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滋賀県栗東市 大宝神社

Ritto Daihoujinja

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栗東市綣7-5-5 大宝神社境内社追来神社本殿 重文 近世以前/神社 鎌倉後期 弘安6(1283) 一間社流造、檜皮葺 棟札1枚 19060414


 

Sep. 2009 撮影/文: 中山辰夫

大宝神社( だいほうじんじゃ ) 

栗東市綣7‐5‐5 

主祭神:素盞鳴尊 例祭:五月五日大宝神社はJR栗東駅西口を出て北西へ数百m歩くとぶつかる旧中山道沿いにあって、「方除・厄除・健康」にご利益があるとされる。

ここの地名は「綣」(へそ)と読み、中央に旧中山道が通り、これに平行して東側にJRびわこ線が通る。JR栗東駅にも近い。

急速に都市化が進む中にあって、鎮守の森が独特の景観を作っている大宝神社は、中世には織田信長と戦った一向一揆の栗太郡の拠点であった。

またその一向一揆の集結地であった西琳寺もすぐ近くで、往時を偲ぶにふさわしい風格を保っている。

旧中山道から石橋を渡り大鳥居をくぐって参道を約100mを進むと左手に四脚門がある。神社全体の古さ、格式の高さ、歴史の深さが一瞬に読み取れる堂々とした威圧感のある門である。

表門・拝殿・本殿の配置が見事で、中軸線上に一直線に並んで建っている。

創建は大宝年間(701~704)と伝えられ、古くは大宝天皇社・今宮応天宮と称した。

大宝神社の神職は小槻氏相伝の職とされてきた。残された棟札が裏付けている。

小槻氏は古代からの当地きっての大豪族で、下戸山の小槻大社を祖神として祭祀する名族である。

大宝神社は鎌倉・室町時代を経て五十余村に及ぶ氏子圏を維持してきた。朝廷、時の将軍、豪族、在地武士(笠河氏)、そして住民との深い係わり合いから生まれた篤い信仰を軸にこの地域の中心的な存在であった。

中世には近江守護佐々木氏の崇敬が篤く、社運は隆盛を極めたという。正徳3年(1713)の資料には、境内社34社や神宮寺の様相にて、本堂、三重塔大日、護摩堂、薬師堂、神楽堂、鐘桜堂、経堂などが建ち並び荘厳な境内だったと記載されている。

