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滋賀県近江八幡市 左義長まつり

Sagicho,Omihachiman city,Shiga

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Mar.12,2017 瀧山幸伸

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「近江八幡の火祭り」 選択無形民俗文化財 風俗習慣 年中行事

午後3時頃から午後9時頃まで

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

日牟礼八幡宮

                   

                                                                                                      

6時 こども左義長 奉火

                                                                  

順次神社前に入る

                                                                                                                                                          

8時 五基一斉奉火

                                                                                      

その後も順次神社前に入り、奉火される

                        


Mar. 2010 撮影/文:中山辰夫

国選定無形重要文化財

近江八幡で行なわれる奇祭「左義長まつり」(国選択無形民俗文化財」は湖国近江路に春の訪れを告げる豪放な「火まつり」である。

毎年3月中旬の土・日に開催され、市内は勿論、メイン会場の日牟礼八幡宮境内はこの二日間熱気にうずまる。

   

左義長は安土の街中で行なわれた祭りの継承ともいえ、信長も自ら異粧華美な姿で参加し踊り出たと「信長公記」に記されている。

安土城落城後、豊臣秀次は八幡城を築き、安土城下の住民を移住させ新しい城下町造りに着手した。

八幡の地元には千数百年前から続く日牟礼八幡宮の例祭「八幡まつり」があった。

この祭に参加を拒否された新住民が、旧安土城下の左義長まつりを八幡宮に奉納するようになったと伝えられている。

その後、八幡の町は近江商人の活躍により隆昌を極め、その経済的な支援もあって左義長まつりは継続され、商売繁盛を祈祷する祭りとして今も盛大に実施されている。

左義長は、新ワラで組んだ三角錐の松明を胴体としその上に、数mの青竹を立て、細長い赤紙や古書・扇・薬玉などで飾ったものでその中央には「ダシ」と呼ばれる「作り物」が据え付けられる。

ダシはその年の干支に因んだものがつくられる。

一日目は、十数基の左義長が日牟礼神社を出発し、担ぎ手の若衆が「チョウサヤレヤレ」の掛け声も勇ましく、町中を渡御する。

二日目は、朝から町中を練り歩き、境内で左義長同士のもみ合いを行なった後、夜8時から奉火が始まり、祭りのクライマックスを迎える。

               

今年の左義長まつりは4月13日・14日に行われた。子ども左義長も加わって総数16基の参加であった。

祭りの朝、赤紙の短冊が町内の各家の軒先に飾られ祭り一色になる。二日間は交通規制も敷かれる。

日牟礼八幡宮周辺はこの開催に合わせて道路の補修や燈籠の紐掛けが行なわれた

13日の宵宮祭の朝は、八幡宮の境内の飾りつけにも普段とは違った華やぎが感じられる。

    

            

各町内での左義長づくりは年明け早々から内容検討が始まり、ダシづくりは祭り当日ギリギリまですべて手造りで行なわれる。

左義長は台・十二月・ダシから構成される

    

左義長の土台となる部分で、三脚状に木に竹を添えて組み、これを新藁で覆って約2.5mの松明となる。

台にはダシを受ける腕木が取り付けられ、担ぐための棒も通される。

左義長全体の重さは約1トン、高さは7m程で30人ほどの若者が担ぐ。

    

十二月(じゅうにがつ)

長さ5mほどの枝つき青竹に、細長い赤紙や「古書」と呼ばれる縁起の良い字句を書いた短冊、扇子、巾着、薬玉などのカラフルな細工を吊り下げて、台の上に固定する。燃えるような赤紙が祭り気分を盛り上げる。

    

ダシ

「山車」と書き、左義長正面を飾る「作り物」で、左義長の頭とも言うべき重要な存在である。

その年の干支などをモチーフに趣向をこらし企画する。今年はトラ・トラ・トラだった。が、その容姿はすべて異なっていた。

    

ダシの材料

ダシを構成する材料は、身近にある豆、湯葉、寒天、高野豆腐、麩、海苔、するめ、などの穀物や乾物などで、それらを素材に、それら材料を感じさせない立体的な姿につくり上げられる。

製作に2ケ月以上掛かり、祭りの朝の完成が常である。

           

各々のダシには趣旨の説明がある。

今年の優勝作品は“虎ぬ他抜きの皮算用”と命題された。

算盤(そろばん)に古き良き心の継承を託し、“虎”の様に力強く、”算盤“の様に初心に戻って、無理なく景気回復へ飛躍できることを願っての奉納とあった。

説明書を見たり使われている材料や工夫の様子を見て廻るのも楽しいひとときである。

    

