の絵様の特徴から高木大工の作とされる。

四本の円柱は四方転びに立て、紅梁型頭貫を入れ木鼻を付けている。

組物は龍彫の尾垂木、総彫りの実肘木を用いるなど、表門より絵様が進んでいる。

屋根は本瓦葺で、軒瓦はその全面に絵様を配した賑やかなもの。

内部の小組格天井の組子・天井板以外はすべて欅造りで、小建築ながら仕上げも綺麗で、風格のある鐘楼とされる。

裏門

八脚門、入母屋造、本瓦葺、(現在は鉄板葺) 天明2年(1782)建立(高木家文書)

裏門は本堂右後方にある三間一戸の入母屋造の八脚門で、両側には土塀が続き、新書院・庫裏他の建物の背面とともに別院の裏通りを形成している。

門の建立については、高木文書に残っている。

棟通りの扉吊元の柱は円柱、他の十本の柱は大面取角柱である。

桁行の飛貫は高木大工特有の幅広い渦を彫った紅梁型とし木鼻を付け、中備に蟇股を入れる。

朝鮮人街道

近江八幡市街を貫く「朝鮮人街道」は、中山道が上街道(かみ)であるのに対して下街道(した)、湖岸に近いために浜街道、家康が上洛に当たって通行したことから上洛道、京に通じているために京街道(京道)と様々な名称で呼ばれていたが、徳川家にとっては「吉兆の道」 であり、大名行列の通行も許されない特別な道であった。

朝鮮人街道の名の由来は、江戸時代に朝鮮通信使が往還したことによる。

日本と朝鮮国との国交は、文禄・慶長の役(1592・97年)で断絶していた。

家康はその修好回復を積極的に推進した。その結果、慶長12年 (1607)、朝鮮国から公式使節団467人が来日し、この街道を往還した。

幕府は朝鮮通信使を国賓待遇とし、近江を往還する際には中山道ではなく、「吉兆の道」の通行を認めた。

朝鮮通信使は八幡通行にあたって、八幡別院を休息所としており、昼食には華麗な饗応料理が準備された。

八幡別院で饗応を受けたのは通信使のうち、正使・副使を始め中官までの100人近くにのぼったため、複数の台所が「賄いどころ」として増設された。

朝鮮人街道(京街道):

江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われています。 

行程は、ソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。

本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行われました。

参考文献《滋賀県の近世社寺建築、 滋賀県の歴史散歩、歴史と文化近江》

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中