慶応4年(1863)神仏分離令により佛眼寺(京都市)と分離。社名を大宝神社と改めた。

境内社追来神社本殿と木造狛犬が重要文化財である。拝殿、その他の市指定文化財も多くある。

芭蕉「へそむらの 麦まだ青し 春のくれ」の句碑がある。

広い社域、老樹の合間に社殿が建ち、桜並木が満開になる頃は神社と美しい調和をなす。

春・夏のハイキング時期には京阪神よりハイカーが多数訪れる。園児・小学生の遠足コースにもなっていて訪れる人が後を切らない。

拝殿、本殿以外の主な建物:中門、神庫、神興庫、鐘楼、手水舎、社務所がある。境内社:31社、境外社:38社

表門

切妻造四脚門、本瓦葺、左右築地塀付、江戸時代

総ケヤキ造、南向きで左右に築地付きの門である。

後西天皇の皇女宝鏡寺宮の寄進によって建立とされたこの門は、大型の四脚門で、まさに由緒ある古社の正面にふさわしい構えを見せている。

正面の柱間は4.87m、円柱の直径47cm、前後の柱は36cm角と大構えで左右に築地袖塀を備えた堂々たる風格である。

特に棟通りに二段にわけて入る四個の蛙股は圧巻である。親柱円柱、控柱角柱礎盤付である。

享保3年(1718)の棟札から、建立時は檜皮葺きであったが、享保21年(1736)と延享元年(1744)の年号入りの鬼瓦が現存することから、

この頃に瓦葺きになったと思われる。

築地袖塀の壁にある五本の白い線は宮中との関係の深さを物語っている。

棟札や獅子口刻銘さらに化粧裏板裏面の墨書などで、享保3年(1718)の上棟であることが分かる。

なお、京都仁和寺(御室御所)から天明8年(1788)に寄進を受けた1対の紋章付き提灯(桜の二線引き)は現在も祭時に使われている。

拝殿

桁行三間、梁間三間、入母屋造、妻入、檜皮葺 室町時代

拝殿は本殿と表門の中間に建つ。同じ市内にある宇和宮神社拝殿とほぼ同規模の建物であるが、建立年代は少し古く、16世紀初めとされる。

正面側面共に三間、屋根は入母屋造檜皮葺で妻を正面とする、県内に例の多い拝殿である。

四周に切目縁をめぐらせ、柱間は各間とも開放。内部は広い一室で前面拭板敷となり、格天井がはられる。

規模が大きく、中柱上舟肘木の長さがは1.09mあって下端の流麗な曲線や面を大きく取った形式となっている。

市指定文化財である。

本殿

三間社流檜皮葺である。

本殿の建屋に関する最古の記録で現存のものは、元禄2年(1689)に書写されたもので、弘安元年(1278)の棟札を写した文章とのこと。

佐々木定頼により天文14年(1545)に社殿の修理が行なわれた。また、文政8年(1825)に修理された記録もある。

現在の本殿は明治27年(1894)に建造された。

このとき約1mの盛土を造りその上に本殿を建造し、本殿の周りには中門付き高塀が新造された。

また、このとき建造された本殿社屋は上賀茂神社(京都)のものが移築されたと記録がある。

境内社追来神社本殿(おふきじんじゃほんでん) 

1283年建築

国重要文化財:指定 1906・04・14

一間社流造 檜皮葺 

飛鳥時代以前に土地の守り神として祀られたとされる。中世に若宮権現とも呼ばれ、現在も通称になっている。

本殿は鎌倉時代建築で、それを記す弘安6年(1283)の棟札も併せ指定されている。この棟札は栗東歴史博物館に寄託されている。

一間社流造としては日本最古の遺構で、滋賀県最古の神社本殿建築でもある。屋根の桧皮葺は2008年に葺き替えられた。

正面柱間1.97m、奥行3.11m、一間社流造本殿としては中規模で、良質のヒノキ材で作られている。

荒廃著しく解体修理後は、向拝縁廻りに後世の改変が目立つが、蟇股は身舎(もや)のものにならって作り替えられた。

稲田姫社本殿

市指定文化財:江戸時代

一県社流造 檜皮葺

大宝神社本殿に向かって左手に建ち、追来神社本殿とは対称の位置にあります。永和元年(1375)に再建された。

正面の柱間が2.21mあって、追来神社より僅かだけ大きいが一見よく似た造りです。

桃山時代の建立だが、彫刻や装飾がすくなく、向拝の蟇股の他に、背面の頭貫に木鼻をつけるのみである。

木造狛犬1対

国重要文化財:彫刻: 指定:1900・04・07 鎌倉時代作

狛犬は、もともと獅子、狛犬が1対となって聖域を護るものとして造られてきた。獅子が阿形(あけい)、狛犬が吽形(うんけい)である。

作者不明であるが、運慶などの慶派の仏師が作者とされている。ヒノキ材寄せ木造りの作品である。

(阿形)47.3cm (吽形)46.7cm 阿吽1対である。

口を大きく開けて怒号する阿形は金箔押しで、たてがみと尾は緑青で彩られる。

口を閉じて上歯列を剥き出しにする吽形は銀箔押しでたてがみと尾歯群青彩としている。

耳も阿形は垂れているが、吽形はぴんと立てているなど対照的な変化をつけている。

迫力満点で、野獣を表現した美術作品として、これほどの秀作はないとされる。

現在狛犬は京都国立博物館に寄託されている。

木造狛犬

県指定文化財:1966・07・04 鎌倉時代作

造高(阿形)87.8cm、(吽形)90.0cm 重要文化財の狛犬に比べかなり大型の像である。

阿形の面部や吽形の面部左半分、その他肢先や尾の後補された部分が多い。

吽形は頭上に角を持ち、阿形にはこれがないことから、いわゆる獅子・狛犬の一対として造られた。

造られた年代は元享年中(1321~1328)で、ガラスの目玉が入っている。

現在は栗東歴史博物館に展示してある。

楠の木

樹高28m、幹の周り4.6m、推定樹齢300年

天高く天空にそびえる。まさに名木の貫禄を見せる楠ノ木である。枝の広がりは20mをコストされる。本当に神やどる木の感じがする。

 (参考文献:栗東の歴史。近江栗太郡誌、綣の文化と歴史、栗東の文化より抜粋)

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