ダシは総重量:約1トン、高さ約7m、30人程の若者がかつぐ。

クジ引き

前々日に八幡宮で行なわれ、宮入の順番を決める。これを「みくじ祭」と称している。

クジ順の5番までは大祭当日、先に宮入し、一斉奉火の役が与えられる。

馬場ではクジ順に整列し、観客にめいめいの左義長を披露する。

    

宮入り

いよいよ12:00、左義長の宮入りが始まる。

個々の左義長は町内を巡回しながら、八幡宮に向かう。

町中の道幅は3m弱、上空には種々のケーブルが走り、そうした中の巡行は大変難しい。

が、十二月のしなやかさがケーブルをかわし、先導役が動きをコントロールする。

ギリギリの綱渡りが続く道中である。

    

担ぎ手の若者は「踊り子」と称され、半纏を羽織ってゲタを履く。

ダシに合わせた衣装を凝らすこだわりは最近無くなったようだ。

女装した姿をチラホラ見受ける程度である。若い男女の参加が心強い。

    

お神酒の入りもまだ少ないようで、穏やかな宮入りとなった。

左義長は八幡宮の境内にクジ順に整列する。

左義長は各々自在に動き回る。

境内は溢れるばかりの観客で一杯だ。

さすがの馬場も今日は手狭である。

        

2時頃から町内巡行渡御となる。

馬に乗った宮司を先頭に、16基の左義長が続く。

「チョウサヤレヤレ」の掛け声が町中に響く。

5時頃、渡御を終えた左義長は境内に戻り、コンクールの成績発表を聞いてから各町内へ戻る。

           

翌14日は左義長大祭である。

この日は町内毎に左義長が自由に町内を練りまわる。

コンクールに入賞した左義長はタスキをかけて喜びを表す。

道で二つの左義長が出会うと4分六分で早く入った方が通るのであるが、その時にもめる。

左義長につきものの“けんか”である。

が、最近は路上でのもみ合いは少なくなった。

   

午後2時ごろ左義長は宮入りする。

境内に集まった左義長同士がぶつかり合う「組み合わせ」が行なわれる。

左義長同士が横転したり回転したりする激しい動きで、見る観客もハラハラである。

若者たちの勇壮な掛け声が境内に響き渡り、観客も合わせて歓声をあげる。

境内は祭りのルツボに化ける。

        

この後、左義長は一旦町内にもどり、傷んだ箇所の手入れを行なう。

     

午後5時、子どもの左義長が宮入する。

奉火に合わせての準備も進む。

子どもの左義長は5時半に奉火される。

    

6時頃から綺麗に修復された左義長がクジ順に宮入りする。

クジ5番以降の左義長は大鳥居付近で練りあってなかなか境内に近づかない。

燃やすのを惜しむかのように激しく揺れる。

    

午後8時過ぎ、花火の合図に合わせて5基の左義長に一斉に火が放たれた。クライマックスだ。

左義長がパチパチという竹木の音とともに勢いよく燃え上がるとドーと歓声があがる。

燃えたぎる周りでは若者が肩を組み乱舞する。

が、それをも近づけない程の火の勢いである。

左義長は順番に奉火され、10時過ぎまで境内は火の粉の園となる。

少々冷えを感じていた観客も次々に奉火される左義長を追っかけている間に、祭りにドップリつかっている。

観客は春の夜空を明るく彩る聖火に喜びを包み、それぞれの帰路につく。

      

境内あちこち

       

近世都市祭礼と左義長祭

近江では江戸時代中期を起点に多くの町場の祭礼に曳山が登場し、その巡行が祭礼の中心となっている。

いわば曳山の有無が都市化のバロメーターといえた。

大津・長浜・水口・日野・大溝・米原など、町の規模や性格に違いはあるが、多くの場合前段階に練り物や笠鉾など「風流」の流れをもち、やがて曳山が登場、またそれに附属する芸能を発展させている。

八幡周辺では曳山を所有・巡行した記録は無く、近江国内の町場の中では、異色の存在といえる。

ここで左義長を見ると、古風な左義長行事をモチーフにしながら、農村のそれとは全く別次元の祭であることは明らかである。

その眼目は趣向豊かに、経費を厭わず拵えられた「ダシ」にあり、それだけで独立した「作り物」としての価値を持っている。

「十二月」は左義長に一層の華やかさを添え、着飾った若者によって左義長が練り歩く姿は、曳山巡行と変わりない。

また潔い奉火も単なる火祭の意味を越え、町人の経済力を示すものと受け止められている。

つまり、左義長は神事性の強い郷方の火祭り「八幡祭」を意識しながらも、町住民の創意と経済力によって、発展してきた都市型祭礼と位置づけもできようとされる。

 

参考資料《近江の文化財教室、日牟礼の火祭り、他》

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