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滋賀県近江八幡市 西光寺

Oumihachiman Saikouji

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Jan.2010 撮影/文:中山辰夫

近江八幡市中村町726

浄土宗鎮西派

JR近江八幡駅からメインストリートを北に向かって進み、中村町に行くと通りの右側にどっしりした構えを見せている西光寺に当たる。その一筋裏が正門の通りである。

土塀の長さが堂々たる偉容を誇っている。白壁の塀に開く四脚門も堂々としている。

道の向こうに八幡山が見えるのもこの城下町の寺らしい眺めである。

境内も広く、風格のある諸堂に圧倒される。手の込んだ建物ばかりである。境内の至る所から八幡山が見える。

大事に庇護され、隆盛を続けてきた様子がよくわかる。

当寺は安土浄厳院で天正7年(1599)に行われた浄土宗と日蓮宗の安土総論で勝利をおさめた貞安上人のために織田信長から安土に一寺を与えられたのが寺の始まりである。

秀次の八幡城築城のとき安土から現地に移転した。秀次の祈願所となり、築地、土塀、堀など堅固に造営した。

徳川期も寺領は安堵され、朱印状も交付された。徳川家康は上洛の途次、当寺に上人を訪れた。

享保7年(1722)本堂・方丈など主要建物をことごとく焼失した。

現在みる堂宇はすべてそれ以降の再建になる。

本堂、鐘楼は高木一統の手によるもので見ごたえが十分にある。

宏壮な本堂の本尊は弥陀三尊で、厨子内には国重文の地蔵菩薩坐像を安置する。

庫裏・書院も広く、書院横には庭園がある。

堂宇の前に広がる植木が緑に変わる頃の境内を再度おとずれたいと思った。

表門

鐘楼

桁行一間、梁間一間、入母屋造、本瓦葺

石積みの高い基壇の上に建つ。

際立った存在感のある建物ではないが、四面とも飛貫と頭貫の間に蟇股を二個づつ置き内部の上方外周に幅の狭い化粧屋根裏をめぐらす等、本堂と一脈通じる趣向をこらしており同一時期同一工匠の手になるものと分かる。

鐘楼は、近世では袴腰をもつものと、方一間の簡素な鐘台の二種類があり、圧倒的に後者が多い。

一間鐘台は四方転びの円柱を用いる。当鐘楼は、四面とも二本の間柱を建てる強固な構造で絵様肘木を用いた特異な形を取る。この様式は八幡別院鐘楼にもある。

円柱鐘楼の各々を特徴づけるのは、蟇股・木鼻等の装飾的細部と屋根の形、鐘を吊る構造にある。

この点の観察に注意を払うこととされる。

当寺の鐘楼は、確証は無いが、その地域・時代・細部意匠から見て近江八幡在住で蒲生郡大工組頭高木一統の作品と見て差し支えなかろうとされている。

本堂

桁行19.4m、梁間22.5m、入母屋造、背面突出部、背面側入母屋造、本瓦葺

背面左右一間通庇付、桟瓦葺 18世紀中頃建立

本堂は正面柱間を七間に分った入母屋造本瓦葺の堂々たる雄姿で、整った伽藍である。

鬼瓦に享保2年(1717)・同4年(1719)の銘、縁の擬宝珠には宝暦11年(1761)銘

本堂後陣貼布の祷祈札に宝暦13年(1763)銘が認められ、享保焼失後まもなく再建工事が開始され宝暦年中(1751〜64)に完成したとされる。

特徴は内部空間の処理にみられ紅梁の多用も特徴である。

この本堂は、正福寺と同じく高木右衛門、同又十郎の作とされ堂々としている。

庭園

江戸時代の作庭

枯池の向こうに築山を作り、石組と刈り込みのにぎやか江戸初期の庭だが後の改造が多いとされる。

最近は世話に手が廻らないので拝観を受け付けていないとのこと。

その他、大きな墓地内にあるとされる織田信長の墓や境内にあるとされる道風がしたためた燈籠は確認できなかった。

木造地蔵菩薩坐像:平安時代と安土問答:貞安書像

国重要文化財

本殿造営の大工、高木一統の作風

1 たちが高くやや間延びしたプロポーションをもつ。

2 貫や繋ぎに紅梁を多く使う。

3 絵様肘木を多用する

4 紅梁絵様は、幅に変化が少なく、渦と若葉が接し、もしくは渦先端の玉から若葉が展開し若葉は時によっては波となり、渦は二つを背合せにすることがある。木鼻もこれに準ずる。

5 木柄が多い。

参考資料《近江蒲生郡志、滋賀県八幡町史、滋賀県の近世社寺建築,ほか》

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